「噂について」には、非常に難しい部分がある。
噂は評判として一つの批評であるといふが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無数の偶然的な基準があり、従つて本来なんら批評でなく、きわめて不安定で不確定である。(285ページ)
ここでは、「評判」と「批評」が対比されている。三木清は「評判」には「基準」がなく、「批評」には「基準」があるといいたいのだが、「その批評には如何なる基準もなく」と書いている。そのため、イタリア人青年は「批評には基準がない」と書いているため、よくわからない、というのである。これは「批評」という強いことば(名詞)にひっぱられて、その直前の「その」を見落としているためである。
三木清は「噂は評判として一つの批評である」と定義するところからはじめている。「評判=批評」。そして、その定義を受けて「その批評」と書いている。したがって「その批評」とは「評判」のことである。これが最初の「難関」といえる。
私が感心したのは、この「つまずかなければならないところ」で、きちんとつまずき、そこがわからないといえる読解力である。日本の高校生といっしょに三木清を読んでいたと仮定して、この部分で、「ここがわからない」と質問する高校生が何人いるだろうか。イタリアの青年はネイティブではない。日本語の学習者である。しかも、2年も学習しているわけではない。
噂はあらゆる情念から出てくる(略)ものでありながら噂として存在するに至ってはもはや情念的なものでなくて観念的なものである。--熱情をもつて語られた噂は噂としては受け取られないであらう。--そこにはいはば第一次の観念化作用がある。第二次の観念化作用は噂から神話への転化において行はれる。(286ページ)
この部分は、その後の「歴史」の問題(歴史と神話の違い)へとつながっていくのだが、「情念の観念化作用」を把握するのが難しい。「情念」はあくまで「個人的」で基準を持たないのに対し、「観念」は何らかの共有できる「基準」のようなもの、理性を持っている。
だからこそ、この部分は、こう言い直される。
噂は過去も未来も知らない。噂は本質的に現在のものである。この不動的なものに我々が次から次へと移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化していく結果になる。(286ページ)
「情念や合理化による加工」という表現に注目すれば「情念」と「観念化作用」が対比されていたように、ここでは「情念」と「合理化による加工」が対比されていることがわかる。つまり「観念化作用」とは「合理化による加工」のことである。そこには「合理化」という基準があり、それゆえに共有される。前の文章にあった「神話への転化」は「神話化」という短縮形で言い直されている。
どのことばが、どう言い直されているか。これを、「誘い水」を向けると、ちゃんと答えることができる。その結果として、文意を把握できる。
最後の方に、こういう文章がある。
噂の問題は確率の問題である。しかもそれは物理的確率とは異る歴史的確率の問題である。誰がその確率を計算し得るか。(288ページ)
この部分だけ読んだのでは、誰にも意味がわからない。「物理的確率」と「歴史的確率」の違いを説明できるひとはいないだろう。しかし、「基準」ということばを参照し、ことばを補うと、きちんと説明ができる。
ここでは詳しく書かないが、イタリアの青年(18歳)には、それができる。
いっしょに三木清を読んでいて、とても楽しい。何よりも、三木清の文章が大好きといってくれるのが、とても嬉しい。
私は三木清が大好きだが、だれか、三木清の文章が好きなひといます? 三木清読書会のようなものを始めたいと思っているのだけれど。