松井久子「疼くひと」(中央公論新社、2月25日発行)
小説、ということだが、これはよくも悪くも、映画のシナリオである。
つまり、ここに書かれている人間は、生身の人間(しかも他人)によって演じられてこそ、初めていきいきと動く。
私は映画も演劇も作ったことがないからいい加減なことを書くが、いい映画や芝居は、役者の肉体が、監督や演出家の意図を超えて動く瞬間を含んでいる。
ぜんぜん知らない人間が、私はここにいる、と肉体そのもので主張する。予期しない過去をさらけだすのである。
それに、観客はたじろぐ。私の肉体も、そうあり得たかもしれない、と。
この小説の二人の主人公は、予期せぬ他人に驚き、同時に新しい自己を確信する。それと同じように。
だからこそ、シナリオだと思う。ぜひ、映画に撮ってもらいたい。
そのとき、注文。
映画は245ページのカモメのシーンで終わってほしい。
その方が傑作になる。
女の映画になる。
女が主人公になる。
たぶん、多くの読者はこの小説の終わり方に納得するだろうけれど、それは男の小説の終わり方である。疑問がない。しかし、それでは読む喜びがない。