西川「読書を論ず」 | 詩はどこにあるか

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西川「読書を論ず」(竹内新訳)(「カルテット」7)

二行ずつの連が続いている。対句が続いている。
中国人は対(二つ、偶数)が好きである。1+1=2で世界が完成する。3から先は無限である。(と、私はかってに中国人の思想、肉体を判断している。)
この西川の詩は、対句構成が延々につづくので、ちょっと奇妙である、と感じたとき、ふっと、中井久夫がこんなことを書いていたのを思い出した。
日本人の論文とアメリカ人の論文は違う。その違いのために、日本人の論文はアメリカ人には通用しない。
どこが違うか。日本人の思考には中国思想が影響している。漢詩の構造に起承転結がある。日本人の論文は、この起承転結の形で書かれる。しかし、アメリカ人か起承承承承、、、結である。
私なりに言い直すと、日本人の思考は、書き出し+そして+しかし(あるいは)=(ゆえに)結論。
アメリカ人は、書き出し+そして+そしての延々=(ゆえに)結論、なのだ。
西川の詩は、対句という形では中国人の思考だが、簡潔な起承転結形を破り、そして(承)をつづけていくという点ではグローバル(アメリカナイズ?)なのである。

これが詩の感想かと言われると少し困るが、きょう考えたこと。