菅の「ことば」の特徴は、いつも「結論(答え)」だけがあり、「経過」がないということ。つまり「論理」がない。
官房長官のときは、すでに他人(安倍)が「答え」を出していた。記者会見ではその「答え」に対して質問が出るだけだから「問題ありません(安倍の結論が正解です)」でつっぱねることができた。
しかし、今度は自分で「答え」を出さないといけない。「答え」を出すためには、問題をどう解釈し、そこからどう論理を組み立てていくかということが求められる。その論理を組み立てた経験がない。
この論理を組み立てた経験がないということは、別のいい方をすれば、論理を組み立てることができないであるだけではなく、論理を組み立てることが嫌い(論理を前面に出してくるひとは嫌い)につながる。
これは、学術会議問題にあてはめると、そのまま菅の「生き方」として理解できる。
菅は、「論理を組み立て、その論理のあり方」を問題にする「学術会議(学者の方法)」が大嫌いなのだ。
「経過」を説明し、その「経過」の正しさで他人を説得するということが大嫌いなのだ。
そういう訓練をしていないのだ。
「goto」も経済を動かすという「結論」だけしかない。どういういときに「goto」をすれば経済が動くか、国民の健康と両立できるかという「論理的根拠」がない。
「事実」を分析し、それを抽象化し、理論にしていく。そのあと「答え」を仮説として提示する。さらに、その「仮説(答え)」が正しかったかどうか、「実証」の「結果」と照らし合わせて、ほんとうに「答え(結論)」が正しいかどうか見直すという方法が確立されていない。
「答え(結論)」のために、それ以前の「論理」を作り替えてしまうという安倍の手法が、「論理」を作り替えることのデイない「現実(コロナ感染)」の前で破綻したとき、どうしていいかわからなくなっている。
コロナウィルスは「官僚」ではないから、「論理(感染経路や感染拡大の数字)」、「結論(gotoが正しい)」にあわせて説明してくれない。
コロナウィルスは「官僚」ではない(方針に反対なら「異動させる」)という具合に行かないのだ。
官僚が「しりぬぐい」をしてくれない問題に直面したとき、菅には何もできないのである。
安倍にしてもおなじである。
そういうい意味では、菅は安倍を「継承」している。