嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(106) | 詩はどこにあるか

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* (たしかにぼくは過ぎ去つていつた)

ふりかえると
それぞれがあまりに遠い

 「それぞれ」と複数なのが興味深い。
 「ぼく」と「ひとり」であって「ひとり」ではない。それぞれのときと場所によって、そのときと場所の「ぼく」というものが存在する。
 そして、それが複数であるからこそ「たしかに」ということばも必要なのだ。
 「たしかに」は漢字で書き直せば「確かに」。「確認」なのである。
 そして、その「確認」は「過ぎ去る」という動詞に焦点を当てているのではなく、そこには一行目には書かれていない「それぞれ」に焦点が当たっている。そのとき、その場所で、それぞれの「ぼく」があらわれ、過ぎ去る。それは「消えていく」。いなくなる。
 あいまいな認識が、ことばを書くことで「たしかな」ものとなってあらわれてくる。


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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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