2020年12月06日(日曜日) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 私のスペイン語は独学である。独学でやっていると、突然、変なことに気がつく。

 「スペイン語で読む やさしいドン・キホーテ」という本がある(NHK出版)。
 
 En un lugar de la Mancha vivía un viejo hidalgo de costunbres muy peculiares.

 とはじまる。だいたい中級向け、ということになっている。そのため簡略化、短縮化されている。しかし、ラジオ講座の初級をうろちょろしている私にはチンプンカンプンである。日本語の対訳になっているのだが、それを参考にしてもぜんぜん読み進めることができない。
 ところが。
 せっかく読むのだから、せめて日本語版は全編、短縮されていないものを読んでみようと思い立ち、岩波書店から出ている前編・後編の二巻を読み始めた。やっときのう読み終わった。そして、さてスペイン語に戻るか、と思い読み直してみた。
 すると。
 これが、すらすらとまではいかないが、結構わかるのである。
 それで、気づいたのだ。
 ことばは、ことばを知っているだけではことばがわからない。逆に言うと、ことばを知らなくても「事実」を知っていれば、ことばはなんとなくわかる。さらに、たくさん何かを知っていれば、ことばはなんとなくわかるのだ。文法は関係ないのだ。
 日本語版は二段組で、前編・後編をあわせると1000ページを超えている。それを読み終わると、ドン・キホーテがどういう人間かわかる。サンチョ・パンサがどういう人間かわかる。「スペイン語で読む やさしいドン・キホーテ」に書かれていることは、そのほんのほんの一部である。だから、そこに書かれていることが全部手に取るようにわかる。それがスペイン語であっても。「知っていること」が「ことば」よりも多くないと、「ことば」は理解できない。
 あたりまえだね。「ことば」はどんなに頑張ってみても「現実」のすべてを語れるわけではない。「現実」の方が多い。「現実」を知っているから「ことば」が理解できる。「ひとは知っていることしか理解できない」と、あらためて思った。
 そして、もうひとつ。
 語学の勉強は、なんといっても「名文」を読むにかぎる。最初に引用した「ドン・キホーテ」はオリジナルは、こうである。(本の最後に、名文なので全文が紹介されている。)

 En un lugar de la Mancha de cuyo nombre no quiero acordarme vivía un viejo hidalgo de costunbres muy peculiares.

 とてもリズミカルである。意味がわからなくても、ことばが自然に動いているのがわかる。意味はあとからやってくる。

 いま日本では国語教育が見直されようとしている。高校の国語教科書から「文学」が追放されようとしている。しかし、それでは逆効果しか産まないだろうなあ、と私は思う。「文学」はたしかに実用的ではない。無駄かもしれない。しかし、無駄がたくさんあって、無駄どうしが淘汰しあって自然なことばが成り立つ。ことばを勉強するなら、やっぱり「文学」にかぎるのだ。多くの人が「名文(味わい深い)」と判断したものをたくさん読むにかぎるのだ。
 「やさしいドン・キホーテ」も読み通せないのに、私は、「文学」をもっと読みたくなってしまった。

 それにしても、『新訳 ドン・キホーテ』(岩波書店)の牛島信明の訳はすばらしいとしかいいようがない。私は目が悪いから一日三十分と決めてページをめくっていたのだが、ついつい我慢できずに時間をオーバーしてしまった。牛島の訳がすばらしいから、登場人物の動きがわかる。その結果、スペイン語の文章もわかる、ということにつながっている。