【福山御用】①精神と物質の和解と宇宙を変える空間認識 | 螢源氏の言霊

【福山御用】①精神と物質の和解と宇宙を変える空間認識





8月20日。


弾丸のような夜行バスに積まれ、早朝にたどり着いた地は、広島県福山市。


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私は生まれてこのかた、最も西端の地にやって来たということになる。



JR東福山駅。
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福山の、端然とした息吹を吸い込む。



西の果てということは、今まででもっとも遠くから日の出を見ていることになるのか。
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ここから更に西へと運んでもらう。
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なぜ、はるばる大阪からこの地まで来たのか?



いや、来たというより、導かれたからと言ったほうが適切かもしれない。 image



やってきたのは福山駅。目の前には福山城。
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ビルの物陰で曙光を避けつつ、潜伏地を探す。
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地下のマンガ喫茶を避暑地とする。
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この後、AV鑑賞と昼寝を繰り返した(笑)
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12時半頃。


刻限になったので、地下から這い出て集合場所である福山駅に向かった。


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このビルの地下にいたのだ。
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真夏の趣をみせる福山駅。
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さて、待ち合わせ場所にやって来たのは…
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おなじみの天下乃与太郎 閣下


本当にこの人とは良い腐れ縁だと思う(笑)



といっても、私をこの広島の福山に導いたのは閣下ではない。



我々を召喚したのは、左のオクト氏である。
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2009年、私が閣下に乗じブログを始めた頃、彼女は頻繁にコメントをくれ、持ち前の千里眼によって私の潜在能力を引き出した人だ。


また、閣下の御用の旅の先導役でもあるので、〝ヤタガラス〟という愛称もつけられている。



我々が案内されたには、なんとさっきまで私が潜伏していたビルの中だった(笑)
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オクト氏は神懸かり体験もあるらしく、もっと面妖な人かと思ったら、意外にチャーミングで驚いたが、初対面というのがさらに驚きだ。


なぜなら2009年当時、閣下のブログの熱心な読者はオクト氏と私ぐらいで、コメント欄にて顔見知りの如く三つ巴を展開していたからだ。


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だが、もっと驚くべきは、閣下が遅刻をせずに時間通りにおいでなすったことだ(笑)



大遅刻の例↓

【京都サミット2017】①酔いやまぬ魔界都市の洪水と魔性の渦



さすがは魔性の男、その言動は常に予測不可能というわけか。


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すると、ある怪しげな講演会に案内された。
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一体、なんの講演会かというと…。


数学・物理学者である佐藤博紀さとうひろき氏が主催する、「意識物理学研究所」の講演会だ。


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佐藤博士といえば、あの宇宙の仕組みをまごと解明してやろうという学問「ヌーソロジー」を物理学の見地から補強している人物だ。


この講演会には、ヌーソロジーの創始者である半田広宣はんだこうせん氏も講師としてともに参加しており、いわばコラボ企画ともいえよう。


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なぜ広島県福山市なのかというと、佐藤博士の地元がここだからだ。


今回の会は「第3回 物質と究極と人間の意識」という題名らしい。



ヌーソロジーといえば昨年、yumi21氏と共に関西支部の川瀬統心かわせとうしん氏の講演会に行ったので、概要は知っている。



物好きたちの夏と支配からの独立1 〜宇宙の説明書〜



講演会はまず、半田氏の「シュタイナーのいうエーテル体とは素粒子のことだった‼︎」という話題から始まった。


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内容を簡単にいえば…


現代科学は物質ばかりに偏っているが、もっと目には見えない世界も重視しようということ。


そのヌーソロジーの思想が、ドイツの哲学者のルドルフ・シュタイナーと通底しているという主張だった。


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事実、ヌーソロジーは、唯物主義でも精神主義でもなく、それらを超越した「霊的唯物論」、いわば〝物心一体論〟を思想としている。


すなわち、物質(科学)と精神(霊的世界)の橋渡しをするのがヌーソロジの役割らしい。


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また、物質と精神を完全に分離した、17世紀の哲学者・デカルトの物心二元論こそが、諸悪の根源だというのも有名な話だ。


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(※講演会ではデカルトの話題はなかった)


物質と精神を分離したことが、近代合理主義の根幹となり、そのせいで環境破壊や資本主義の暴走が起こったと言っても過言ではない。



休憩中、喫煙室で半田氏と談笑する閣下。
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そして続いて、佐藤博士の「物理学とイデア」という話題だったが、私が文系であるせいか、なかなか難解に感じた。



同じく文系の閣下は…(笑)
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だが、両氏の話に共通していたのが、量子力学という物理学の最先端をゆく学問で、これなくしてはヌーソロジーは語れないのだとか。



そこで、某ミステリー小説で知った量子力学の知識を参照すれば・・・


観察者が観察して初めて、その観察対象物の性質が決まる」というものらしい。


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つまり、あなたが箱の中身を観察するまでは、その中身は決まっておらず、また人類が滅べば宇宙も消滅してしまうという理屈になる。


デカルト以降の科学界の常識をひっくり返してしまったのが量子力学で、その理論はもはや、ほとんど仏教の思想だと言って良い。


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量子力学の理論を換言すれば「観察(認識)が対象物の性質を決める」ということになるが、これは「唯識ゆいしき」という仏教思想そのものだ。


初心者の私にとっては、学を究めるというより半田氏と佐藤博士という傑人を拝みに来たか、ライブとして世界観を体感しに来た感覚だ。


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ただ確実に言えることは、もしヌーソロジーが学問の中心になれば、人類が救済される可能性すら秘めているのである。


なぜなら、人の悩みのほとんどが自分の性格や認識が原因であり、自分の認識こそが世の中を作っていると気づけば悩みが消えるからだ。


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なかでも、半田氏の「空間を〝幅〟として認識するから、宇宙が膨大なものになってしまう」という言葉が印象的だった。


ヌーソロジーでは〝奥行き〟という空間認識を重視しており、これに相対する概念の〝幅〟は唯物主義の空間認識らしい。


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最新の科学でも、宇宙論のほとんどが科学者の頭の中の理屈に過ぎないと言われており、私も膨大すぎる宇宙論に不気味さを感じていた。


ヌーソロジーいわく…


この世でもっとも小さい物質である素粒子も、この世でもっとも大きい物質である大宇宙も、実は一つしかないし、同一の存在なのだとか。


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ヌーソロジーから言わせれば、近代科学の前提そのものや空間認識がそもそも間違っており、それが人類の意識進化を阻んだ原因らしい。


おおよそ実生活とかけ離れた領域の話題だが、宇宙論なくして人生哲学はなく、知的な領域の拡充こそが精神と人生の豊かさを表すものだ。



懇親会の会場にやってきた。
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まぁ、人生、生活に必要なことばかり考えてもツマランし、むしろ非日常的で哲学的なことを考えたほうが、逆に生活が充実するものだ。


反知性主義になっては猿と同じなので、感性と理性の二刀流をもって知的好奇心を広げてゆくことが、人生の幸福そのものと言って良い。


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とは言えども、私はまだまだヌースについては未理解だが、yumi氏やオクト氏よって講演会に導かれているのもひとつの縁なのだろう。


どうやら私には、精神世界を開拓し、また究明するという使命があるようだ。


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THE 菜食。
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私の座席の左隣が閣下、そして右隣が奇しくも佐藤博士だった。


博士も菜食らしく、気が合うと思った(笑)



佐藤博士のツイッターのアイコン。
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↑実はこれ、2年前にオクト氏から依頼されて描いたものだ。


それを博士が使ってくれていたので、お互いに顔見知りのような感じで、講演会の休憩の時に博士から声をかけて頂いた。



博士「やっぱり、難しいですよね

将軍「けど、いつかは絶対理解したいですね

博士「ありがとうございます!その意気込みが大切なんですよ。一緒に学んでいきましょう



依頼され、こんな絵も描いていた(笑)
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なぜ、絶対に理解したいのかと言えば、純粋に分からないというのが気持ち悪いからだ。


文系だから分からんともぼやけるが、そもそも文と理は一体であり、理系と文系を分けたのもデカルトである。


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まぁ、10年後ぐらいには今よりも理解が進めば良いと思う(笑)



なにやら図解をして博士に問う閣下。
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閣下は瞑想によって、感覚的にヌーソロジーの世界観を体得しているという按配で、半田氏や佐藤博士からも一目置かれている。



博士とタッチ交代で、半田氏が隣に。
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閣下が半田氏のことを「半勃ち先生」と呼んでいたのが面白かった(笑)



オクト氏が撮影。
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当初は博士と閣下と私のスリーショットだけのつもりだったが、ノリで大集合(笑)


左から、ある物理学者氏、理学派の佐藤博士、感覚派の閣下、降臨派の半田氏、集合写真では斜めに構える派の鬼将軍。


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なぜ我々は、ヌーソロジーを学んでいるのか?それは言うまでもなく思想と世界観が一致しているからだ。


具体的には、意識進化と人類救済という思想、この世は幻であり、そもそも人間の空間認識は間違っているという世界観だ。



つづく。