【大神記0】目次 〜大神信房と摂津和泉の戦い〜 | 螢源氏の言霊

【大神記0】目次 〜大神信房と摂津和泉の戦い〜




大神記(おおみわき)とは、

南北朝時代の謎の武将・大神信房(おおみわ のぶふさ)について取り上げた歴史記事シリーズである。





詳しくは、大神信房 - Wikipedia (鬼将軍作成)を参照。

当シリーズの目的は"封印解除"!奇想天外な手法で、歴史の闇を照らし、嘘を暴き、謎を掘り下げて、信房の姿を蘇らせる!





大神記シリーズの過去記事


(大神氏の家紋:三本杉)


【大神記3】歴史の封印を解除せよ!

【大神記4】大神信房と北畠顕家の絆





信房についてわかったこと(事実&推定。2014年10月より調査・考察を開始。)



①奈良の大神神社 の神官であり、大神氏の人物。通称は神二郎(しんじろう)




大神神社といえば、日本一古い神社の一つ。そこの神主の次男として生まれた。




②南朝側の武将としても活動し、北畠顕家 に仕えた



北畠顕家は南北朝時代のスーパースター。少なくとも大神氏と北畠氏に親交があったことは明らか。信房と顕家が共に大阪で戦っていたと考えるほうが自然だろう。当時は神社関係者も合戦に赴く、ということはよくあった。




③記録では、1338年6月10日に大阪の阿倍野で戦死したことしか明らかでない



あまりにも記録が少なすぎる。だが、この一文からも南朝の武将として北朝と戦って戦死したことがわかる。実はこの日付、顕家が戦死した日と同じなのだ。これにて共闘していたことは明白である。




④顕家の軍師として、天王寺の戦いや石津の戦いに従軍していた可能性がある




中世、神社関係の人間は軍師として従軍することが多かったという。信房は武将&軍師だったのかもしれない。信房は占いなどをしていたのやも。石津の戦いで顕家は戦死した。




⑤顕家の遠征軍に従軍したのは、聖地・四天王寺を北朝から奪還するため



南朝にとって四天王寺は超重要スポット。信房や顕家軍は北朝・室町幕府の足利尊氏がいる京都を目指していたが、間違いなく北朝に奪われた四天王寺の奪還も目的だっただろう。




⑥古代大王(大物主=ニギハヤヒ)の末裔なので、怨霊化を恐れられ隠蔽・封印された




古代大王家である出雲族は日向族との争いに負け、王権を譲り受けた日向族が現在の天皇家となった。出雲族は天皇家に対して恨みもあるだろう。天皇家の子孫=北朝・室町幕府、出雲族の子孫=信房である。さすがの幕府も怨霊はコワい。




⑦遺体は戦没地(後の石宮龍王)、万代池、桃ヶ池に分散され龍王(=蛇)として祀られた




戦没地に頭部、万代池に上半身、桃ヶ池に下半身が埋められていると想定される。いずれのスポットにも大神神社で信仰されている龍王=蛇が祀られている。




同じ日に石津で死んだはずの顕家とすり替えられ、阿倍野に顕家の墓がある


偽書である『太平記』には顕家は阿倍野で死んだとある。しかし、顕家は堺市の石津で死んでおり、これは明らかに信房の存在を隠すために、北朝・室町幕府によりすり替えられたと考えられる。




⑨信房を殺して歴史から消した黒幕は、北朝・室町幕府の高師直 と思われる




室町幕府の執事(=No.2)として有名な高師直。かなりの悪役としても有名。信房と顕家の敵は師直である。顕家は師直の軍により殺された。信房を殺して、存在を封印するという判断をしたのも師直だろう。

天王寺の戦い・石津の戦いで、信房と顕家と戦い、二人を殺したのがこの男である。




⑩父である大神勝房は、南朝の武将・三輪西阿 としても猛威を振るった




実は大神神社は元々、北朝側である興福寺に従っていた。しかし、信房の死から2年後、大神神社の神主でもある西阿は、興福寺に逆らって南朝側につく。おそらく元々は信仰上・南朝側を支持していたが、強大な興福寺には逆らえなかったのだろう。そして、西阿はタイミングを見計らって堂々と北朝に反抗したと推測する。


きっと信房ら大神勢が顕家軍に加勢したのも、極秘のミッションということで行われたのだろう。表立って南朝に加担するのはこの2年後である。だから、大神神社の記録には信房が阿倍野で死んだことしか載ってないのだろう。




⑪記録上、なぜか信房が死んだ年に、兄の大神元房が生まれたことになっている



親族間の生年が矛盾しているというのは歴史あるあるだが、これも謎である。1425年の段階で兄の元房が87歳だとすると、信房が死んだ年に生まれてないとおかしい。実は
信房の兄じゃなくて息子だったりして。




⑫南北朝時代(信房)以後、大神氏一族は別の姓(三輪・高宮・神山)を名乗り始める



信房の息子を皮切りに、一族がこぞって大神の名を名乗らなくなる。南朝が負けたので、身を隠すために改名したのだろうか?大神一族は分散してもなお、南朝側に従っていた模様。




⑬信房の子孫は、豊臣秀吉の甥である関白・豊臣秀次 で途絶えている



なななんと、信房の子孫にあの関白・豊臣秀次がいたことが発覚した。南北朝時代から約250年後の戦国時代になってやっと、豊臣家=南朝の天下がやってきたことになる。しかもそれが大神氏の子孫だとすると、古代大王のニギハヤヒの復権ということになる。


通説では、秀次は秀吉に
謀反を疑われ、高野山に追放され切腹させられたとされているが、最近の研究で、秀吉はただ秀次に高野山での隠居を命じただけで、切腹までは命じていなかったことが明らかとなった。私は秀次は高野山で北朝に暗殺されたと推測する。




⑭同じ南朝の楠木正成 の子孫・アストロ総裁 の一族が偶然、信房の戦没地に移住する


共に南朝の楠木氏と大神氏にも交流があったことが記録に残っている。信房と正成は語り合ったことがあったのかもしれない。信房は自分の戦没地に、正成の子孫の一族を招いた。霊媒師の助言により、総裁一族は阿倍野にやってきたらしい。




移住した総裁一族の家(戦没地)で白蛇の祟りが起き、石宮龍王の祠を建てて祀る



もちろん昭和の段階では、総裁一族は自分たちの家が信房はおろか武将の戦没地であることは知らない。しかし、白蛇の祟りなどが起きて庭に石宮龍王の祠を建てたらしい。

平成になり、総裁は石宮龍王と大神神社の関連に気づき、さらに実家の庭が大神信房という武将の戦没地であったことを突き止める。そこから、私も総裁と共に"信房発掘作業"に参戦することとなる。




⑯信房とも戦い、顕家を殺した北朝の細川顕氏 の子孫・鬼将軍が阿倍野近辺で生まれる



私は現在は堺市に住んでいるが、生まれたのは大阪市の住吉区である。阿倍野区の隣であり、信房の上半身が埋まっている万代池には、赤ん坊のころから両親に連れられてよく行っていた。


そして現在、私は顕家を殺したのが先祖(直系ではないが)の細川顕氏であったと知る。彼は高師直の家臣である。信房が殺された現場にも、顕氏がいたことは容易に想像できる。その近くで私が生まれ育ったとなると、とても偶然とは思えない。




⑰徐々に明らかとなる摂津・和泉の戦い



1338年3月29日~6月10日の間に、天王寺石津阿倍野などで起こった、南朝の北畠顕家vs北朝の高師直の一連の合戦の総称を「摂津・和泉の戦い」と私は名付ける。

室町幕府打倒を目指し東北から進軍してきた北畠顕家と、それを阻止しようとする高師直の戦い。摂津は大阪市の天王寺と阿倍野、和泉は堺市の石津などを含む。これを包括した意味での、摂津・和泉の戦いである。



名の通り、この一連の戦いは大規模な戦争だったのだ。歴史的に過小評価されあまり有名な出来事として伝わっていないが、もしも南朝の顕家が勝っていれば、室町幕府は滅びていただろう。というぐらい重要な戦いだったのである。それぞれを別の戦として考えるのは広角的な視野とは言えない。この戦で顕家と共に大神信房も戦死した。



この大きな摂津・和泉の戦いと、大神信房の関係。徐々に明らかとなってきた真実。この記事は随時、加筆修正するだろう。Coming Soon!!