sd-1056〜寒くなると、僕は短パンを思い出す。 | 鈴木勝吾オフィシャルブログ「Smiling days★」Powered by Ameba

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夏が帰ってきたような気候から一転、秋をすっ飛ばして冬に突入したかのような寒さでございます。

朝起きた瞬間からもう寒い寒い。


朝からメンテナンスして、夕方から帰路につくわけだけど、これまた寒い寒い。


もう秋の情緒を超えて、冬の切なさ。

そしてまた朝から寒い寒い。

寒いからモフモフモフモフ

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夏はどんまいって感じだけど、笑。冬は羨ましいよ。

あなたはいつもリラックスタイムですね。

癒されるよ。


いつもこの急に寒くなって思い出すのは学生の頃の思い出、体育祭だったり収穫祭、文化祭。

体育の授業で寒くなってきたけど、短パンじゃなきゃいけなかった時の寒さ。友達と「うゔー寒むー」とか言って始める体育の時間、動いているうちに気が付けば体が温かくなってる。

体育祭も特別運動が得意ではなかった、ほんとに普通。笑、足が特別早いわけでもなく身体はむしろ小さい方だったし。それでもどこかウキウキしていた。
足元はいつも長いジャージではなく、短パンだった、上は着てたかな。そもそも小学生のときはジャージとかなかったな。今思い出した。
中学高校になってやっとジャージがあったな。なんでなんだろうか?今考えると不思議だ。
持久走とかもこの時期か。あれもきつかったな。

収穫祭や、文化祭も楽しかった。ちょうど寒くなる時期にやるんだよね、これまた。

少し寒くなると、ニットカーディガンとか着れるからなんかちょっと嬉しくて、制服で唯一自分が好きなもの着れるみたいな。
女子の皆さんは、みんな萌え袖的な感じでしたね。懐かしい。今のビッグシルエットブームに近いのか、女子は結構大きめをダボっと着てたな。

中学の体操着が一番よかったな。

高校のは学年ごとに色が違ったんだけど、うちの学年は赤。しかも、シンプルなド赤。しかもジャージとTシャツどちらも前後に手書きのゼッケンを縫う。今となっちゃ気にならないが、当時は思春期、オシャレとか服とかを気にし始めてた年頃だったから、抵抗はあった。結局はすぐ慣れるし、おもろくなるんだけど。やっぱり赤い短パンを履いていたな。
中学の頃はハーフパンツだったけど、高校は何故かクォーターパンツ。

みじかっ!

ってなった。笑

まぁそれもそのうち慣れるんだけど。

秋になると、いやこう急に気温が下がると、寒空の下ら体操着を着ていたのを思い出すんだな。

寒くて文句言うんだけど。
あ、中学の時ね。

一方で、制服は衣替えで、ブレザーの着用が義務づけられていた。登下校時寒くて上にきるならブレザー、もちろん下にニット類を着ても良いし、コートを、着ても良い。
秋めいてくると結構な数でカーディガンやニットを着てる生徒が増えてくる、それもブレザーを着ずに。
これがまた許されなかった。寒いのならまずブレザーを着る。そしてさらに寒ければその他防寒着といった具合に。
しかし男女問わずオシャレ優先で、まぁそれが実際どうとかはともかく流行っていて、ニット類を一番のアウターにして登下校する生徒が多かった。

ここまでくると、もうどちらもご都合主義状態。
体操着は寒くてもある程度までは半袖短パン。制服はブレザーを着てくれという学校側。(あるいは体操着に関しては担当の先生によるものが大きかったような気もするけど、まぁそれは生徒にとっては先生個人が言おうが学校が言おうが同じものだ。)
そんな主張に対して、体操着はジャージを!寒いから着せろ、制服は寒いけどオシャレなニットでいいでしょう。というのが生徒側。もちろん全てじゃない。

寒いと感じたらジャージの着用を許し、やはり登下校はブレザーを着て、それでも寒い場合ニット類コート類の許可(もはやブレザーを着ずにニット、コートという者もいた)というのが両者がどちらも正当性のある解決策であると今では思う。

そもそも制服である以上、理にかなってなくてもルールだ!という言い分もこの世の中では珍しくないし、防寒着の着用は個々の自由だという考えもあるのだろうから、そのどちらも偏っているというのであれば、「理にかなった規則」を作り直さざるを得ないはずだからだ。

まぁ学校の制服や、衣服、私生活の乱れに関しては時代時代で対応も違うだろうけど、誰にでも平等で利益、不利益の偏らないルールって難しいものだ。
子供は家庭の中、そして学校という場でそのルールと対面し対決していくことになる。
短パンやニットだけの問題ではなくもっと種々の細かいところで矛盾を感じたり反発したりも当然だ。時には間違ってるし、時には子供の方が正しいこともあるだろう。


当時もそんなことを考えて面倒くさくなったところで、高校は校風が自由な高校に行った。
ほぼ校則ないに等しい。「自由と自立と自律」について説いている校則だった。髪や服装は自由だった、制服もない。正確には各々の自分の気に入ったデザインの様々な制服を着ていた。女子はセーラー服もいればブレザーもいる。その両方も。男子も、学ラン、ブレザーと色とりどり。もちろん、私服も。頭髪は緑とか金髪とかザラ、僕もだいぶ明るく髪を染めてた時期もある。
当然、法に触れるようなことは校則でも禁止されていた。

そんな高校では自由とは逆に怖いものでもあると学んだ。言い訳できないのだ。
その1つがなんやかんや制服きたくないのに、みんな何かしら制服めいたものを着てくるってことに表れていた。制服であればダサかろうがカッコよかよかろうがそれは自分の責任ではない。制服だからという最強の一言がある。ところがそれがなくなると、あくまで自分で選んだものだ。自分が関わってくる。もちろん単にめんどくさいってこともあるだろうが多くの生徒が何処かしらの制服をきていた。着崩してはいたけど。

自由とは自己を律すること。

そんな旨のことが校則にあった気がする。

ぼくの解釈はこうだ。案外、好きにしていいよと言われると人は困るもので、その中で自ら考え選び行動し結果が出る。他のだれでもない自分の責任で。その結果が成功でも失敗でも、それは自分に回帰してくるわけだ。そうなったところで自由という命題に対してほんとうに向き合うことになる。
自分がどうあるべきか、それは他人にとって、あるいは自らの行動目標にとって、そう考え選び行動する。そんなこと考えたことない!って人もいるだろうけど、自覚してないだけで、そんなことないと思う。なにかしらの目的があるはずだ。
考え選び行動することはつまり自己を律すること。自分を自分で管理すること。

こんな小難しいことではないけれど、ぼくはそんな校風が大好きだった。「人の目」ではなく、自分で自分を見る「自らの目」を考えたから。自分ルール。

そうやって至極めんどくさいことを考える人間だなと自覚がありながら育ち、大人になり今役者をやってるわけだけど。それこそ、「人の目」の中で生かされているように思う時が多々ある。だってそうでしょう?この文章を読まれている瞬間もそうだ。
でもあえて「自らの目」の価値観で生きたいと思ってる。誰のせいにするでもなく、仮に誰かのせいで何か不都合なことあるいは状況に陥ったりするのであっても、それはそこから脱したり、解決できなり自分の能力の問題だと思うし、自分が自分をみて納得のいくように、人間の弱さに勝っていく人生でありたいと。自分が納得いくようにやっての失敗であれば仕方ないなと。

そんな大層な言葉っぽく並べてみるとみても、寒いから短パンじゃなくてジャージ履きたいんだよ!っていう未成年の主張することとなんら変わりないことだと僕は思う。履いてみればいい、怒られようがなんだろうがね。そしたらまた考えればいい。履きたいけど怒られたくない。その2つの感情に答えを出すのは自身だから。

秋になったら短パンじゃなくて長いなんかあったかいの履きたいよなぁ。

それだけでいいのである。

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Twitter始めた日に、いつもよりやたら携帯と一緒にいた俺、Part2。








Shogo Suzuki