前回の記事を9月下旬頃に書いて以降、将棋には一切触れていない。これは非常にいいことなので、今後も継続していきたいと思っている。さて、将棋をやらなくなると多少ではあるが自由時間が増えることもあって、その時間で最近はゲームをプレイしていた。

ゲームについては時間が確保できないこともあり、プレイする機会が歳を重ねるごとに減ってはいたが、それでも時間が取れる機会を見つけてはスポット的にプレイするような状態が続いていた。ところが今回ゲームに触れている中で、昨今のゲームに対する不満が爆発したので、今回はその不満について綴る。

 

年末年始にかけて、ロックマンエグゼアドバンスドコレクション(以下、アドコレ)というゲームをプレイしていた。おそらく20代後半~30代の方なら一度は遊んだことがあるだろう、ロックマンエグゼシリーズ各種を1本にまとめたゲームであるが、今回の私の怒りの矛先はコイツである。

 

対人戦を売りにしているゲームではあるものの、発売されたのは約20年前ということもあって当時はオンライン対戦の概念が存在せず、何人かで集まって通信ケーブルを利用して対戦を行う他なかった。

そういったことから「オンライン対戦の時代に発売されていれば更に評価されていた」という声が元々多くあり、アドコレにおいても当初はオンライン対戦非対応の予定であると言われていたが、これらの声の影響もあってかオンライン対戦実装のうえでの販売が決まった。

そしてこのオンライン対戦実装は私にとっても非常に期待できるものであり、そのため今回このゲームを購入したが、ゲームの上手い下手ではない部分における対戦環境構築のハードルの高さによって期待は見事に裏切られることとなった。

 

このゲームではバトルチップを集めて30枚1組のフォルダを構築し対戦するが、対戦における必須のバトルチップの一部はチップトレーダースペシャルを利用しなければ揃えることができない。

 

※各種用語の整理

バトルチップ:カードゲームにおける1枚1枚のカードとほぼ同義

フォルダ:カードゲームにおけるデッキとほぼ同義

チップトレーダースペシャル:いらないバトルチップ10枚と引き換え1枚バトルチップがランダムで入手できる機能(要はガチャガチャ)

 

チップトレーダースペシャルで排出されるチップの種類は非常に多く、目当てのチップが排出される確率は概ね1/2000(=0.05%)程度と言われている(まともな解析が行われているゲームではないので、通説による推定値)。そして多くの対戦用フォルダはこの方法でしか入手できないバトルチップを最低7~8枚は搭載しているので、目当てのチップが揃うまでに回すチップトレーダースペシャルの回数の期待値はファーストサクセス分布を考えることで14000~16000回にもなる。目当てのチップが出なかった場合、(原作ではオートセーブが障壁となり不可能であったが)アドコレではバックアップデータを復元することでリセマラが可能ではあるものの、それでも10連するのに1分程度はかかる。したがって1枚欲しいチップを入手するまでに2000回転させるとして3時間半程度は覚悟しなければならず、フォルダ完成のために7~8枚集めようとしたら30時間程度はガチャガチャを回すためだけのボタン連打に明け暮れなければならない訳だが、これはあまりにも非現実的な数字である。なお、私は正月休みを犠牲にしてトータル7時間程度リセマラを繰り返し、このゲームの対戦における最重要バトルチップ「エリアスチール*」の入手を試みたが、結局1枚も入手することができなかった。したがって実際の確率はより低く、必要な時間はより多い可能性がある。

 

という訳で正攻法で必要なチップを揃えることは実質的にほぼ不可能なので、必然的にこのゲームに用意されているチップのトレード機能を悪用した裏道を使わざるを得ない。具体的には何らかの方法でソフトを2つ用意し、片方のソフトAでバックアップデータを用意しておきもう片方のソフトBに必要なチップを送る。そしてソフトAをバックアップデータから復元して交換前の状態に戻し、以下この作業を繰り返すことで必要なチップを増殖させるという方法である。さて、ここで問題となるのはソフトを2つ用意する方法だが、

 

①自分でソフト(とハード)を2つ買う

②協力者に依頼する

 

の2通りである。①の方法は馬鹿げているので避けたい。よって②の方法を取るしかないが、結局ここがこのゲームの詰みポイントである。ゲーム内のトレード機能は募集機能が非常に貧弱なので必然的に外部SNSを活用するしかないが、これが私のような人間にとってあまりにも苦痛すぎる。

 

そもそも私のように他人と上手く付き合えないような人間は、趣味を選ぶ際にも「他人と関わらなくていい」という点を非常に重視する。将棋にしたってこの条件をクリアしているから始めたという部分が少なからずある。そして従来のゲームもそういった要請をクリアするものだったので趣味となった経緯があるが、近年のゲームはオンライン技術やSNSの発展によりそれなりのプレイスキルよりも他のプレイヤーとの協力・談合の方が遙かに重要な傾向にあり、必ずしもその条件を満たさなくなってきている。アドコレにおいても、複数プレイヤーでの協力によるチップ複製行為はDiscord等、非常に狭いコミュニティの中で行われているものと思われる(少なくとも野良でSNS新規アカウントを取得せず、目的のために初対面の人間同士が集まっていきなり複製だけを簡単に行えるようなコミュニティはネット上に見受けられない)。そして私レベルの重度社会不適合者・人格破綻者ともなると実社会はおろかインターネット上の上辺だけの人間関係すらまともに構築することは不可能なので、アドコレをこれ以上掘り下げてプレイすることが不可能となった。

 

なお、談合・協力の重要度が極めて高い他のゲームとして、私がプレイした中ではFF14が挙げられる。このゲームも絶と呼ばれる最高難易度コンテンツをクリアしようとすれば、同じ人間と固定のパーティを組み、100時間単位でDiscordの音声会話を用いた協力を強要される。そしてその際に求められるのは中途半端に高いプレイスキルよりも、パーティが解散とならないように人間関係を維持できるコミュ力である(ただしよっぽどプレイスキルが高ければ話は別で、好き勝手言っても許される特別席が用意される。プレイスキルが滅茶苦茶高ければクリアするうえで必要な存在なので、多少人格が破綻している分には許容される)。私がFF14を深く掘り下げず、その1つ下の零式までで満足した理由はそこにある(零式レベルなら後発であれば野良の極めて希薄なその場だけの繋がりでどうとでもなる)。

 

加えてアドコレだが、本当に100万本売れたのかと思えるぐらい対人戦が過疎っている。Switch版はまだ人もいそうな雰囲気だが、私がプレイしているSteam版はおそらくほとんど人がいない。つまり対戦相手の募集においても外部SNSを活用しなければならず、これではオンライン対戦の本来の強みである「いつでも気軽に対戦」が活かされている状況とは到底言えない。

 

調べたところエグゼシリーズはシリーズ完結後~アドコレ発売前も一部コミュニティにおいて実機を持ち寄って定期的に有志によるオフ会が開催される形で存続していたようだが、今のアドコレの「一部狭いコミュニティでチップを増やし合い、その中で対戦し合う」という状況はハードの種類が変わっただけでアドコレ発売前の状況と大差ない。であれば、このゲームが発売された意義そのものに疑問を感じざるを得ない。

むしろ「実機+GBA」の方が「アドコレ+PS4 or Switch or PC」よりも金銭的な意味で一人で2台分のトレード用環境を確保しやすい分、トレーダー限定チップを揃えるという観点では発売されてマイナスの可能性まである(ただし実機はバックアップデータから復元できないので複製は不可。一方で対戦必須チップの多くはシナリオ上で1枚なら確定で入手できるので、片方のデータで目当てのチップを入手するまでシナリオを複数回進めれば事足りる。これでもチップトレーダーを回すよりかは遙かに楽)。

 

アドコレやFF14は一例かもしれないが、他のゲームにしたって近年はコミュ力の要求水準が高くなっており、我々社会不適合者のコミュ障はゲームにおいても居場所を失われつつある。

大体今回挙げたアドコレの例のように、大学の定期試験における過去問集めみたいな苦行を何故バーチャルの世界(あるいは趣味の世界)でまでやらなければいけないのか。

このような状況と、そもそもゲームをプレイする時間の確保が困難になってきている状況を鑑みて趣味からゲームを外す案が自分の中で元々出ていたことを踏まえて、いい歳なのでゲームとはそろそろ距離を置くべきであると考えている。

前回の記事の続きである。

 

今回、将棋から離れるために、「将棋引退の妨げとなっている要因(主に心理的なもの)は何か?」を考え、そしてそれらを解消するための策を徹底的に考えた。それらを以下に示すとともに、最後には将棋引退の追い風となってくれた出来事についても簡単に触れる。

 

1.将棋引退の妨げとなっている要因

<要因1 棋力の維持がしたいと考えている>

いくら最終目標である24初段をクリアしたからといって、そこで完全に将棋をやらなくなれば棋力は間違いなく落ちていく。そうなると過去に達成した最高レートに対し、「これが私の成し遂げたことです」と胸を張って言える自信がなくなってしまう(当然ながら誰かに言う機会なんてなく、気持ちの問題)ので、最低限棋力を維持するために指しておこうという考えが無意識のうちに働いている。

 

<要因2 ルーティン依存>

発達障害気質の人間は、同じ動作や作業の繰り返しに大きな安心感を感じてしまうものである。仮にそれが楽しいと思ってやっていることでなくとも、「同じことを繰り返しできている」ということ自体に安心感を感じてしまう悲しい宿命を背負っている。

 

<要因3 最高レート更新の可能性を捨てきれていない> 

流石に24で三段以上になってしまうと現在の最高Rから離れすぎていて無理だと思うのだが、二段ぐらいだと最高Rから数十点なので、なんとかなりそうだと錯覚してしまう絶妙な位置にいるのがよくない。

24の初段を目指していた時は、達成が危ぶまれる中で「初段のラインを1点でも超えることができれば、そこで満足してそれ以降将棋にはもう深く関わらない」と考えていたにも関わらず、月日が経つとこのようにさらに欲張った考えが生じるのだから、人間というのは贅沢な生き物である。

 

<要因4 「将棋からの撤退=頭の悪さ」と考えている>
私は元々学歴コンプ持ちで、自分の頭が悪いことに対してかなりの劣等感を感じている。そういった中で、「頭を使う競技である将棋から離れること=頭を使うことからの逃げ」のように考えている部分があり、これが将棋から離れるうえでの心理的な妨げとなっている。

 

2.解決策

<要因1の解決策 棋力の維持に対する見方を変える>

私の持って生まれた能力的に、これ以降将棋を指し続けても棋力が向上しないのは明白である。そうなるとこれ以降指す将棋には、現状の棋力を維持すること以外の目的が何もないことになるが、これを続けるとかなり遠い未来には、「対局数10000局前後の最高R24初段」といった悲惨な末路も待っている。そうでなくともこのまま将棋を続けていれば来年の2月には、将棋歴10年という大きな節目(これは自分の棋力と釣り合っておらず非常に不名誉)を迎えることになる。

やはり同じ棋力であっても、対局数が少ない方が価値があると考えるのが自然だろう。少ない対局数で到達している人のほうが間違いなく才能があり、そして将来的な伸びしろもあると言えるのだから。逆に対局数が多い割にそれに見合った棋力がないと、それは才能がないか壊れたテープレコーダーのように何も考えず将棋を指しているかのどちらかであることを意味し、そして世間一般的にはどちらの場合であっても後者のような目で見られるので、同じ棋力でも価値が低いと言えるのは間違いない。

そのため、現状維持のために今後も定期的に将棋に触れる行為というのは、確かに棋力を維持することで過去に達成した最高レートが間違いなく自分のものであるということを再認識するという観点では意味があるのかもしれないが、その一方で無駄に対局数を増やすことで、過去に達成した棋力の価値を落としている行為とも言える。もし今後も将棋を続け、将来的に「対局数10000局前後、将棋歴10年以上、最高は24初段(しかも好調時だけで普段は上級タブ。酷い時は中級タブまで落ちる。)」の中年オヤジを爆誕させるぐらいなら、今のうちに将棋から離れることで「将棋は20代の時にやっていた。最高で約7年かけて24の初段までいった」という形で締めておいたほうが話としてまだ美しさがある。加えて、将棋に触れて無駄な時間を浪費しなくて済むというメリットも得られるのだから、今のうちに辞める選択肢を取らない理由が存在しない。

このように考え方を整理することで、要因1に関しては解決どころか、むしろ引退に向けてかなり前向きになることができた。

 

<要因2の解決策 本当にやるべきことに専念する>

これは将棋以外でも今後意識していきたい。私は元々「必要な限られた範囲のことだけと関わって生きていく」を座右の銘として掲げているのだが、最近は興味を持つ対象の範囲がやや広がりすぎている傾向にあり、この方針から離れた生き方になってしまっている感が否めない。将棋は最終目標である24初段を達成するためにやっていたのだから、それが達成された今将棋に関わる必要性は何もなく、脳や心理的なメモリスペースを確保するためにも一刻も早く離れる必要があると考える。

最近は将棋以外でもついつい中途半端に新しいことややる必要性のないことに手を出してしまうケースが増えており、その結果脳や心理的なメモリスペースを圧迫されているような感覚にストレスを感じている。そのため、ここで改めて自分が本来座右の銘として掲げていたような生き方を再認識することで、余計なことには手を出さず、可能な限り今ある手札の中でやるべきこと・本当にやりたいことだけに意識を集中し、専念していく中で将棋のような無駄なルーティン依存ではなく、良いルーティン依存を築けるように心がけていきたい。

 

<要因3の解決策① これ以上上達の見込みがないことを明白にする>

これに関しては、今年の初めに中級タブまで落ちたことに加えて、今回のレート大暴落によって5級まで落ち、またしても中級タブまで落ちそうになったことである程度明白にできたと思っており、不幸中の幸いであった。

 

<要因3の解決策② 「強い」、「できる人」の基準を上げない>

要因3において、さらに「何故最高レート更新の可能性を捨てきれないのか?」の理由を深掘りすると、そこには私自信の「『強い』、あるいは『できる人』」の基準が年々高くなっていってるという原因が存在していることが分かる。したがって、この部分を解消する必要があると言える。

要因2の解決策にも記載した通り、「必要な限られたことだけと関わって生きていく」という座右の銘を掲げる一方で、数少ない「今後関わっていく」と決めた事に関しては、それなりに深く掘り下げることで自らのアイデンティティとできるような生き方を目指してきた。これは「ただ守備範囲が狭いだけだと人間としての価値がゴミになってしまうから、自分で決めた狭い範囲に限っては、『ここまで行けばできる人』という基準をクリアすることで、人間としての価値を確立したい」と考えた結果とも言える。

そういった考えと元々プライドが高い性格が合わさって、私が「これと今後関わっていく」と決めたことにおける目標は、実際は世間一般の「できる人」の基準よりも高いレベルで設定されてきたのではないかと思う。将棋にしたって「世間一般のできる人の基準」で目標を設定すれば、おそらく24ではなく平均的な町道場やウォーズの初段といった目標になるだろう。統計学の勉強にしたって統計検定1級に目標を設定した理由は、「統計関連の資格では統計検定1級~準1級・アクチュアリー相当のものでないと価値がない」と考えたためであり、これも世間一般における基準より高く、「統計検定2級でとりあえずOK」と考える人だって世の中にはたくさんいる。

そしてこのように、元々の目標設定自体が世間一般の「できる」より高くなっていたことを踏まえると、自分が今まで投げ出さずに達成してきた事に対してある程度自信を持ち、そして自分で自分を褒めてやってもいいのではないかと思えてくる。逆にそのように考えないと、今後理想だけが延々高くなってしまい、実際にはそれなりに大変なことを達成しているにも関わらず満足感を得られないことで更に高い目標に憧れ、終わらない自分探しのスパイラルに巻き込まれてしまうのではないか。そのため今後は、これ以上「できる人」の基準を高くせず、自分が成し遂げてきたことに対して自信を持つように意識を変えたいと考えている。

そしてそのためには、インターネット上の情報を遮断することも必要だと考えている。インターネット上の「できる人」「できない人」の基準は、多くの場合発信元によるマウント取りが目的であるため、世間一般のそれよりも大分基準が高い。そして昔はそのようなマウント取りが一部の掲示板等に限ってしかも露骨に行われていたため判別が容易だったのだが、近年は多くのSNSでそういったマウント取りが行われており、しかも表向きは常識人を装ってステルスに行われるのだからより悪質度に磨きがかかっている。

 

(例):私は〇〇(=世間一般ではそれなりに難しい)を××(=凡人が○○をクリアするための努力よりも大分少ない)で達成できました!参考にしてください!

(例2):その界隈のトップ「〇〇(=世間一般ではそれなりに高いレベル)は精々基礎が最低限こなせるレベルなのでそれ未満の方はもっと頑張ってください」

 

これらは所詮マウント取りによって自己顕示欲を満たすために言っているだけなので情報としての価値はないどころが害悪以外の何物でもないのだが、何故かそれなりの実力者がオブラートに包んで発信しているというだけで「そうなのか」と騙されるアホが一定数いる。また、そうでなくても近年のインターネットは弱者が意見を発信しにくく(※)なっており、当然ある分野について調べると情報発信者がその分野においてそれなりに結果を残している人間に限られることから、自分の実力等を過小評価してしまい劣等感を感じやすいことも悪影響極まりない。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(※)

これの原因は、一部の弱者側にもありそう。すなわち、自分が弱者側であるにも関わらず、

 

①自分のことを強者と勘違いして強者側に回っている。

②自分が弱者側で強者にマウントを取られ搾取される側の人間だと分かっているが、強者の意見に賛同することで自分が強者であるという気分を味わいたい。

 

というゴミみたいな人間が一定数いることにも問題があるのではないか。なお、このうち①の典型は、一昔前に2chの学歴板でよく見られたマウント取りの「MARCHは3ヶ月」を真に受けて、どんな馬鹿でも3ヶ月で受かると勘違いした結果どこにも受からない、何の存在価値もない一刻も早く死んだ方がいい連中である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

こういったインターネット上の糞みたいな状況に攪乱された結果自らを卑下し、より高い目標を掲げ続けて延々と見つからない自分探しを繰り返してしまうリスクを回避するためにも、インターネットは今後、どうしても必要な場合以外使用しない方がいいのではないかと考えている。

加えてTwitterでも過去に書いたが、私が将棋人口の中でも将棋に対する才能・適性で言えば下位5%程度に位置していることは疑いようがなく、これはすなわち将棋プレイヤーを無作為に100人取ってきたら私よりも才能の無い人間が5人前後しかいないことを意味している。その5人だって、うち4人は低級タブのうちに嫌になって将棋を辞め、残りの1人も(24ではない)アマ初段にギリギリ届くか届かないかのところで辞めることは想像に難くない。そういった配牌が最悪の状況下で、脳障害当然のアホが常人の倍以上の膨大な時間を費やすことになったものの24の初段に到達できたことは、誇ってもいいのではないだろうか。ボクシングと同じように、将棋にも持って生まれた知能別に階級分けがなされていたとすれば、私は一番下の階級において有名な強豪プレイヤーになっていたことだろう。

以上のように考え方を整理する中で、「24初段で十分すぎるぐらい頑張ったのだからもう頑張らなくていい」という考えを強くすることができた。
 

<要因4の解決策 他に1つでもいいから頭を使う趣味を確立する>

正直将棋を辞めようとしたことは、将棋を始めた初期のころから頻繁にあった(この手のゲームにおける才能がないことは割と初期の段階から分かっていたため)。

そういった中で辞めることができずに今日にいたった理由は、要因4による影響が大きかったと思う。つまり、「将棋から逃げること=頭を使うことからの逃げ」と考え、それを認めるのが嫌だったから辞めるに辞めれなかった。

しかしそれは当時の話であり、今は統計学を趣味として確立できている。その中で最低限資格を取ることで、形に残るものも残せた。そのため、今は仮に将棋から離れても、それが即「頭を使うことからの逃げ」ではなくなっている(頭を使うことの中で将棋だけ合わなかったと考えることができる)。

「やはり将棋だけは受験や資格取得等、他の頭を使う分野とは明らかに異質だと思う。正攻法の上達法が全く通用しない。」-こういった考えは以前から持っていたが、他の頭を使う分野で何一つ形に残るものを残せていなかった状況では、それを主張してもイマイチ説得力がなかった。しかし統計学(の資格取得)で最低限結果を残した今なら、ある程度こういった考えを持っても許されるように感じている。

 

3.将棋引退の追い風

将棋引退を決意する追い風となってくれた要因として、近年のアマ底辺将棋界の腐敗は大きかった。具体的には「棋書を読み、プロの将棋から正攻法の戦術を学ぶ」という(少数派の)文化が終焉し、「都合のいい手順だけを広めるYouTuber、アフィブロガーから最低限の指し方だけを学び、極力相手が対策を知らないB級・奇襲戦法を使って楽して勝つ時代」へと移り変わっていったことである。その中でも嬉野流・鳥刺しの大流行により、今や最頻出の戦法となることでクソゲー化が進んだことは大きかった。私が今まで「クソゲーとは言いつつ完全に辞めるのはやりすぎか?」と躊躇していた状況から「ゲームとしても糞化が進んだし辞めよう」という気持ちにシフトしていったのは、嬉野流を普及してくれた嬉野宏明さんの功績も大きいです。この場を借りて感謝申し上げます。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

以上が私が思考に思考を重ねて辿り着いた答えである。これらの答えを振り返ってみてみると、「この部分は少しひっかかる・・・」という部分が全くなく、全て抵抗感・違和感を持つことなく受け入れられる。かなりいい答えを導くことができたと感じている。

 

これをもとにして、今後私の人生において二度と将棋に触れることがないことを心より願う。

前回の記事ではあまりに酷い不調を引いたため取り乱してしまったが、将棋から離れるためにはどのような考え方をすればいいのか、真剣に議論しなければならない時期が来ている。ただし、もし将棋から離れる場合であっても、自分の過去の最高Rから考え、好調時にはその最高レートを記録できると言える範囲のレートを持った状態で終わる必要があると感じていた。そうしないでそういった範囲よりも下のレートで終わってしまった場合、「棋力が衰えたから引退をした」、「引退時には好調時に過去の最高Rを記録できるほどの棋力を持っていなかった(=好調時すら24初段の棋力はなかった)」ということを受け入れた状態で離れることを余儀なくされる。仮に将棋から離れる場合であっても、離れた後に「将棋は昔やっていて、好調時に24初段ぐらいだった(そしてその状態のまま引退した)」と言えるような形にしておきたいというのが、人として当然の心情だろう。そういった心情から、とりあえず「好調時には初段」と言えると思われるレート1400程度まで戻した状態を作ったうえで、将棋から離れようと考えた。しかしそれが思うように上手くいかず、連敗に連敗が重なって中級タブまで落とされる一歩手前まで来ていたので、怒りをぶつけるために前回の記事を書いた。これが、支離滅裂で何を言いたいのか分からない前回の記事を書いた経緯である。

 

そんな状態ではあったが、なんとか目標としていた1400までレートを戻すことができた。

 

レート暴落から戻すまでのグラフ

 

暴落開始時点から底であるR1141(73局目)までの区間の勝率は23勝50敗で0.315だった。この間、5連敗が2回、6連敗が1回ある。その後は一転して好調になり、連勝に連勝を重ねて目標地点までレートを戻すことができた。メンタル的な部分の影響もあるかと思うが、そのことを考慮しても不調時と好調時で相手の指し手が違いすぎでは?と感じた。不調時には間違いなく一定数ソフト指しが混在しているものと思われる。

 

さて、今回レートを戻すことと同時並行で将棋から離れるための考え方を整理していたが、なかなかいい具合に考え方がまとまったので、今回ばかりは将棋から離れることができると自信を持っている。今までブログ・Twitter等で発言してきた「将棋辞める」は、正直負けが重なりすぎた際の苛立ちによる勢いのみで言っていただけのものだった。当然そこには、そのための綿密な計画や覚悟など存在していなかった。

しかし今回は、将棋から離れることを妨げる様々な心的要因の検証や考え方の変更等工夫を凝らし、事前に将棋から離れる場合であっても一切の心残りを残さないための十分な準備をすることができた。そしてそういった準備が整っている中で、後は目標のレートまで戻すことができればいつでも将棋からサヨナラできるという状態が続いていたので、正直今回レートを戻せた時にはかなり嬉しかった。これでもうこのゲームと関わらなくていいと思うと、本当に気分がいい。

 

どのような形で考えを整理したのかは、次の記事で書くことにする。

せっかく将棋を辞めるための思考・考え方を見つけることができたのに、レートが暴落しすぎて辞めることができなくなった。

今回整理した考え方においても、辞めるためには24R1400まで戻すことは必須。だが今の状態だとまた中級タブまで落ちることが目に見えているので、一生辞めることができない。

将棋によってあまりにも過剰なストレスを受けすぎたことにより、多分脳が委縮しているのだと思う。将棋以外でも最近頭が回らない。

 

私の人生をぶち壊した将棋が憎くて憎くてたまらない。

 

死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

しばらく24初段にも戻れていなかった中、少し前に好調が続いて初段と1級の間を反復横跳びする期間が続いていた。最高レート付近まで近付くこともあり、そうなると欲が出てしまうのが人間の悲しいところである。

こういった状況になると、全く考えていなかった24二段到達の可能性を考えてしまうので、本当によくない。もう将棋の勉強をする気がないこともあり、「こんなゲーム続けても仕方がない」という理性を保ちながら、しかしあと1つ2つ勝てば最高レート更新、3つ4つ勝てば二段にタッチできるという葛藤に悩まさる中で、折衷案として以下の案を考えてみたりもした。

 

・500局だけ我慢して指してみる。それで二段になれないならキッパリ諦める。

・勉強は将棋を指す日にルーティンで1題解いている5手詰め以外やらない。

 

最近は平日に将棋を指すことはなく、週末ぐらいしか指していない。そういった中では、500局を消化するのにもそれなりの期間が必要であり、折衷案と言いながら結構二段になれる可能性に期待をしてしまっている案であると言える。このあたり、私の流されやすい性格を反省しなくてはならない。実際好調が続いている間は、根拠もなく「最高レートにプラス4勝程度で二段だし、指し続けてればそのうち到達できるんじゃないか?」という考えすら頭をよぎったぐらいである(無論そんな簡単な話ではない)。

 

かくして上の方針にて将棋を指し続けようかと悩んでいる中、好調が続いているうちはよかったのだが、そんな夢をいつまでも見させてくれる程、将棋の世界は美しくない。こういった夢から目を覚まさせてくれたきっかけは、あと1つ勝てば最高R更新からの5連敗であった。しかもその5局、1局たりとも相手の指し方がまともではない。66歩に44歩とする相振り、筋違い角、2手目42銀等、対戦相手に殺意を覚えるものばかりであった。

 

 

上図は66歩に44歩とする相振りの図。

とりあえず角道を止める振り飛車を覚えた初心者が、他の指し方(この局面で言えば3手目66歩に対して居飛車にしたり、33角や32飛で相振りにする手)を覚えられていない中で、そういった指し方を覚えるまでの繋ぎで相手の形に関係なく角道を止めておく(66歩にも44歩と指す)というのは理解ができる。実際私も将棋を覚えたての頃はよくやっていた。

しかし、まがりなりにも有段タブの人間がこういう指し方をしているのを見ると無性に腹が立ち、負けた時には相手のことを〇したくなる。先手の3手目66歩は角道を止める振り飛車にしたいという手なので、手としての理屈がある。しかし後手がそれに追随して角道を止める意味は何もない。100歩譲って後手も角道を止める振り飛車にしたいと解釈するにしても、角道を開けたままにする選択肢と止める選択肢を残せる4手目32飛や42飛の劣化コピーでしかない。このような、4手目44歩よりどう考えても合理的な手があり、そしてその気があれば才能に関係なく向上が見込める部分においてすら別の事を覚える手間を面倒に感じ、将棋を覚えたての初心者同様の手法を用いている存在が有段タブにいることを認知したくない。それを認めてしまえば、「有段タブの下の方であれば、全く勉強する気がない人間でも才能があれば到達できる」ということを受け入れることになるからである(実態としてそうなのは分かるが、都合の悪い事実なので可能な限り知らないふりをしたい)。

 

あえて釈明するならば、3手目66歩に対して相振りにする場合32飛が最有力だが、ノーマル四間飛車やノーマル中飛車を指す人間の場合4手目に32飛を指してしまうと、そこで居飛車にされた時にどうしていいか分からないという事情があるのは私も承知しているところである。そしてこの構造は、まとめると以下のようになる。

 

3手目66歩に32飛は居飛車にされるとノーマル四間やノーマル中飛車で戦えない。66歩からの居飛車は明らかに不合理で後手有望そうだが、ノーマル振り飛車で戦えないのが嫌。

それを回避するために44歩として様子を見る。相手の形を見てから飛車を振れば、相振りで若干損するもののとりあえずいつものノーマル振り飛車ができる。

3手目66歩とする人間は結果的に44歩とするような奴を相手にすることになり、本来考えなくてもいいような不合理な局面を考える必要が生じる。

 

これは一例でしかないが、アマチュア底辺界の将棋というのはこの例のような「俺は自分が決めた範囲の事しかやらないから、面倒な部分はお前が対応してね」というある種の仕事の擦り付け合いのような状況が横行しており、そしてそのためなら理屈の部分は2の次3の次なのである。加えて将棋というゲームはその性質からこの例のように、不合理な手口ほど局面に関係なく発動させやすいので、真面目な人間と不合理上等精神の人間がいた場合、真面目な人間側が不合理な人間に寄り添わなくてはいけないという重大な欠陥が生じている訳である(しかも寄り添った場合に、それを咎めることが他の競技と比較しても極めて難しい)。こういった現象は他の競技等でもあるにはあるが、将棋程極端な例は私の知る限り存在しない。例えば私が最近取り組んでいる統計学の勉強では、明らかに不合理な考えは切り捨てることができる。むしろそういった不合理な考え方を持たず、本質的な部分を理解することが、より早く理解度を向上させることに繋がる。しかし将棋ではそのようなことが決してない。

 

また、常々言っていることだが、近年の検索汚染や安易に動画の視聴回数を稼ぐ手段の確立、すなわち嬉野流等のB級戦法奇襲戦法の類の普及によって、アマチュア底辺将棋界における主流はプロ棋界で見られるそれとは年々乖離が大きくなってきている。そういった状況もあってもはや将棋の勉強をする気は(仮に24二段を目指す場合であっても)一切ない。なので一時的に夢を見せられたこともあって計画した上記の折衷案も早急に捨て去ることにした。そのために、今後はインターネットを極力利用しないことが重要なのではないかと考えている。近年のインターネットは

 

①広告収入さえ得られれば手段を問わないコンテンツの増加

(例)

・いかがでしたかブログ

・将棋の嬉野大普及

②マウント合戦の過激化(表向きはマウント取ってませんよ感を漂わすから余計に陰湿)

(例)

・一流の実力者が「〇〇レベル(一般的に見れば実力者と言えるレベル)は基礎もできていないレベル」的な発言

→しかもマウント取られていることに気付かず実力者が言っているというだけでありがたがる馬鹿が大量発生

・明らかに一般人よりも少ない労力で結果を出した事をアピールしたいだけの「自分はこれで〇〇達成しました」

→これも上の例と同様、それで凡人でも目標を達成できると勘違いする馬鹿が大量発生。こういった例は以前から2chの学歴板の1年コピペ等があるが、近年はより深刻化。その癖若年層や中年の機械音痴へのネット普及に伴い嘘を嘘と見抜けない人間が増加したせいで、問題として取り上げられることは少ない。

 

によって情報コンテンツとしては悪化の一途を辿っており、「ggる奴は馬鹿」と言える一歩手前まできている。それに私のような流されやすい性格だと、上のような極端な例までいかずとも例えばインターネット上で自分と同じような棋歴で自分よりも少し強い人がいると、「その人に追いつけないか」という負けず嫌い根性を発症してしまうので悪影響極まりない。それで仮に少し上の目標を達成したとしても、次はまた少し上の相手に対抗心を燃やして永遠に満たされない不幸な結末を迎えるだけである。

 

過去に何度も言っていることだが、将棋における最終目標(24初段)は既に達成しているので、他人の動向に左右されず自分が考えた基準の達成をもって引き際を考えなければならないと痛感している。