前回の記事の続きである。

 

今回、将棋から離れるために、「将棋引退の妨げとなっている要因(主に心理的なもの)は何か?」を考え、そしてそれらを解消するための策を徹底的に考えた。それらを以下に示すとともに、最後には将棋引退の追い風となってくれた出来事についても簡単に触れる。

 

1.将棋引退の妨げとなっている要因

<要因1 棋力の維持がしたいと考えている>

いくら最終目標である24初段をクリアしたからといって、そこで完全に将棋をやらなくなれば棋力は間違いなく落ちていく。そうなると過去に達成した最高レートに対し、「これが私の成し遂げたことです」と胸を張って言える自信がなくなってしまう(当然ながら誰かに言う機会なんてなく、気持ちの問題)ので、最低限棋力を維持するために指しておこうという考えが無意識のうちに働いている。

 

<要因2 ルーティン依存>

発達障害気質の人間は、同じ動作や作業の繰り返しに大きな安心感を感じてしまうものである。仮にそれが楽しいと思ってやっていることでなくとも、「同じことを繰り返しできている」ということ自体に安心感を感じてしまう悲しい宿命を背負っている。

 

<要因3 最高レート更新の可能性を捨てきれていない> 

流石に24で三段以上になってしまうと現在の最高Rから離れすぎていて無理だと思うのだが、二段ぐらいだと最高Rから数十点なので、なんとかなりそうだと錯覚してしまう絶妙な位置にいるのがよくない。

24の初段を目指していた時は、達成が危ぶまれる中で「初段のラインを1点でも超えることができれば、そこで満足してそれ以降将棋にはもう深く関わらない」と考えていたにも関わらず、月日が経つとこのようにさらに欲張った考えが生じるのだから、人間というのは贅沢な生き物である。

 

<要因4 「将棋からの撤退=頭の悪さ」と考えている>
私は元々学歴コンプ持ちで、自分の頭が悪いことに対してかなりの劣等感を感じている。そういった中で、「頭を使う競技である将棋から離れること=頭を使うことからの逃げ」のように考えている部分があり、これが将棋から離れるうえでの心理的な妨げとなっている。

 

2.解決策

<要因1の解決策 棋力の維持に対する見方を変える>

私の持って生まれた能力的に、これ以降将棋を指し続けても棋力が向上しないのは明白である。そうなるとこれ以降指す将棋には、現状の棋力を維持すること以外の目的が何もないことになるが、これを続けるとかなり遠い未来には、「対局数10000局前後の最高R24初段」といった悲惨な末路も待っている。そうでなくともこのまま将棋を続けていれば来年の2月には、将棋歴10年という大きな節目(これは自分の棋力と釣り合っておらず非常に不名誉)を迎えることになる。

やはり同じ棋力であっても、対局数が少ない方が価値があると考えるのが自然だろう。少ない対局数で到達している人のほうが間違いなく才能があり、そして将来的な伸びしろもあると言えるのだから。逆に対局数が多い割にそれに見合った棋力がないと、それは才能がないか壊れたテープレコーダーのように何も考えず将棋を指しているかのどちらかであることを意味し、そして世間一般的にはどちらの場合であっても後者のような目で見られるので、同じ棋力でも価値が低いと言えるのは間違いない。

そのため、現状維持のために今後も定期的に将棋に触れる行為というのは、確かに棋力を維持することで過去に達成した最高レートが間違いなく自分のものであるということを再認識するという観点では意味があるのかもしれないが、その一方で無駄に対局数を増やすことで、過去に達成した棋力の価値を落としている行為とも言える。もし今後も将棋を続け、将来的に「対局数10000局前後、将棋歴10年以上、最高は24初段(しかも好調時だけで普段は上級タブ。酷い時は中級タブまで落ちる。)」の中年オヤジを爆誕させるぐらいなら、今のうちに将棋から離れることで「将棋は20代の時にやっていた。最高で約7年かけて24の初段までいった」という形で締めておいたほうが話としてまだ美しさがある。加えて、将棋に触れて無駄な時間を浪費しなくて済むというメリットも得られるのだから、今のうちに辞める選択肢を取らない理由が存在しない。

このように考え方を整理することで、要因1に関しては解決どころか、むしろ引退に向けてかなり前向きになることができた。

 

<要因2の解決策 本当にやるべきことに専念する>

これは将棋以外でも今後意識していきたい。私は元々「必要な限られた範囲のことだけと関わって生きていく」を座右の銘として掲げているのだが、最近は興味を持つ対象の範囲がやや広がりすぎている傾向にあり、この方針から離れた生き方になってしまっている感が否めない。将棋は最終目標である24初段を達成するためにやっていたのだから、それが達成された今将棋に関わる必要性は何もなく、脳や心理的なメモリスペースを確保するためにも一刻も早く離れる必要があると考える。

最近は将棋以外でもついつい中途半端に新しいことややる必要性のないことに手を出してしまうケースが増えており、その結果脳や心理的なメモリスペースを圧迫されているような感覚にストレスを感じている。そのため、ここで改めて自分が本来座右の銘として掲げていたような生き方を再認識することで、余計なことには手を出さず、可能な限り今ある手札の中でやるべきこと・本当にやりたいことだけに意識を集中し、専念していく中で将棋のような無駄なルーティン依存ではなく、良いルーティン依存を築けるように心がけていきたい。

 

<要因3の解決策① これ以上上達の見込みがないことを明白にする>

これに関しては、今年の初めに中級タブまで落ちたことに加えて、今回のレート大暴落によって5級まで落ち、またしても中級タブまで落ちそうになったことである程度明白にできたと思っており、不幸中の幸いであった。

 

<要因3の解決策② 「強い」、「できる人」の基準を上げない>

要因3において、さらに「何故最高レート更新の可能性を捨てきれないのか?」の理由を深掘りすると、そこには私自信の「『強い』、あるいは『できる人』」の基準が年々高くなっていってるという原因が存在していることが分かる。したがって、この部分を解消する必要があると言える。

要因2の解決策にも記載した通り、「必要な限られたことだけと関わって生きていく」という座右の銘を掲げる一方で、数少ない「今後関わっていく」と決めた事に関しては、それなりに深く掘り下げることで自らのアイデンティティとできるような生き方を目指してきた。これは「ただ守備範囲が狭いだけだと人間としての価値がゴミになってしまうから、自分で決めた狭い範囲に限っては、『ここまで行けばできる人』という基準をクリアすることで、人間としての価値を確立したい」と考えた結果とも言える。

そういった考えと元々プライドが高い性格が合わさって、私が「これと今後関わっていく」と決めたことにおける目標は、実際は世間一般の「できる人」の基準よりも高いレベルで設定されてきたのではないかと思う。将棋にしたって「世間一般のできる人の基準」で目標を設定すれば、おそらく24ではなく平均的な町道場やウォーズの初段といった目標になるだろう。統計学の勉強にしたって統計検定1級に目標を設定した理由は、「統計関連の資格では統計検定1級~準1級・アクチュアリー相当のものでないと価値がない」と考えたためであり、これも世間一般における基準より高く、「統計検定2級でとりあえずOK」と考える人だって世の中にはたくさんいる。

そしてこのように、元々の目標設定自体が世間一般の「できる」より高くなっていたことを踏まえると、自分が今まで投げ出さずに達成してきた事に対してある程度自信を持ち、そして自分で自分を褒めてやってもいいのではないかと思えてくる。逆にそのように考えないと、今後理想だけが延々高くなってしまい、実際にはそれなりに大変なことを達成しているにも関わらず満足感を得られないことで更に高い目標に憧れ、終わらない自分探しのスパイラルに巻き込まれてしまうのではないか。そのため今後は、これ以上「できる人」の基準を高くせず、自分が成し遂げてきたことに対して自信を持つように意識を変えたいと考えている。

そしてそのためには、インターネット上の情報を遮断することも必要だと考えている。インターネット上の「できる人」「できない人」の基準は、多くの場合発信元によるマウント取りが目的であるため、世間一般のそれよりも大分基準が高い。そして昔はそのようなマウント取りが一部の掲示板等に限ってしかも露骨に行われていたため判別が容易だったのだが、近年は多くのSNSでそういったマウント取りが行われており、しかも表向きは常識人を装ってステルスに行われるのだからより悪質度に磨きがかかっている。

 

(例):私は〇〇(=世間一般ではそれなりに難しい)を××(=凡人が○○をクリアするための努力よりも大分少ない)で達成できました!参考にしてください!

(例2):その界隈のトップ「〇〇(=世間一般ではそれなりに高いレベル)は精々基礎が最低限こなせるレベルなのでそれ未満の方はもっと頑張ってください」

 

これらは所詮マウント取りによって自己顕示欲を満たすために言っているだけなので情報としての価値はないどころが害悪以外の何物でもないのだが、何故かそれなりの実力者がオブラートに包んで発信しているというだけで「そうなのか」と騙されるアホが一定数いる。また、そうでなくても近年のインターネットは弱者が意見を発信しにくく(※)なっており、当然ある分野について調べると情報発信者がその分野においてそれなりに結果を残している人間に限られることから、自分の実力等を過小評価してしまい劣等感を感じやすいことも悪影響極まりない。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(※)

これの原因は、一部の弱者側にもありそう。すなわち、自分が弱者側であるにも関わらず、

 

①自分のことを強者と勘違いして強者側に回っている。

②自分が弱者側で強者にマウントを取られ搾取される側の人間だと分かっているが、強者の意見に賛同することで自分が強者であるという気分を味わいたい。

 

というゴミみたいな人間が一定数いることにも問題があるのではないか。なお、このうち①の典型は、一昔前に2chの学歴板でよく見られたマウント取りの「MARCHは3ヶ月」を真に受けて、どんな馬鹿でも3ヶ月で受かると勘違いした結果どこにも受からない、何の存在価値もない一刻も早く死んだ方がいい連中である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

こういったインターネット上の糞みたいな状況に攪乱された結果自らを卑下し、より高い目標を掲げ続けて延々と見つからない自分探しを繰り返してしまうリスクを回避するためにも、インターネットは今後、どうしても必要な場合以外使用しない方がいいのではないかと考えている。

加えてTwitterでも過去に書いたが、私が将棋人口の中でも将棋に対する才能・適性で言えば下位5%程度に位置していることは疑いようがなく、これはすなわち将棋プレイヤーを無作為に100人取ってきたら私よりも才能の無い人間が5人前後しかいないことを意味している。その5人だって、うち4人は低級タブのうちに嫌になって将棋を辞め、残りの1人も(24ではない)アマ初段にギリギリ届くか届かないかのところで辞めることは想像に難くない。そういった配牌が最悪の状況下で、脳障害当然のアホが常人の倍以上の膨大な時間を費やすことになったものの24の初段に到達できたことは、誇ってもいいのではないだろうか。ボクシングと同じように、将棋にも持って生まれた知能別に階級分けがなされていたとすれば、私は一番下の階級において有名な強豪プレイヤーになっていたことだろう。

以上のように考え方を整理する中で、「24初段で十分すぎるぐらい頑張ったのだからもう頑張らなくていい」という考えを強くすることができた。
 

<要因4の解決策 他に1つでもいいから頭を使う趣味を確立する>

正直将棋を辞めようとしたことは、将棋を始めた初期のころから頻繁にあった(この手のゲームにおける才能がないことは割と初期の段階から分かっていたため)。

そういった中で辞めることができずに今日にいたった理由は、要因4による影響が大きかったと思う。つまり、「将棋から逃げること=頭を使うことからの逃げ」と考え、それを認めるのが嫌だったから辞めるに辞めれなかった。

しかしそれは当時の話であり、今は統計学を趣味として確立できている。その中で最低限資格を取ることで、形に残るものも残せた。そのため、今は仮に将棋から離れても、それが即「頭を使うことからの逃げ」ではなくなっている(頭を使うことの中で将棋だけ合わなかったと考えることができる)。

「やはり将棋だけは受験や資格取得等、他の頭を使う分野とは明らかに異質だと思う。正攻法の上達法が全く通用しない。」-こういった考えは以前から持っていたが、他の頭を使う分野で何一つ形に残るものを残せていなかった状況では、それを主張してもイマイチ説得力がなかった。しかし統計学(の資格取得)で最低限結果を残した今なら、ある程度こういった考えを持っても許されるように感じている。

 

3.将棋引退の追い風

将棋引退を決意する追い風となってくれた要因として、近年のアマ底辺将棋界の腐敗は大きかった。具体的には「棋書を読み、プロの将棋から正攻法の戦術を学ぶ」という(少数派の)文化が終焉し、「都合のいい手順だけを広めるYouTuber、アフィブロガーから最低限の指し方だけを学び、極力相手が対策を知らないB級・奇襲戦法を使って楽して勝つ時代」へと移り変わっていったことである。その中でも嬉野流・鳥刺しの大流行により、今や最頻出の戦法となることでクソゲー化が進んだことは大きかった。私が今まで「クソゲーとは言いつつ完全に辞めるのはやりすぎか?」と躊躇していた状況から「ゲームとしても糞化が進んだし辞めよう」という気持ちにシフトしていったのは、嬉野流を普及してくれた嬉野宏明さんの功績も大きいです。この場を借りて感謝申し上げます。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

以上が私が思考に思考を重ねて辿り着いた答えである。これらの答えを振り返ってみてみると、「この部分は少しひっかかる・・・」という部分が全くなく、全て抵抗感・違和感を持つことなく受け入れられる。かなりいい答えを導くことができたと感じている。

 

これをもとにして、今後私の人生において二度と将棋に触れることがないことを心より願う。