なかなか衝撃的なタイトルをつけてみたが、ここのところ考えていることを総称すると、そんな表現になった。
きっかけは、このブログを書いたこと。
なぜお金のことを理解をしたいかというと、それはお金のことが不安だからで、どうにかそれを解消できないかと思っているからだ。
もう一つ。
月曜日、職場に行くのが本当に嫌だった。
仕事の内容が嫌とか、人が嫌とか、そういうことではない。
なのになぜか猛烈に嫌だった。
嫌というよりは、そもそもなぜ行かなきゃいけないんだ、という怒りのような感情だった。
それでも出勤してイヤイヤでも仕事をしていると、だんだんノッテきて成果をあげ、頼られたりする。
するとなんとなくそれが当たり前になって、ちゃんと仕事をすることが良いことのように感じられた。
以前の私であれば“これが行動療法か”と納得するのだけれど、今週はなんだか“飼い慣らされている”と感じてしまった。
“飼い慣らされている”
つまり私は、仕事の奴隷になっている、と気づいてしまった。
考えてみれば私たちは、不安という要素を媒体に、意に反して何かに従う=奴隷になっていないだろうか。
お金の奴隷…
仕事の奴隷…
家庭の奴隷…
コミュニティ(地域や学校や部活など)の奴隷…
社会(秩序や同調圧力や社会的正義といわれているもの)の奴隷…
一体いつから、それが当たり前になったんだろう?
大切なのは、誰かが奴隷を強いているわけではない、鎖をつないでいる訳ではないということ。
私たちは自ら白線を敷いて、その中にいる。
なぜならそれが安全だから。
まさにこれだ。
不安という不確実要素を打破して、自らの意思のみに従う選択をすれば、実はいつでも自由なのである。
鎖はどこにも繋がれていないし、白線に実際の壁はない。
いつだって、解放されている。
あとは自分がその勇気を持つだけだ。