妬みの本性 | ちびタンクのひとりごと

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先日、昇華できない思いについて書いた。



そのことに向き合うタイミングなのかな、と思い、改めて深掘りしてみた。



記事の中で、私が“許せない”と表現した彼女とは、もう2年以上会っていない。

多分二度と会うことはないと思う。

目の前にいないので、忘れて過ごすことはできた。

でも思いは消えない。

それは私の中でまだ生きているということだ。



以前、私の彼女に対する思いを深掘りしたとき、それは”妬み”だと気づいたことがあった。



まっすぐ捉えられれば“憧れ”でも良いはずなのに、“妬み”になるとき、

それは自分と同等、または自分より下と思っている相手が、自分が得てない何かを得た時、不当だと感じることらしい。



確かに、私は彼女が得たことを“不当”だと思った。

彼女はそれを得るに値しない人間だと思った。



なぜ値しないのか?



それは、彼女には情がないことだった。

彼女は堂々と野心家で、自分が登り詰めるためには仁義を度外視する人だった。




そんな人は、そのことを得るに値しないし、得たとしたら不当である。

それなのに、周りは認めている。

認めるなんて周りもおかしい。

そんなのずるい。



この”ずるい“というのが曲者で、

実は私は、本当は彼女を羨ましいと思っている。

私は必死に情を大事にして、仁義を大事にしているのに。

大事にしなくても認められるなんて。



私の中には、

「情はあるべきである」

「仁義は優先されるべきである」

という正義があった。

だから頑張ってきた。



でも、“頑張る”ということは、本当は無理してたんだ。



本当の私は、

情がない

仁義なんてどうでもいい

人間だったんだ。



それを、必死であるように見せていた。



なぜなら、それがあることが正義で、そうしないと認められないと思っていたからだ。


でも、そもそもそれが正義だというのは私の勝手な思い込みだったし、

評価を気にして自分を見せかけることこそ、自分と一致していない生き方だったんだ。




今回の深掘りで、三つのことがわかった。


①私には情がなく、仁義も重んじていないこと


②そもそも「情はあるべき」「仁義は優先されるべき」ことが正義ではない


③周りからの評価を気にする生き方な時点で、自分と一致していない



逆に言えば、本当の意味で自分と一致した生き方をしていれば、そもそも嫉妬や妬みなんて、起きないんじゃないかな。



ネガティブな感情もやっぱり大切な気づきにつながる。

やっとこの感情を手放せそうだ。