無投薬無医療での30年の病気治療・震え続け、濡れ続けた我が闘病の全記録➁ | 医者ギライ・クスリギライのための1日10分!医食同源・自然食実践ブログ

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~ 前回は、クスリ漬けの日々から無投薬無医療での闘病を決意するまで。

 

このことについて述べさせて頂きました。

 

今回は、断薬によって身に起こった症状。具体的な闘病の様子についてお伝えして参ります ~

 

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大学を出て、最初の就職先は生協。その後に私は、有機野菜の宅配会社に転職しました。

 

そこでは営業職に従事していたのですが、会社自体が

 

「自然・安心・健康!」

 

を謳っていることから、私は自分がアトピーであることを隠し続けていたのです。

クスリが強力なこともあってか、私の病気はほとんど知られることはありませんでした。私はこの病気をずっと隠し続けてきたのです。

ステロイド剤には自然な血流を弱め、抑制する薬効があります。よって顔などの皮膚の薄いところに使えば、黒ずんでしまう。血流障害による

“色素沈着”

この症状が起こしやすくしてしまうのです。ステロイド剤の多用は肌を赤黒く変えてしまう・・・。このことが長らく問題になっていました。

そこで2000年頃に、これへの対処策として解禁された薬剤が『免疫抑制剤』

 

免疫抑制剤は臓器移植などの際に使われるクスリなのですが、他人の臓器を移植すると受ける側は必ず

「拒絶反応」

を引き起こします。同じ霊長類ヒト科の臓器であっても生体はそれを異物と判断し、体内から排除するための拒絶反応を起こすのです。

この拒絶反応をそのままにしておいては、臓器移植は不可能になってしまいます。そこで使われるクスリが免疫抑制剤。

異物に対する拒絶反応、免疫反応、この防御反応を丸ごと力づくで止めてしまう。こうしたクスリがアトピー治療にも解禁されるようになったのです。

アレルギーは体内に侵入した異物を排除するための抵抗力の表れでもあります。

 

腎臓肝臓で処理しきれない異物を皮膚を通して、体外に排出しようとする。それが炎症や発疹の意味だと解説されるのです。

でもその異物への抵抗力をクスリの力でムリヤリ止めてしまえば、反応は出なくなる。

 

免疫抑制剤は赤黒くならない・色素沈着が起こさない、いわゆる

“奇跡のクスリ”

であるとして、2000年頃から医療現場で使われるようになりました。私はこのクスリを四年にわたって使い続けたのですが、そのせいか顔はそれほど赤黒くはならなかったのです。

 

免疫抑制剤の乱用は、体内の異物に対する抵抗力をマヒさせてしまいます。

 

かつてはアレルギーの人はガンになりにくいといわれていましたが、もはやそれは過去のこと。免疫反応を止めてしまうことは、異物や毒物の侵入に対して

 

「ノーガード」

 

になることを意味しているからです。私はステロイドと並行して、そんなクスリを毎日使い続けていたのです。

 




■2と3の大きな断絶
顔には免疫抑制剤。全身には最強レベルのステロイド剤。この2つを使い分けることで、病気をひたすら隠し続ける。

誰にも同情されたくない。誰からも病人のレッテルを貼られたくない。自分は武道家なのだから、常に強くあり続けなくてはならない。

カワイソウ・・・だなんて、どんなことがあっても絶対に、

「言われたくない!」

誰に対しても、心を固く閉ざし続けていたのです。でもそうした生活が4年ほど続いた後に、ついに破綻の時が訪れました。

 

長期にわたり、ステロイド剤を使用すれば最終的には効かなくなってしまう。アタマでは充分に分かっていました。それでもキケンを承知で、日々ものすごい量を使い続けていたのです。

クスリは私と社会とをつなぐ唯一無二の架け橋なので、手放すわけにはどうしてもいなかったというわけです。

でも、そのクスリがついに効かなくなってしまいました。2003年の春ごろから、これまでのようには効いてくれない。

大量のステロイド剤の長期使用により、私の体はもはや反応しなくなってしまったのです。

血液検査の結果を見ながら、年配の医師は私にこう告げました。

「もはや塗り薬だけでは間に合わない。今日からは飲み薬も出します。これはとても危険な薬なので1日に2錠だけ。それ以上は絶対に飲んではならない。このことを私と約束してくれますか?」と。

この小さなクスリ、その2錠と3錠との間にある大きな断絶。生きるか?死ぬか?を分けてしまうほどの巨大な断絶・・・。

生命を左右しかねない段階にまで、私はついに進んでしまった。一人暮らしのアパート帰るなり、感情が一気に噴き出しました。

自分ばかりがどうしてこんな目に合うのだろう。それなりに真面目に頑張ってやってきたはずなのに。

思ってもどうなるものでもないにも関わらず、自然とそんな感情があふれ出てしまったのです。声を上げ、嗚咽しながら泣き崩れた日のことを思い出します。


最強のステロイド剤を塗っても、もはや症状は収まってくれない。体は引っかき傷でボロボロになり、身動きすら困難になり始めていました。

 

それでも生きるためには働かなくてはならない。折れそうになるココロ、そして苦痛で動きがとりにくい体。

 

心身に叱咤激励を繰り返しながら、何とか有機野菜の宅配会社で仕事をこなし続けていたのです。

そんな折に、肥料も農薬も一切使わない。自然栽培の流通会社の社長から声をかけてもらいました。

以前から知己を得ていたのですが、一緒にやらないか?というありがたいお誘いを頂戴したのです。

有機野菜の宅配会社の中で、自然栽培の農産物を扱っていく。これが自然栽培と出会ってからの私の目的になっていたのですが、その試みはことごとく頓挫していました。

そんなタイミングで言葉をかけてもらった。このことをきっかけに私は会社を辞めて、インターバルもないままに、そのままスグに自然栽培の流通会社に入社することになったのです。

でもその時の私の体調は、すでに最悪の状態。精神力のみで五体を支えているような段階。

とにもかくにも、私は念願の自然栽培を扱う仕事に就くことになったのです。

 

 


■私の職務
私の仕事は新規事業。具体的には、自然栽培の個人宅配を立ち上げること。

 

社長からはこの野菜を全国に届けたい。君には個人宅配の責任者に

 

「なってもらうぞ」

このように告げられていました。体調は入社の段階では抜き差しならない段階にありましたが、ええい!あとは野となれ山となれ!

 

こうして個人宅配を立ち上げることを職務に入社することになったのです。

でもその時はあまりにも早く訪れてしまいました。手におびただしい数の水泡が発症するに至りました。

 

痛みと痒みとで、もはや精神力だけではどうにもならない。そんな状態になってしまったのです。

 

ツライ症状の中、それでも私は決意していました。以後、クスリは一切

 

“使わない”

 

自分の中にある治癒力、そこにすべてを賭けてみる。

自分はクスリを使うのに、農薬も肥料も使わないお米や野菜を人に勧めることなど絶対にできない。たとえどんなことがあっても自分は必ず耐え抜いてみせる。

自然栽培の生産者であり、“奇跡のリンゴ”で有名な木村秋則のリンゴの木も肥料を辞めてから7年間は一度も実をつけなかった。

それでも今では立派な実をつけているではないか。たとえ時間がかかったとしても、自分も必ず良くなっていく。

田畑から蓄積した肥料成分を抜く、自然栽培を志す農家がはじめに取り組む課題になりますが、私も長年の間に蓄積させてきクスリの成分。

 

これをすべて抜いていく。何があっても断固としてやり抜く。

「無投薬・無医療」

それによる闘病生活をやり抜く決意を固めていたのです。

転職した会社では働くことはできなかったけど、自分の中の自然治癒力にすべてを賭けてみよう。

 

そしていつの日か必ず元気になって、もう一度入社のお願いをしよう。

私の気持ちは固まっていました。でも、その社長は私の無投薬・無医療の闘病に理解があり、私が復帰するまでの間、待っててくれる。こんなことを言うのです。

 

入社後2週間で就業不能なら退職するのが世の掟のはず・・・。無期限で待っていてくれるだなんて・・・。

私はこのことに戸惑いと感動を覚えながらも、無投薬・無医療の治療が始まったのです。



■身動き不能へ
闘病開始は2003年夏。

この年は近年まれに見るほどの冷夏。とはいえ、恐ろしい寒さとおびただしい水泡に震え続ける日々。この先一体

「どうなるんだろう・・・」

とどまることのない不安と苦痛とが私を襲い始めました。

9月には仕事に戻る、そう決めて1ヶ月はどうにか耐えてみたものの、症状は深刻さを増していました。

水泡はひどくかゆいので、掻くとそこから水が流れる。水の量は日を追うごとに増えていきました。

 

今までクスリで固めていたものが、それを放棄した段階から堰を切ったかのように体外に流れ始めたのです。

8月は出てくる水の色が透明だったのですが、この頃になると黄色に変わり始めました。蓄積してきた薬剤などの異物が出始めた、直感的にそう感じていました。

血と共に体から流れ続ける日々・・・。水が乾くと固まって薄皮となる。体を動かそうとすると傷口とその薄皮に引っ張られ、ものすごく痛い。

 

そうするうちにほとんど身動きが取れなくなってしまったのです。

首には水が溜まってしまい、ブヨブヨとした3段首のようになりました。足首は通常の3倍くらいまでに膨らんでいき、絶え間ない鈍痛が私を襲い続けました。

足を高く上げるとラクになるので、その姿勢を保つように心がけました。鈍痛を緩和し続ける毎日。

顔は眉の上に水がたまり、鏡を見ると、ちょっと表現しがたい、お岩さんのような姿になっている。流れた水が固まって目が開かなくなる。

まつ毛が抜けるのを覚悟でセロテープで薄皮を取り除き、何とか視力を確保する日々。

アゴの下はザックリと割れはじめ、そこから毒血が流れ、やがて固まっていく。口も目も開かない、何をするにも不自由な状態になっていきました。

腕も足も腹も背中も陰部も何も、全身ほぼ同じような状態になったのです。

 

当時、付き合っていた女性がいたのですが、私の顔を見るなり、両目から涙が溢れ出ていました。

辛い毎日だったのですが、その中で気づきもありました。皮膚がものすごく柔らかくなっているのです。

ほんの少し引っかくだけでスグに水が流れ出テてくる。これは薬剤などの体内に蓄積した異物を体外に出す。そのための作用で、全身一丸となって、出すんだよ。

そんな合図ではないかと思っていました。しかし体力も気力も落ち始め、憔悴の度は深まっていくばかり。君の今の仕事は

 

“食べることだぞ!”

と、転職した会社で仕事を通して知り合った『買ってはいけない』の著者・環境臨床医の三好基晴先生からは、辛くても何でも、とにかく食べろ!

「吐いてでも食べろ!」

と電話やメールで厳しく言われ続けていました。無投薬で自然治癒力にすべてを委ねる以上、体力がすべて。

食べない限り治癒はない。だから懸命に食べ続ける日々が続いたのです。

 




■主食の意味
私たちの身体は、炭水化物、糖質をたくさん摂ることで必要な栄養分を体の中で作ります。

主食の米はその材料になるのです。米を媒介に体内でブドウ糖に作り変え、呼吸ととともに日々の

「活動源」

に変えているのです。

だからクオリティーの高いお米を食べることは、良い水を飲むこと、自然に呼吸すること、よく眠ること、これらと同じように本質的で根源的な営みになるのです。

おかずはいいから、米だけはなにがなんでも食べろ!この言葉のままに会社から定期的に送ってくれる自然栽培のお米を食べ続けた日々。

傷と皮が突っ張った状態で、背中を伸ばすことは辛いことでしたが、丸まった背中と腰とで何とか台所に立ち続けました。

割れたアゴの下は口を開くたびに裂けて割れ、そこから血が流れる。何とか口を開き、泣きながらお米を食べ続けた日々。

ほとんど開かない口だったため、食べ終わると周りにはご飯粒がたくさん付いているような有りさまでした。

食べることはものすごく辛いことでもあったのです。

私は自然栽培の米と少しの野菜を食べ続け、そのことで自分の治癒力を含めた生命力。命の力を引き出していく。

元の自然で元気な体に戻そうとする、体の営みを妨害しない。無投薬での初めての闘病は、このような経過を辿ったのです。

この間、多くの親しい人たちからは、とにかく放っておくのはまずい。

「病院に行け!」

とか、そんな状態で1人でいるのは無理。

「両親に話しなさい」

こうした忠告を受けていました。しかし私はこの症状に1人で耐え続ける決意でいました。

確かに両親にすべてを話して、炊事・洗濯・掃除から解放されたらどれだけラクになるだろうか・・・。心の中に迷いも生じました。

でもこんな状態を両親が見たら、何が何でも病院に連れて行くだろう。母親に涙ながらに説得されてしまえば、覚悟が揺らいでしまうかもしれない。

黙ってみていろ!、それは私の両親にはあまりに酷だと思ったのです。

こう考えるに至ると、たとえどうなっても、最後まで1人でやり抜く。そうした強い気持ちが湧き上がってくるのです。

私はこの治療を自分の体を使った実験と考えていました。12年も薬を使い続けたにも関わらず、一向に良くならなかった症状。

良くなるどころか真綿で首を締めるかのように、緩やかに悪化の一途を辿っていく。これがどうなっていくのかを耐え続けることで確かめてみたい。

どこかそうした気持ちがありました。そしてもし元気になれたなら、肥料も農薬も一切使わないお米や野菜を売る資格を与えられるのだろう。

そんなことを漠然と思っていたのです。

でも実際は余っていたクスリを目の前において、これを塗りさえすればたとえ一瞬であってもどんなに

“ラクになるだろうか・・・”

あと2時間頑張ったら塗ってしまおう、今日までは頑張って明日になったら、そうやって何とか日々を繋いでいきました。

この先、何年もこのままかもしれない・・・。ゴールの見えない闘病は尽きることのない不安との闘いでもあったのです。

 



■未来への希望
生産者の木村秋則さんのリンゴだって肥料・農薬をやめてから真っ二つに裂けた木があったではないか。

今の自分はその状態で、もう少しすれば必ずよくなっていく。そう自分に言い聞かせてみる。

 

でも木村さんのりんごの木は7年もの間、ただ1つの実すらつけなかった。果たして自分はあと7年も

「耐えきれるのだろうか・・・」

もう一人の自分がすぐに打ち消そうとする。それでもすべてを賭けて始めたこと、そうやって気持ちを整理し、余計なことは考えないように努めました。

最大の快楽でもあり、苦痛でもあったのが入浴です。湯船に漬かることは出来ないので、シャワーで突っ張った皮、全身を覆っている乾いた体液。

 

これらを少しずつ洗い落とす。たとえわずかな時間であっても、あの突っ張り感から解放されるわけですから、これはまさしく至福の時。

でもそれも束の間、入浴後には

 

“地獄の苦しみ”

 

が待ち受けているのです。体温の上がった全身を毒が駆け巡る、そうとしか言いようがない暴風に襲われ続けます。

この苦しさはちょっと表現し難く、うめき苦しみながら嵐が過ぎ去るのをただひたすら耐え続けるしかないのです。

嵐が去った後は疲れ果て、自然と眠りに落ちていく。この恐怖のあまり、短くて2時間、時には4時間も風呂場から出られない。そんな日々が続きました。

長時間の入浴による脱水症状を避けるため、ペットボトルを凍らせた水を常時4本持ち込みました。

「もうダメだ、もうやめてしまおう」

何度そう思ったか分かりません。でも決意は一時的に揺らぐことはあっても、元のクスリ漬けの生活にはもはや戻れない。

 

そこに戻ったところで希望はどこにも見当たらない。破綻を承知でクスリに頼る、そこには絶対に戻ることはできなかったわけなのです。

萎える気持ちを奮い立たせて、ひたすら時間が過ぎるのを待つばかりの毎日。初めての無投薬での闘病は、このように推移していったのです。

ある日、会社から送ってもらった無肥料・無農薬の自然栽培の野菜。調理できずに常温で放置しておいたピーマンとナスとがダンボールの中で枯れてミイラ化している。

 

このことに気づきました。植物の自然な姿に違うことなく実をつけ、やがて枯れていく。これを発見し、手にとってみた時、崩れ落ちるような感動を覚えました。

気持ちが弱くなるたびに、この枯れたピーマンとナスとを手にとって眺める。腐るのではなく枯れる。すると

「絶対に負けない!」

そんな強い気持ちが再び甦ってくるのです。また私の部屋にはパキラの木があったのですが、闘病開始からずっと水をあげられずに、枯らしてしまいました。

どうすることもできずにそのままになっていたのですが、ある朝、芽が出ていることに気づきました。

枯れてしまったこの木の中で一体なにが

“起きていたのだろう・・・”

そこに自分の今とこれからの姿とを投影せずにはいられませんでした。この小さな芽は私に何かを伝え、励ましてくれている。

無条件にそう信じ、必ず自分も元気になれる。この確信を強くすることになったのです。
(次回に続きます)

 

 

自然食業界キャリア15年のOBが綴る

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