昔の成人の日に平和を願う | shiz-7のブログ

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70歳の記念に始めてみました。
日本カウンセリング学会員で社会福祉士です。
結婚前は、東京大学宇宙航空研究所勤務。子育て中は、くもんの教室を15年、男女平等推進センターの相談員、社会福祉法人に20年勤めました。
今は毎日が日曜日。日常雑感を書いています。

元旦の新聞の「 声」欄に、「戦争しない国 ただそれだけ願う」という主婦の丸山さん ( 86)の言葉が出ていました。

私も同じ 思いだったので ここに残しておきます。

 

冬空の下に 畑の柿がまだたくさん実っています。 時々野鳥に食べられています。

 

とって食べる人もいなくて、 ただ地に落ちて腐るだけ。

この柿を見ていると 、理不尽な戦争や災害や政治のあれこれに気持ちを揺さぶられつつも、ただ 日常 を生きているだけの自分と同じに見えてきます。

でも、気持ちはあります。平和で安心な未来の日本を、子や孫たちに生きてほしいと、それだけです。

残念な日常には、もっと良い対処方法があるのでは?と言い、たくさんの意見も聞きたい気持ち。ネットの意見は、対話ではなく、其々の立場からものを言ってるせいか、噛み合うところがありません。右か左か?、損か得か?そういう立場や、損得を捨てて真剣に平和を考えた意見というものを聞きたいと心底思います。私が地に落ちる前にできるだけ。

 

いつもの内田先生のブログから、また共感を得ました。

(前略)

 

別にそれほど難しい話ではないと思います。これまでアメリカ論で繰り返し書いてきましたが、アメリカという国は「自由」と「平等」という二つの対立する統治原理の葛藤の中で250年を過ごしてきました。建国のときから現在までずっとそうです。フェデラリスト(連邦政府への集権論)とアンチ・フェデラリスト(州政府への分権論)の対立から始まって、南北戦争を経由して、現在の民主・共和両党の対立に至るまで、対立の構造はいつも同じです。自由か平等か、です。
 市民的自由をいっさい制約しないという道を選べば、強者が総取りし、弱者は野垂れ死にをする無慈悲な競争社会になる。社会的格差はひたすら拡大し、社会的流動性は失われ、国力は衰微する。
 平等を選べば、公権力が市民の私有財産の一部を取り上げ、生き方にもあれこれ干渉してきます。平等達成のために同質的な生き方が強いられ、才能のある人間も、独創的な人間も、居場所がなくなり、国力は衰微する。
 だから、どちらか一方を選ぶことはできません。「自由か平等か」という二者択一ではなく、「自由も平等も」という困難な共生の道を選ぶしかない。でも、この困難な課題を引き受けて来たせいで、アメリカはその国力を伸長させ、ついには世界一の超覇権国家になることができた。いまアメリカが衰運にあるのは、多くの市民がこの困難な課題を引き受けるだけの市民的成熟を放棄しつつあるからだと僕は思っています。いまアメリカが国民的に分断されているというのは、多数の人が二つの原理のどちらかにしがみつくようになったということだと思います。二つの原理のどちらをも成り立たせる方途を探ろうとする人がいなくなった。この状態が続けば、遠からずアメリカは国力が衰微して、グローバルリーダーの地位から転落するでしょう。

 僕は日本人は「天皇制」と「立憲デモクラシー」という二つの統治原理の葛藤を生きるべきだと考えています。ですから、「天皇制」単一原理の人から見れば、僕は(自分たちの仲間ではないから)「左翼」に見えるし、「立憲デモクラシー」単一原理の人からは(やはり自分たちの仲間ではないから)「右翼」に見えるはずです。
 僕について政治的なレッテル貼りをする人たちは、別に僕の政治的立場を説明しているわけではなく、自分たちが居着いている政治的立場が何であるかを告白しているだけです。
 僕は「右翼」と呼ばれても、「左翼」と呼ばれても、どちらでも構いません。それぞれの固定的な立場からはそう見えるんですから、仕方がありません。文句を言っても仕方がない。
 安彦さんとの対談で僕が「右翼です」と言ったのは、あれは挑発的な意図で申し上げたのです。僕は天皇制支持の立場ですし、武道で生計を立てていますし、禊祓いや滝行が大好きで、毎朝道場で神道の祝詞を唱えていますし、極右の思想家権藤成卿についての論文を書いています。ですから、左翼から見たら「完全な右翼」のはずです。
 でも、「完全な右翼」のはずなのに、マルクスを絶賛する本を書いているし、日本共産党の選挙運動を支援しているし、相互支援相互扶助共同体の再生というアナーキズムの実践をしています。そんな「右翼」は日本には一人もいません。
 僕は「右翼」とか「左翼」とかいう固定的な政治原理に「居着く」ことそのものに抵抗しているのです。それが「分派」者の意地です。
 分派者というのは「僕は左翼でも右翼でもないよ」ということではありません。勘違いしないでくださいね。その逆です。「僕は同時に左翼であり、かつ右翼である」ということです。「僕は同時に天皇主義者であり、立憲デモクラシー主義者である」ということです。複雑だし、困難な政治的課題ですけれども、僕は日本人が政治的に成熟するための道はこれしかないと思っています。(後略)