「何故に私達には瞑想が必要なのか」No.3 | シベンの体感型ワークショップ

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自身が長年取り組んで来ているタントラ・感情解放・瞑想を中心に語って行きます。

“瞑想は起こるもので、するものではない”と言う言葉があるが、マインド中心で生きて来た私達現代人は、先ず、瞑想を”する”という行為から始めなくては、そこに辿り着くことは難しい

人間には(人間以外の動物にもある)何かを毎日の様に繰り返し同じ作業をして行くと、やがて、それが上達して行くという能力が備わっている

それは、”今この瞬間に留まる”ということも同じで、瞑想という技法を使って、繰り返し、日々訓練して行く

そうすると、やがて、1人でに瞑想が起こる事が時々やって来る

瞑想が起こるとは”完全に全意識が今ここにある”ということ

たまに、瞑想すると意識がどこかの別の次元に行く等々の話を聞くが、僕の経験上、その様な状態は、単に、今ここから意識が遠のいて、夢を見ている状態に近くなっているだけであって、それは特別な何かではない

なので禅では、意識がもうろうとしない様に、目を開けての修行となる

瞑想においても同じで、”全意識を、今この瞬間に集中する”ことである

そして瞑想が起こる様になって来ると分かって来る

何かを考えて、忙しく動き回っていることが緊張を伴うのであって、考えないで、何もしないで、”今この瞬間に完全に留まる”ことが、本当のリラックス=”寛ぎ”に繋がって行くのだということを

そして寛ぎがない限り、自身の感覚と繋がって生きて行くことは難しい

なので、瞑想をして行くと、自然に直感的に動ける様になり、結果、マインドで行動していた頃よりも生活のリズムがゆったりとしたペースとなり、外への行動も、今までよりも減り、必然と1人でいる時間も長くなるし、誰かと一緒にいても、”内側で1人在ることを感じられる様にもなる=世間にいながら世間に交わらず”

なので”寛げる”のであって

逆に、普段から忙しく行動し、年がら年中人と会って、エネルギーを消耗し、疲れるという生活を繰り返している人は、緊張した完全にマインド志向と言えるだろう

もちろん感情の起伏も激しくなる結果となり、気持ちが落ち込んだり、上がったりという生活を繰り返し送ることとなる

瞑想性(今ここに留まること)が増して来ると、段々と人との関係性などの外側のドラマにも左右されなくなって来る

要するに、限りなく中庸に近く生きて行ける様になる

※ 中庸とは「かたよりがなく、いつも変わらない」といった意味の言葉です。

中庸の生き方が出来て来れば、自分の人生を誰のせいにもしなくなるし、当然、精神的にも誰の奴隷にもならなくなり、もう、愛想笑いは必要なくなる

そうなって初めて、どんな形であれ、自分の人生の全責任を自分自身で取り始め、同時に人生をコントロールしようとせず、”気付き”と共に流れに身を任せて生きて行ける様になる

そうなったら

当たり前のことだが、もう、誰の愚痴も出ない毎日となって行くだろう

“寛ぐこと=今ここに留まること”

このことは、生きて行く上で最重要なキーであり、武道や、スポーツ、または、仕事の商談などにも生かされて来る

要するに実生活全般において、直感を使って生きることとなるので、落ち着いて腹が座り、外側がせわしくとも、”穏やかな日々”と共に過ごせる様になって来る=本来の自分自身で生きる

皆、その”日々”が欲しくて、生きてくて、逆に、お金と時間と労力を使って動き回っているが、それでは本末転倒と言うことだろう

感情解放→2月11日(土)シベンのハートフル大作戦@大阪1Dワークショップ、2月19日(日)シベンのハートフル大作戦@名古屋1Dワークショップ詳細はホームページにて👇