以下の記事の事後報告です。
抗告許可申し立て書
(高等裁判所に、2審の判決に疑義があるので、
最高裁に、事実審の結果が正しいかというもの)
は予想通り却下されました。
普通に考えると、自分が出した判決が正しいかと
最高裁に問うのを許可するなんてないとわかると
思うのですが、第2審で突然、おかしな根拠で
判決を出されたとき、この抗告許可申し立て書
を出すしかないのが、今の司法です。
却下されましたが、
裁判官は、何が真実かを見つめる気がなかったので、この結果は当然ですが、
一方で、この却下があっても、
1) 身体障害者手帳に残っているように、
途中失明した母を看るために同居し、21年間できる限りのことを
した真実は変わりません。
2) 5年の保持期間を超えたため、医療記録はありませんが、
母が認知症になり、亡くなるまで軽度~中度で維持するために
食事・運動に気を使い、医療機関に連れた行ったことも
変わりません。
3) 母の死後、すでに80歳を超えていた父が転んで、
人工関節になり、トイレにさえ一人で行けず、
母と同様に、認知症(軽度)だったという証拠も残っていますので、
真実は変わりません。
4) また、父の約10年の詳細な通帳記録より、父が食費・被服費・家電費用を
出していないもの変わりません。
5) 阪神大震災および阪神高速防音工事のために、僕がローンを組んで
費用を返済したことは証拠とともに残っています。
最後に、それでも、裁判官は
1) 民法の「相互扶養義務」を同居しているものだけに適用し、
上記のすべては、特段に父母に寄与したとは言えない
2) 証拠の光熱費が父の口座から支払われていることのみを
部分抽出し、それが同居のメリットだった
など、証拠の恣意的利用と法の恣意的利用をして、
残存、遺産は法に従い、均等に子供に分割すべきとしました。
なんのために、
民法の「相互扶養義務」や「寄与分」があるのかわからないし、
「身体障害者関連法」も無視していいという
こんな裁判が日本で行われるとは想像もしていませんでした。
(出典:イラスト素材:おどろく人)
裁判官も
という言葉を心に留めてほしいと願っています。
ただ、僕にとって大事なの
「真実としての行為」であり、
「天国に宝を積む」
ことで、
「地上のお金」は「カエサルもものはカエサルに」
返せばいいと思っています。
ただ、
近いうちに、父母と暮らした自宅を出で、
新しい場所で生活を始めなければならないか、
父母と暮らした自宅で、その修繕などの費用を僕が出した
自宅をお金を出して買い取らないとかも知れないのは
釈然とはしませんが・・・
まぁ、これも、
なぜかお金に執着している兄妹に
「お金をあげる」んだ
と思えば、「まぁいいか」と思える
かもと考え始めています。
兄も妹もカトリック信者なんですが、
ここまで、お金に執着し、父母が年老いて、
大変でも、ほおって置いていいんだ
と考える大人になったのはとても悲しいです。
(注)天国に宝を積む (マタイによる福音書6章19-21節)
019:「あなたがたは地上に富を積んではならない。
そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、
また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
020:富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、
さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
021:あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
(注)「カエサルもものはカエサルに」 (ルカによる福音書20章19-26節)
019:律法学者と祭司長たちはこれが自分たちのことを念頭に置いた例えだと
気付いたので,まさにその時イエスを捕まえようとした。しかし民を恐れた。
020:そこで,イエスをじっと観察してから,ひそかに雇った人たちを遣わし,
正しい人のふりをさせた。イエスの揚げ足を取って,
政府また総督に引き渡そうとしてだった。
021:その人たちはこう質問した。
「先生,私たちは,あなたが正しく話して教え,不公平な扱いをせず,
真理に沿って神の道を教えることを知っています。
022:カエサルに税を払ってよい*でしょうか,払ってはいけないでしょうか」。
023:しかしイエスは彼らのずる賢さを見抜いて,言った。
024:「デナリ硬貨を見せなさい。それには誰の肖像と称号がありますか」。
その人たちは,「カエサルのです」と言った。
025 イエスは言った。「ではぜひ,カエサルのものはカエサルに,
しかし神のものは神に返しなさい」。
026 その人たちは民の前でイエスの揚げ足を取ることができず,
その答えにとても驚き,黙ってしまった。