県庁の星
県庁も 市町村も 自立心
なんかテレビドラマを見ているみたい、という印象は免れないかもしれませんが、今やテレビと映画はボーダーレス、テレビ局では小説のようにテレビは長編小説で映画は短編小説というような捉え方もあるようですから、そんなに重要なことじゃないかもしれません。
主役は、「踊る大走査線」で「事件は会議室でおきてるんじゃない。現場でおきているんだ」を絶叫した織田くん、お相手には今や彼女が出れば必ずヒットするという柴咲さん。でもね、この作品のもうひとつの見所は、お二人の脇を固めるベテラン俳優じゃないでしょうか。県庁側で言えば、県の実力者を演じる石坂浩二様と県知事の酒井和歌子様。それから、民間代表で言うと、スーパーの店長勤める井川比佐志様。もひとり弁当合戦を仕掛けた副店長を加えてもいいでしょうが、ま、中堅どこかなあ、と思いまして、また今度。
まずエリート側でいきますれば、石坂様は、日本の大衆に大人気を誇る番組「水戸黄門」の黄門様に抜擢されましたね。でも、ちょいと貫禄が足りませんでした。反省なされたのでしょうか、「白い巨塔」では風格も含めて熱演。して今回は、まるで「越後屋あ~、おぬしもワルやのう」的悪代官みたいな役に見事になりきられました。ロバート・デニーロ張りの役なりきりウエイトコントロール、わざわざお太りになられたのですか? 今や大変でしょ、市川崑監督から指名の蘇れ石坂金田一耕助で一生懸命ダイエットされてるのでは。
続きまして、県知事の酒井和歌子様。清純派女優のイメージが私にはめっぽう強いんです。ふと思い出した「細うで繁盛期」で有名な花登筺のテレビドラマ「おからの花」、じゃなかったかな。なあんか、かわいそうな役だったような。それが、なななんと県知事様とは・・・。女性知事様も最近ちらほらお見掛けするようになりましたね。詳しくは分かりませんが、大阪府知事、思い出しました。主婦代表的で生活者に近いから県政に新風を巻き込むのかなあ、確かにそんなん感じさせるシーンもありましたが、そのあとの知事室で石坂様と同席の場面! うぐぐ、なんですと! 「前向きに検討する」とは、前向きにゴミ箱に捨てるのを見届けることですかあ。ひどいひどいわ。あの酒井和歌子様が、そんなん態度でいられるなんて、もう県民もだますほどの踊るポンポコ狸親父、いや狸親母(これ、なんて読むの?)。
かわりまして片や民間。スーパー満天堂の店長、井川比佐志様。田中邦衛様と共に「安部公房スタジオ」に参加されておられましたね。ごく普通の日本人を何気なくこなす味のある役者様になられました。店長ったって店では長かもしれませんがチェーン店という会社経営からすれば、トップでなく使われの身。できれば面倒くさいことから逃げていたい。売り上げもよく知らないんだから甚だしい。県庁の星こと織田くんに、ご丁寧な対応振り。ごまをするよなコーヒーのお勧め、丁重なおもてなし。で、実際の対応は、パートのベテラン柴咲さんに押し付け。この実態、別なるナイス・エピソード挿入でよく分かります。消防査察の場面。査察官の前には柴咲さんと副店長。あなたは何処へ? あらら、売り場の陰に隠れてらっしゃる。同じ行政への逃げ腰ですね。行政側はまったく県民のことを考えていない一方で、実は、このように一般県民も日頃は行政なんか知らぬ存ぜぬ。できれば関わりたくない、深入りしたくない。関わるイコール行政指導、ありがたいことよりも迷惑千万ばかり。本来、行政とは何のためにあるのか、なあんて、公務員側ばかりじゃなく民間人も考える気もありませんって、民間代表役を見事に演じてられてますね。
ところで、民間側、ちょっと影は薄くなりますが重要な脇役の脇役がいました。オンブズマンのベンガル様とお役所と癒着する建設業者代表の中山仁様。ベンガル様は、大林監督作品でよくお目にかかりましたよね。あ、この間「ピーナッツ」では草野球の監督役でお目にかかりましたか。中山仁様といえば、もう何はなくとも「サインはV」ですよね。スポ根全盛の頃、女子バレーボールを題材にした漫画といえば、この「サインはV」と「アタックNo1」。仁様もバレーボールチームの監督役でしたね。お二人とも出番は少ない。ベンガル様は二場面ほどでしたか。仁様なんか、一回と半分。半分はドアホンでの声だけ。しかも、その一回の方の、織田くん演じる県庁さんこと野村に、夕食の席で「ノムさん、飲む?」ですって。ぷ~っ!
はい、この民間お二人を加えれば、民間側の行政に対する三つの人種が見えてきました。仁様のような行政と陰で多額な金飛ぶ交流盛んな私腹肥やしタイプ。そして、ごく普通のほとんど行政に無関心な井川様タイプ。行政に民間の目でメスを入れるために無報酬活動するベンガル様タイプ。
さて、私たち観客一人一人が、自分はどのタイプって、そうやってこの作品を観ると、私たちも反省すべき点があることに気がつきます。私自身「ああ、自分も井川店長かあ。ほんと、気がつくの、遅いんだよねえ」そう思っ・・・、あれえ、この言葉、誰か言ってませんでしたっけ。
あっ、ごめんなさいませ。観客の中には、公務員の方もいらっしゃるかもしれませんね。失礼しました。全てのお役所の方が決してああだとは思いません。なんせ、これフィクションですし。でも、これと似たような県知事様や県の実力者様が実際におられるとすれば、まじに由々しき問題かもしれません。世の中なるようにならないことや、どうしようもないことってありますが、ああいう意識の方がいるとすれば、納税者は本当は黙って見過ごしていてはいけないんでしょうね、ほんまに。
また、そういう方ばかりではないにしろ、例えば、映画の中の象徴的な県民を見下すように聳える県庁の建物、つい、東京都庁を思い出しましたが、高層に限らず立派な庁舎、あちこちでよく見かけたりします。あと、会館とかホール等の建築物。行政って、事務手続きについで、ついつい、そういう器作りが仕事になりがち。でも、建物は立派だけど中身はいつも利用者なしの空っぽ、とか。これでは器作って魂入れず、ですね。何かしたいことあるから、その入れ物を作るのが本来ですね。中身なければ入れ物要らぬ。そういうことに、みんなで気がつくべきかもしれません。
ええっと、ここまで大回りをしてきましたが、脇役人を眺めてきた上で、改めて主人公のお二人を見ますれば、主人公中心でずっと見ているのとは違う見え方に気がつきます。
織田くん演ずるノムくん・・・学生時代からずっと一番の成績で先生からもチヤホヤされながら県庁エリートになったあなたは、出された問題に全問正解の答案用紙を提出する学校教育の延長で県庁での業務をこなします。物語の主流となる民間企業との人事交流研修は、石坂浩二様の問題に、あなたが正解としての答えを出したのがきっかけですね。その時オンブズマンのベンガル様に対しては庁舎から見下ろすだけでしたね。中山仁様とは「ノムさん、飲む?」の間柄でした。
さて、言いだしっぺのあなたが交流研修のメンバーに選ばれた。おそらく満天堂への出向は、天国から下界に降りた感覚だったのでしょう。井川比佐志様や柴咲さんたちに出会うわけですが、その下界こそが県民の現実世界だったのですね。ところが、民間企業との人事交流研修は醜聞が出るなどで失敗と判断されます。さあ、挫折の始まりはここにありました。これまでエリート街道まっしぐら、周囲の仲間も同じような人種ばかりだったため、唯一これまで経験したことのない、まさかの挫折は、あまりにも驚きだったでしょう。行政癒着企業の親玉である中山仁様のご令嬢との結婚話もごわさん。仁様は姿も見せずドアホンの声だけで門前払い。だいたい好きでない相手と結婚しようとすれば相手だって愛されてないって気がつきますよ。ばっかじゃない? 失礼。ま、女性もエリートの地位とステイタス欲しさに付き合うケースもありましょうが。
世の中に通用する正解とは絶対的なものじゃないんですよね。「政治は人の上に人を作り人の下に人を作る」ために正解はころころ変わる。だから、努力で必ず人の上に立てるなどとという保障はない、人の下になってしまうことだってある、それが社会なんでしょう。いいように使われてチョン。しかも、そういう世の中に対して挫折を知らないと余計に大変。そういうことって、学校教育では教えてくれませんし。ちょっと知るのが遅かったかな。
でも、その挫折のおかげで生きる価値って何かを見直すべきことに気がついたわけです。他のエリート仲間よりも、ある意味で救われたのです。人の心の痛みを文字通り身をもって知ったわけでもありますから。県庁に戻ってからのシーン、あなたは庁舎から見下ろしたベンガル様と同じ目線で交流を始めましたね。素敵です。まあ、誰だって好きで挫折する人はいません。できれば避けて通りたいものですから難しいですね。
柴咲さん演ずる二宮さん・・・避けて通ってきた、といえば、あなたも同じかもしれませんね。しかも、あなたは、よくよく考えれば満天堂店長の井川様と五十歩百歩だったかも。石坂様にも仁様にもベンガル様にもお会いになったことがありませんし。 でも、ノムくんと出会い、彼と直面し、そして彼の変貌振りを通して、気がつくんですね。
あなたにとって、他を知らないことと、満天堂という職場が自分にとってかけがえのない場所であることはイコール。それ、エリート意識とは別の意味でのしがみつきかも。だけど、それでいいんだ、じゃなく、本当は心の底では、この職場このままでいいんだろうか、と思ってたんですよね。マニュアルや組織図がなくても民間は回っていく、と叫ぶあなた。確かにそのとおりですね。でも、在庫の山や衛生管理のずさんさ、いずれは潰れるかもしれない、そういう危機感もほんとは感じてられたんですよね。
ところが、ノムくんの挫折を契機に心の奥底のものがムラムラと浮上するんですね。彼が挫折したときに、あなたを頼ろうとしたように、あなたも彼を頼りたいと思っている気持ちがふつふつと沸いてくる。県庁さんという呼び名が次第に店長さんに聞こえてきます。県庁さんが自分の職場を守ってくれる存在になっていく。それは自分自身を守ってくれることでもあるかのように。「県民は県庁の会議室などでなく街の中で生きているんだ」そう叫ぶノムくんの声が聞こえてきたんじゃないんですか。
開店前の朝礼でいつも目の前にいた彼が不在。いつのまにか自分が生きる上で必要な存在となっていることに、ふと気がついたこと、いたく分かりますよ。
ところで、どうでもいいけど、その朝礼、真ん中で仕切ってられるの、あなたじゃなく奥貫薫さんじゃありませんか。薫さん、「ピーナッツ」での手術、成功され元気になられて、スーパーにお勤めなんですね。えっ、同じ初監督でも、あちらは内村監督、こちらは西谷監督か。ぜんぜん別でしたね。しっつれいいたしました。
ということで、この主人公のお二人さんに、な~んとはなしの恋愛感情が見え隠れ。この物語には恋愛などいらん、そういう風に思われる方もおられましょうが、でも、お互いの生き方に共感でき支えあおうとするから恋愛もできる、それもあるんではないでしょうか。
まあ、主人公お二人がこの後どうなるかはフジテレビジョンに聞かなければ分かりませぬ。えっ、もうテレビ化を目論んでおられるんですって? 確かに映画が興行的に成功すれば、テレビ番組の提供スポンサーにもいいプレゼンテーションできますよね。ああ「海猿」手法が見えつ隠れつ。
なんか、すぐ話がそれますが、思い出しました。「私っていつも遅いんだよね、気がつくのが」という言葉、これ、柴咲さんでしたね。そう、県庁さんへの恋愛感情。ってこともありそうだけど、この映画における相手役の県庁さんを県行政に置き換えられませんか。県民として納税という義務を遂行していれば、逆に権利を主張することもできるわけですよ。そういうことに「ああ、私っていつも遅いんだよね、気がつくのが」です。けど、遅くても気がつくことが大切でしょうね。県庁さんも遅い挫折でしたが、それで大切なことに気がついたわけですし。ほら、少しでも気がつけば、少しずつでも変わるかも。ただのコーヒーを100円にするような小さなことでも。
この映画「気づくことが大切」そう言っているようです。そうだ、私も気がつきました。私たち、よく税金の無駄使いなんて叫んじゃうけど、じゃ、使わさせないように私たち県民が行政に指導してやればいいんですよ。よし、年度末の予算消化のための道路工事中だらけ、あれ、スーパー満天堂でのAチームBチームに分かれてのお弁当合戦のように、予算を使い切る発想を改めるため、予算を余らせることができた人に報奨金を出す、このアイデア、お役所に提案しようっと。えっ、そんなことより、まずは、権利の第一歩である選挙にちゃんと投票へ行くことから、ですって? あいたたた。参ったあ。踊る大選挙戦がオチですかあ。こりゃあまた、しっつれいいたしました。
ピーナッツ
落花生 皮をむいたら 落果星
内村殿、ひとまず、監督第一作おめでとう! そしてご苦労様、さらに、素敵な心温まる作品をありがとう!
ひょっとかして、みんなびっくり目ん玉丸くしてるかもしれないけど、拙者は、初監督とはいえ「大丈夫、大丈夫」そう安心しておったのじゃ。なんせ、日本のジャッキー・チェンになれる人だと思っとったからのう。ほれ、映画の中でも、故郷に戻ってきた時、草野球のこぼれ球拾ったときの演技! もう確証を得たのじゃ。
富士山の裾野に広がる町の中の寂れた商店街、そこの親父連中が「夢よ、もう一度」でどんどん頑張る、そのストーリーもおぬしが本書いてるんじゃろう。人任せにしない魂、正解じゃ。
しかも、へんに名だたる名優を使わず、仲間内的なお笑い芸人を起用したのは、いたくよかったぞよ。野球と同様、「へったくそー」と叫びたくなるけど、野球と同様、どんどんがんばる、その真摯な姿、最後の友好試合後の観客席の拍手は、あれは映画を観た人々の、貴様たち、いや失礼、貴殿たちへの拍手と重なるものなんじゃから。ベンガルさんが野球チーム・ピーナッツの監督ってのは、あれじゃな、役者ど素人的な貴殿たちのお手本でもあるっていう意味あいもあるのよな。しっかし、どうでもいいけど、竹中殿は面白いのう。おそらく、配役設定だけで勝手にやらせたんじゃろが。竹中殿は、ある意味でみんなの先輩格なんだよねえ。もともとお笑い上がりみたいなもんじゃない。あの喜怒哀楽を同時に表情に出せる演技を貴殿たちも参考にしよう。せんでもいいかあ。
そう、お笑いってさ、ルーツ辿れば、チャプリンとかキートンとか・・・。みんな素晴らしい役者であり監督でもあるんだよねえ。
そうそう、この映画のいたるところに散りばめられたショートコント的笑いのエッセンス。お笑い人は、もともとが役者なんだよな、そう気がつく。例えば、人文字ゴルゴ命と外人奥さんとのやり取り。「いつも何読んでるの」「文芸春秋」。この雑誌の題名そのものが四文字熟語。で、彼女のチアリーダーの応援が「猪突猛進」などという四文字熟語の声援。そんなのがあちこちに。あは、サマーズの三村はお笑いもそうだけど、全然面白くない、けど、頑張っている親父に一生懸命が好感もてる。娘から応援のプレゼントには、我々観客一同、胸が締め付けられたぞ。そういやあ、相方の水鉄砲ピュッピューの方が演技派かもしれへんな。クリームシチューの片割れも、メインじゃないけど味がある。何を言わんとしているのか分からなくなったが、ようは、内村殿、貴殿のこの映画に傾けた情熱が伝わる配役ってことじゃ。
物語的には、確かに野球の試合のシーンがクライマックスで使われたのは、ある意味、スポーツダイジェストを見せるような、楽したというか得した、そんな風に見られるかもしれへんなあ。でも、内村殿、おぬしはやるなあ、その結末。がんばったけど、商店街の親父連中チームは負けるんじゃよね。勝たせちゃわなかった貴殿のど根性がよろし。そこがハリウッド映画と完全に一線を画しておる、見上げたもんじゃ。しかも、がんばったピーナッツ一同に観客席の敵も味方も拍手を送る、その名場面は、あの「歓びを歌にのせて」のラストに匹敵するぞお。ちと、大袈裟かいな。でも、拙者も心の中で拍手を送った。
友好試合といいながら、再開発を認めるか認めないかの賭け試合でもあったわけで、勝てねば再開発に協力せねばならない。つうことで、これも時代の趨勢、再開発はいたし方がない。というか、頑張っても結果、負けたわけだよ。今の世の中、頑張ったから許してあげる、そういう時代ではないのよね。結果が全て。それに古いもんを壊して新しいもんを作る時代の流れにゃ逆らえられん。でも、大切なものまでもぶち壊すのかよ、と三村親父の声が聞こえそう。ああ、いやじゃいやじゃ。なあんて、そういう気持ちを起こさせる仕組みもあったんじゃろ、貴殿の企みには。何? そこまで深く考えておらんと? またまたご謙遜を。
でも、再開発反対という抵抗が野球試合なんて、いいじゃないか。そう! 無理だと分かっていても立ち向かう姿。下手なサクセス・ストーリーで成功の道を切り開く、なんて幻想とは全く反対の、ダメモトでもやる、おお、それが第二の青春、素敵じゃないか、がんばれよ、っつう、励ましにもなっておる。にくいねえ。
さあ、内村殿。本作の成功に味を占めて、第二作目、行ってみようかあ。とはいえ、いくら味を占めてと言っても、映画の中の本のように「たかが草野球」に続きまして「されど草野球」みたいな、いきなり本作パート2はやめてね。でもでも、次回作でも、桜井幸子さんとのいい仲関係は許してしんぜよう。さらに、奥貫薫さんの元気な姿も是非見たい。よろしくお頼み申し上げ奉り候。
PROMISE / 無極
お約束 守れない子は 誰ですか
よくできた作品だと思います。ここんとこの中国映画で「2046」「HERO」に並ぶ快作ではないでしょうか。ただ惜しむらくは、CGではなく、題名。これは日本人だけでしょうが。主人公の少女は返済の当てのないお金を借りてしまい、約束の期日になっても返すことができず、果てのない身売りの生涯を送る、なあんて物語を鑑賞前に勝手にでっち上げてしまいましたのは、私だけ?
さて、巷ではへたくそなCGとか粗いCGとか言われているわけでございますが、「そうかなあ」、私は思いました。むしろ効果的とさえ。いわゆる物語は武侠伝でも歴史大作でもありません。むしろ中国の神話とも言えましょうか。まだ、神と人がいっしょに生きていた時代なんですね。とっても幻想的で、ついつい、東映動画スタジオが製作した天然色・長編漫画映画の第1作目の『白蛇伝』、中国の民話を題材とした恋物語。思い出してしまいました。さらには、エノケンのなんとか言う旅物語、冒険譚だったか妖怪譚だったか、ごめんなさいませ、題名も内容も忘れてしまいましたが、確か全編書割背景の幻想的な。どちらも古い映画、リアルタイムじゃありません、リバイバルあるいはテレビ放映だったと・・・。
そういえば、同じチェン・カイコー監督の「さらば、わが愛~覇王別姫」、京劇をモチーフにしながら劇と現実のボーダーがあいまいになり、現実までがある意味、劇化しているようで、劇が現実化しているようで、夢か現か幻か、眩暈のするような映像だったように覚えています。
最近のCGは技術が進み、現実ではありえないかもしれないが、きわめてリアルであろうとする。「三丁目の夕日」あたりは過去の再現でがんばっていましたね。でも、幻想とリアリズムは元来、別なる感覚でありまする。技術を駆使したリアルなCGは、見たとおりですが、幻想とはもともと一人一人の想像性へ訴えかけてまいります。この映画、無極は、けっしてチャン・イーモウの「HERO」や「LOVERS」のようなリアルCGを狙ってはいない、全編書割を手書きではなくCGという道具を使ったまで、そういうことじゃないでしょうか。しかも猪突猛進の四文字熟語を絵に描いたような場面に奴隷である崑崙があたかも人類の進化を辿るが如く四足歩行から二足歩行へ移り変わる本人も驚きの姿は感動的。物語の神話・民話性、寓意性に富んだお話だし、そういうことからすれば、結構いい味にもなっていると思うのは、私だけ?
はい。お話も、非常によくできてます。深い意味をも感じさせますね。とりあえず浅めに。
少女が約束するのはお金の契約ではなく、運命の約束なんですね。まさしく彼女の傾城という名の如く、国王の心を惑わせて城や国を傾かせ滅ぼしてしまうほどの美女となりまする。演ずるセシリア・チャンを絶世の美女と見るかどうかは主観的なことですのであえて追求はいたしませぬが。
彼女の運命に大きく関わるのが日本代表と韓国代表の男。その主従の関係は、名前の光明と崑崙とあるように光と影を感じさせます。光明はまさしく光でしょうが、崑崙という名は、西戎(せいじゅう)にあるとされた土地や山また丘や塔の呼称で、伝説上の聖地だそうです。また彼の走りの速さは韋駄天という言葉を思い出させます。お釈迦さまが亡くなったとき、捷疾鬼(しょうしつき)と言う足の早い者がお釈迦さまの 遺骨を奪い須弥山へ逃げたのですが、それを見た韋駄天が一瞬のうちに頂上まで追いかけてゆき無事遺骨を取り戻しました。132万キロを一瞬のうちに走ったそうです。ちょっと前なら、弾よりも速くのスーパーマンかエイトマン、今ならスーパーサイヤ人ってとこでしょうか。
さて、中国美女に絡む二人の異国男に対し、本国中国の男が「お前たちよりも俺のが先だったんだぞ」とでも言わんばかりに登場するのがニコラス・ツェー演じる無歓。名前が凄いですねえ、歓びが無い。確かに、彼こそが一番の重要人物かもしれません。なんせ、子どもの頃、傾城との間で饅頭一個のやりとりから人を全く信用できなくなって冷たい男になってしまったのですから。三つ子の魂百まで。この冷血漢を中心に据えるともう一人現れてくる、平和な寒い国出身のリィウ・イエ演じる鬼狼。実は彼もスーパーサイヤ人、いやいや、崑崙と同郷の人物と判明。実は生きたいがために村を襲った無歓の奴隷になった裏切り者。彼が纏う黒衣は滅びを封印する衣。それがなければ死に掛けた鬼狼はあっという間に灰と化してしまうのですねえ。
さてさて、饅頭一個に匹敵する次なる運命的出会い、それが日本・韓国の名優との出会いですね。そのキーワードは「生きろ」。もののけ姫を思い出します。王を間違って殺害し傾城を救った中身崑崙の見せ掛け光明による「生きろ」という言葉。これで光明にぞっこんになってしまう傾城だけど、ああ、光明の仮面(鎧)を被った崑崙の言葉なのですわあ。「饅頭」による運命は「生きろ」でさらに深みにはまります。光明が王を殺害した罪で裁判に掛けられるシーンは大いなる見せ場ですね。光明の罪を崑崙の罪に摩り替えようとするのですが、何のことはない、それこそ、真実だったのでした。つまり、傾城が本来愛すべきだった相手とは光明でなく崑崙であるべきだったのでした。なんという運命。ああ、崑崙だったのね。私の愛すべき人は。勇敢だった将軍の面影もなくまるで酒に明け暮れる詩人李白のような光明と浮世を離れて愛に溺れる日々を送ってきた毎日は何だったのかしら。でもでも、私はそんな全てをなげうって愛してくれた光明もいとおしくって仕方がないの。もうどうしようもない天地前後左右どちらへも動けない心理状況でございます。光明の顔を見、崑崙の顔を見る。崑崙の顔、ずっと黙ってた彼の言いたくても言えない悲痛な心情が感極まります。「ヒロシです。奴隷なのでご主人様に逆らってまで本音は言えましぇん」という表情。光明の顔、「ごごごごめんじゃ~ん、だましてて。もう、二人で逃げちまいなよ~」という表情。そんな中で、無歓は「おおい、ばかやろう、俺を仲間はずれにするのかよ。なんせ、俺が一番の因縁深い人間なんだぞお」という感無量の涙顔。
ここで登場人物をもう一度整理してみましょう。
まず傾城と無歓ありき。この二人の出会いが運命をつくり、再び二人を引き合わす。そこへ光明と崑崙。この二人は光と影、ある意味二人で一人ですね。光明の姿をした影武者の崑崙と傾城との出会い。そして、この影の崑崙に重なる鬼狼。鬼狼と無歓の主従関係と崑崙と光明との主従関係が対比されまする。
人生の曼荼羅世界をきわめて象徴的な配役で圧縮させた御伽噺的相関図が描けますねえ。ここでは図にはしませんけど。こういう運命的なドラマのどうしようもない人間関係による物語って、やっぱ中国映画うまいんじゃありません? だから、冒頭の「2046」「HERO」に並ぶ快作って言いたくなるのです。あ、「LOVERS」はだめですよ。あれは怪作。
しかも映像的にも物語的にもハリウッド的なリアリズム志向から正反対だからこそ、とってもユニークで私はガンガンにはまり込んでしまいましたわ。私の三千年前の先祖は中国人かしら。
最後に日韓中三人の男が死んでいこうとする中、韓国のヒロシ、いや間違え、崑崙が、あの鬼狼がまとっていた黒衣を着ます。おお、死者が甦る。して、傾城を抱き上げ・・・。傾城に何を言ったかあえて言わないでおきますが、とうとう弾よりも音よりももっと速い、時間をも超える速度で時空を突き破りますね。おお、輪廻転生よ。この映画、素晴らしい世界観、いや宇宙観ですよお。
あああああ、そういえば大切な登場人物をもう一人忘れておりました。まるで水中華のごとく、この下界でもゆらゆらたゆたうくらげ美人。あ、でも、触らぬ神に祟りなし、と言いますね。はい、そうしましょう。
ミュンヘン
ミュンヘンも マンハッタンも ターゲット
なぜ今ミュンヘンなんだろうか。もちろん時間が経たなきゃ描けない時代を左右する事件は、いつか歴史が判断するまで待たねばならないかもしれない。しかし、そんなことは、ここでは言いたくない。
娯楽大作を生み続けるスピルバーグは、これまでも、そうした社会問題を抉る作品も描いてはきた。私自身、「カラーパープル」にしても「シンドラーのリスト」にしても、「ボクにも娯楽ばかりじゃなく、そうした社会は映画も作れるんだよ」そんなスタンスでしか観てこなかったように思える。特に「シンドラーのリスト」に関しては、ううんまいった、などとも思った。
そういう風に世間も納得したのではないか。しかし、この「ミュンヘン」はなぜか少し違うように思えた。なぜ今さら「ミュンヘン」だ。そして、この映画を監督自身、本当に進んで撮りたかったのだろうか。
今回は相当、私の憶測だらけのコメントになりそうだ。ご容赦いただきたい。
ずばり、この映画は素材が「ミュンヘン」なだけだ。監督が重い腰を上げたであろうきっかけは間違いなく、9.11の同時多発テロとその後のイラク攻撃だと思う。これまでも、いくつもの映画が、9.11を意識して作られてきた。スピルバーグは、できれば避けて通りたかったのかもしれない。しかし、娯楽大作だけでなく、いくつかの社会派映画も作ってきた彼にとって、避けては通れぬ問題。しかも、世界の中でアメリカ映画そのものを左右するほどの力を持った影響力を持つ巨匠スピルバーグが9.11に対していつまでもノーコメントではいられなかった。
ではなぜ「ミュンヘン」か。たまたまテロ事件が起きた舞台が、世界の祭典オリンピック。テロに鈍感な私たちも、その世界の祭典で起きた騒動には衝撃をもたらした。ユダヤ民族がホームとして建国したイスラエルに対するパレスチナ、アラブ等の心情を私たちはどれだけ実感しているかは別にして、平和がゆえに世界の民族が一堂に集まってスポーツの祭典が開かれるオリンピックはリアル感がある。もっとも適した素材だったのではないか。
さて、物語は、イスラエルの選手団を襲撃したパレスチナゲリラのテロ・グループに報復するため、国から暗殺チームのリーダーに抜擢される主人公アヴナー。「なぜこいつがリーダーだ」と仲間にも言われるほど、われわれ観客も、こんな普通の一般市民的な人間がそんなんやれるのか、そんな風貌だ。仲間とて、暗殺のプロとは思えない連中がほとんどだ。はじめは、映画そのものの店舗までがのらりくらりしている。おいおい、こいつらに人殺しができるのかよ。ところが一人殺り、そして二人と、それが、いつのまにか殺人者にふさわしい風貌に変わっていくのが不思議だ。映像もそれにあわせたように、刺激的なものに変わってゆく。
重要な人物が登場する。ルイという情報源となる男。彼は偏った思想で加担はしない。だから、特定の政治団体などには関わらないと言う。彼が重要な人物と言うより、彼の背後が重要なのである。あるとき主人公が目隠しをされてルイのパパに会う羽目になる。
そこは大家族。なに、マフィアか? はじめは思うが、その大家族のご邸宅の庭で無邪気にはしゃぐたくさんの子供たち。その純真な笑顔がクローズアップされる。この子供たちのために、スピルバーグは娯楽大作を作っているのだ、そう閃いた。この大家族が象徴的なものに見えてきた。ここはホームだ。それは、監督にとっては、ユダヤ民族の祖国ではなく、アメリカという生活舞台かもしれない。そして、主人公も、妻がいて子供が生まれたホームがある。それはまさしく家庭であり、家族だ。そのホームのために今の仕事を引き受けたはずだ。少々自虐的かもしれないが、同じ穴の狢かもしれない、そういう自嘲さえ感じられる。なぜなら、それがアメリカの幸福獲得のために進んできた道であり、それは監督自らも・・・。スピルバーグの苦難と葛藤が見えてきた。
主人公の仲間たちが逆に殺されていく。そのきっかけとして登場する女性、誘う女。彼の変わりに他の仲間が彼女に殺される。彼女自身、実は主人公と五十歩百歩の存在、おそらくなんら思想もなくお金目当てで殺しを請け負った人間。しかし、殺された仲間のために、彼女を殺害する。この殺人は、もはや、他の国からの使命での殺人ではない。単なる報復だ。
それから、仲間が何人も殺されると、主人公はいつしか自分も、そういう恐怖感に駆られる。お役目が終わってからも、彼は絶えず死の恐怖に晒される。愛する妻子がいるホームに戻ってもだ。
その最たる場面が妻とのセックスシーン。彼の頭には妻のことなど一切ない、パレスチナゲリラに殺されるイスラエル選手たちの殺害シーン。実際にその場を体験したわけではないのに、まざまざと脳裏に蘇る。冒頭にこのシーンがないだけ、迫力がある。妻とのセックスという愛の交歓としては最悪の状況だが、死への恐怖に対しあたかも拭い去るよう一生懸命生きようともがくが如く激しいセックスを繰り返す。セックスそのものは大いなる生の瞬間でもあるとすれば、この生死の背中合わせとも言えるシーンは、主人公の、さらには監督の思惟のぎりぎりな限界状況を表しているのではなかろうか。そして、そんな彼をも理解して「アイラブユー」とささやく妻。それが真のホームではなかろうか。
さらに、ラストには、ニューヨーク・マンハッタンの風景。誰もが、ああ、と9.11を思い起こす。同じ悲劇が繰り返される予感に満ちているシーンだ。同じ悲劇とはもちろんパレスチナゲリラに対しイスラエル政府が報復に出たように、9.11テロに対しアメリカがイラク攻撃に出た、という繰り返し。
その予感に満ちた景色を背景に、そこでは、お国からかつての上官が主人公アヴナーのもとへ。アウアホーム(我らの国)へ戻らないかとの誘いに、アヴナーは「No」と言う。これがスピルバーグの答えだ。さらに彼は、遠来より来た客をもてなそうと、マイホーム(我が家)で食事でも、と上官を招待する。それこそ、ユダヤ民族の真の心ではないかと言うように。しかし、相手からは「No」が返ってきた。
答えは確かに見えた。ただ、それを述べるだけでは答えたことにはならない、そんな監督の思いが全編から伝わってくる。だから単純なYesかNoかだけに終わっていない、そうした監督の心のゆれや葛藤がいたるところに感じられる。あちこちにスピルバーグ自身が隠れているように思える。そういう意味で極めて私小説的でもあるように思えるのは私だけだろうか。
とにかく、スピルバーグは、映画界の中でももっとも中心にいる人である。そうした立場からしても、コメントを避けることは黙認することにもなってしまう。そういう意味での精一杯、渾身を込めてイラク戦争への思いを自らの生まれや立場も投影した、非常に重要な作品ではないかと思う。
天使
天からの ちょっとお使い コンビニへ
実はちょっと気分が滅入っておりまして、笑いに行こう、そう思って「THE有頂天ホテル」観るつもりで映画館へ行ったのでした。映画館に着くまで、確かにそのつもりでした。ところが、何を思ったのでしょう。
「ああ、有頂天は、きっとたくさんの人が観ているから、私が観なくてもいいかな」なんて。
そういえば、三谷氏の映画作品観たのは、脚本担当した「12人の優しい日本人」。面白い本を書く人なんだな、記憶のメモ書きにとどめておかなきゃ。そう思いながら、なんと、その後の脚本や監督された映画観ていないんですねえ。せいぜいテレビで古畑観たくらいでしょうか。そして、このたび気分を晴らすために、やっと観る意志が持てたのに、劇場の前で、先に「みんなが観ているから、まあいいかあ」そう思ってしまったんですね。そして、と同時にふと目に飛び込んできた上映スケジュールの中の「天使」という文字。
「これ、なんだろう」。ポスター観るが、原作の漫画家も知らない。監督も知らない。主人公は深田恭子、大丈夫かア。空中庭園で好演だった永作さんが出てるじゃない。あら、濱マイクの永瀬さんも。なに、泉谷じゃん。それと鰐淵晴子さん。あとは、役者よく知らない。話の内容もまったく知らない。そういや、劇場の予告でも見たことないな、大丈夫かな。でも、「天使」だよねえ。私はいつのまにか「天使」の切符を手にしていた。ベンダース監督の「ベルリン・天使の詩」も思い出した。でも、すぐに、打ち消した。天使の視点からであればあまねく事象を見つめ得るという着想は同じかもしれないけど。
さて滅入っていたのは仕事のせい。私の仕事は、半分はコンセプトワークとかキーワードとかコンテンツとか、さらにキャッチやらボディやらと言葉にまつわることなら何でもでかしまっせ職。でも、半分というのは、それ以外にクライアントとの折衝やらもあるから。故に、でかしたプランも自分で強引にでも理解していただく説得が必要。そのコミュニケーションも言葉だから、それも仕事の一つになってるけど、みんな言葉じゃん。うへえ。でもねえ、疲れるのよねえ、そのコミュニケーション。
しかも、でかした後のコミュニケーションよりもでかす前の時間がかかる。何日も何も浮かばないこともある。でも、一生懸命それに関することを調べたり、そのことを24時間絶えず頭の片隅ででも考えていると、ふっと天使が舞い降りてくることがあるのよ。そう、まるで「綴り字のシーズン」のように、言葉の天使が。
だから、「天使」。天使はジンライムがお好き? 私は最近は日本酒。以前はビールばかし。日本酒、頭が痛くなるだけで全然ペケだったん。
がんばってもがんばってもがんばっても、なかなか天使が降りてきてくれない。余計に世界が狭くなるばかり。そんな時、ふっと息抜いて熱燗一杯、二杯やると、ほわ~んと世界が広がっていく。そして、へろへろっと天使が舞い降りてくる。でも天使は喋らない。天使はアドバイザーじゃないから。手塚治虫の「リボンの騎士」のチンクや、ピーター・パンのティンカーベルのような、でしゃばりでもない。ただ世界を広げ、見えない世界を見せてくれる。
でも飲みすぎると、すぐ眠たくなる。持続できない。それと、天使が、ああ、そこまで来ている、なあんて時にへんに話しかけられたりすると、天使はあっという間に逃げてっちゃう。だから、そういう時は、むやみやたらに話しかけてこないでね。
そうそう、こうして映画のレビュー書くときも、天使が降りてくるときと降りてきてくれないときがある。そうかあ、ジンライムの方が効き目があるかもしれないね。今度ジンライム飲もうっと。
みなさんも、がんばってもがんばっても駄目なとき、ジンライムを飲もうよ。そうすると、天使がやってきて世界を広げてくれるかもしれないよ。
そうそう、レイ・ブラッドベリの「10月はたそがれの国」「死ぬときはひとりぼっち」、題名だけだけど出てきましたねえ。いや懐かしい、学生時代よく読みました。「華氏四五一度」「火星年代記」「ウは宇宙船のウ」「たんぽぽのお酒」「十月の旅人」などなど。この本読んでたユミだったっけ、天使が見えませんでしたね。ブラッドベリが天使がわりかな。それとも歌かな、「天使が舞い降りてくる日」っていう。
ところで、天使が見える人と見えない人がいましたが、どういう人に見えるか、なあんてね。でも、そんなことよりも、この映画を観に行った私たちには天使が見えていた、ということ。観に行かなかった人には見えなくて観に行った人には見えた、ということ。じゃないかな。
博士の愛した数式
数式に 見えない心も 見えてくる
なんてったって、吉岡ルート先生の授業は最高である。数学の教師である彼が担当するクラスの一年間の初めの授業にこんな話をしてくれるのは最高だ。自分がルートという仇名も含めた自己紹介をする最初の授業、それがこの映画、物語の全貌だ。
そうそう、私も高校に入ってすぐの頃は、数学に関しては学年で一位とか二位だった(おいおい自慢話かよ)。その時の先生が面白かったことと、入ってすぐの頃は、いわゆる数Ⅰだから、中学の延長、そんなに難しくはない。先生が面白かったというのは、授業そのものではなく、日頃の行動。学校の正門の池に氷が張るくらいの寒い日に、先生はアイススケートの靴を持ってきて滑ろうとしたら氷が割れた。授業へ来る前に、夜間の生徒のための給食センターの前に転がっている残り物のパンをかじってくる。そして、授業を生徒よりも自分がドタキャンする。そんな先生は、図書館で屯している私になんだかんだで話し掛けてきた。それが実は私も嬉しかった。そんな変な先生も、私が二年生になると、担当じゃなくなった。授業は、数ⅡBとか数Ⅲになる。だんだん訳がわからなくなる。文学に色気づいたせいも加わり、理系ダメ人間になっていった。
でも、もし吉岡ルート先生に出会っていたら、数学は一種の文学であり芸術でもあることに気づいていただろう。残念。
さて、授業の内容のポイントに入ろう。
友愛数、素数、虚数、絶対数。素晴らしい、その紐解き方。その都度、感動し、目頭が熱くなる。数学にだ。数学がこれほど心の扉を打ち、心を開いてくれるものだとは。ここでは今更、ひとつひとつを解説すまい。 だが、なかでも、素数の他者とは違う独立自尊オンリーワンなる個の存在、そして虚数の目に見えないが心の中で想像し感じるべき愛ともいえる存在、それらが、人間の存在を言わんとしていることは自明の理だ。
そして、吉岡ルート先生の、教室内の素数たちに向けての虚数溢れる授業は、私たち観客にも行なわれているのだ。
その彼がそんな授業を行えるのも、彼をルートと命名した名付け親の博士、寺尾聰との友愛だ。そして、その友愛の始まりこそ、ルートの母と博士との出会いだ。家政婦として出向く母の足のサイズを聞く。記憶が80分しか持たない博士は毎度聞く。サイズは24、4の階乗、潔い数字だ。
子どもを放っておいてはいけないという博士の提言で、いつしか息子は学校帰りに博士宅を訪れ三人で食事をする、そんな友愛が始まる。その中から、母である深津絵里は発見する、絶対数を。数学者でもないから勿論すでに昔発見されている絶対数を知らない、そんな数学的知識に乏しい彼女が絶対数を発見する。絶対数と言う一つの真理を。そこには、かつて博士を義弟としながらも罪ある関係に陥った姉の邪心は微塵もない。
そして、かつて博士が、その義理の姉に送った手紙の中の数式eπi=-1(無理数×円周率×虚数=-1)と、深津母と息子ルートとの交流を通じた後に導き出された数式eπi+1=0は見事だ。算数的には、イコールを挟んで左項と右項を移しただけかもしれない。しかし違うのだ。eπi=-1は博士自身が-1なのだ。ところが、eπi+1=0はプラス1によって、0なのだ。0は無だ。無欲でもあり、ニュートラルでもあり、始まりでもあり、無限にも繋がる。限られた時間の中でその時間を生きる、実際には線分しか描けない直線の断片かもしれないが。
教師になったルート先生は黒板に書く。「時は流れず」と。「流れる」のではない、「流れず」なのだ。それは一瞬の永遠でもある。そうして、ラストにはブレイクの詩が用意されている。一見矛盾を含んでいるようにも見えるその詩の言葉が、この映画のおかげですべて解ける、理解できるのだ。詩と数学がここで融合する。なんて美しいドラマだ。
物語そのものは、それほど起伏はない。淡々としているが目を離せない。むしろ薪能のシーンに躓きそうになるくらい。地味でありながら徐々に高まる心の震えは治まることがない。
誰か、寺尾殿に賞を与えてくれないだろうか。ルートがいて、その教えが教育に生かされるなら、博士にノーベル賞を贈ろうよ。だめなら、せめて日本アカデミー賞主演男優賞くらい、いいでしょ。それに監督賞も。原作にはないらしいブレイクの詩、でも、こだわったからできる作品づくりだ。映像も美しい。ところどころのロングショットの風景は心に沁みてくる。
学問とは、おそらく数学に限らず、こうしたものかもしれない。こうした感動もなしで、センター試験に臨んで勝ち負けに翻弄される子供たちは、あまりにも人間の真理から遠い場所で格闘している。可哀相だ。そう思わせてくれるだけでも、希少価値のある映画じゃなかろうか。
そうそう、そういえば「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」も数学の映画だった。あれはあれなりによかったけど、博士のアンソニー・ホプキンスに対し、二人の娘のうち、長女はペケでしょ、次女が何とか世話をするけど、その不毛さ。数学の証明をモチーフにしながらも現実とのギャップに、親子愛は証明させられず、いつのまにか恋愛ドラマの愛の証明に挿げ替えられてしまっている。それに対し、この映画は、まさにアンチテーゼ、「そうじゃなかろう」と言っているような気がする。静かな中に、そうじゃない、そんな力強さが潜んでいることを見て取れないだろうか。それは、普通の人と普通じゃない人をそのまま描いた普通の視点の作品に対して、これは、普通の人が本当は普通じゃなく普通じゃない人の方が普通かもしれない現代社会、それを暴露した香山リカさんの力強さにも繋がる作品なのではなかろうか。詳しくは彼女の「多重化するリアル」あたりの現代社会を抉った評論を読んでください。
ともかくアンソニー・ホプキンスはずっと普通じゃなかった。そういう境遇で終わった。でも、寺尾は普通じゃないけど実は普通な人よりもうんと普通で、普通の人のほうが異常なのだ。何故なら、この映画、人はどう生きるべきかに、いたく素直に最も人間らしい素数として生きていく姿勢への崇拝があるのですよ。そう思いません?
何をたわごとを、そういう人がいたとしても、整数だけで生きていく経済社会の人々の目に見える算数計算しか知らない無知をどうか許したまえ。
吉岡ルート先生の授業を受けられた私は、彼に感謝の気持ちでいっぱいになった。すると、生徒の一人が最後に「先生」と声を掛けた。生徒の声の方に顔を向けると「ありがとう」という言葉が返ってきた。私の心と完全に共鳴した。私も心の中で「ありがとう」と叫んだ。
オリバー・ツイスト
貧困の 支えに悪は 何処にある
そういやあ、ローズマリーから何年? 1970年頃だと思うから、35年にもなるんだあ。人間が人間以外の子どもを産む、なあんて、よう分からんけど、心理描写が卓越的な作品。そうして、さらに名作「テス」が生まれたはね。ナスターシャ・キンスキーもよかった。文豪ハーディの名作を、ポランスキーが英国ロマンの薫りふんだんに映像化した大作メロドラマ。それにしても甘美だったなあ。そんなんが煮詰まって、世間的には余り有名じゃないかもしれないけれど、「赤い航路」、今から10年ちょい前の作品。愛情とは精神的にも肉体的にも残酷なものへと変貌するものであることを、心理的な恐怖症感覚で素晴らしい映像化しちゃったねえ。
それからどうしたあ、なんて思ってたら、そのあと、いきなり「戦場のピアニスト」なる映画で、ご立派になられちゃった。カンヌ国際映画祭パルムドール受賞でしょ。そして、ななななんと、アカデミー賞監督賞も。あらら。ところで、その前に、単なる出演だけど、ルコント監督の映画に欠かせない男優ミシェル・ブランが監督した「他人の空似」に出てたの知ってる? ま、それはいいけど。そんなこんなで、今回「オリバー・ツイスト」だって。
これも、文豪ディケンズの名作よん。なかなか見ごたえはありましたよ。かつての、ちょいやばい作品作りしてきたポランスキーがいたく正統派の作品を作りたもうたら、力強い作品になりましたね。もちろん、昔のポランスキー好きな人からすれば、毒気がなくなったと思うかもしれませんけどねえ。なんせポランスキーなんだから、もっと人から誉められるよりも、けちょんくそんに貶されるような自意識過剰なる心理的映画を撮って欲しいな、そう思ってしまう人も多いのではないか。つまり、今回の「オリバー・ツイスト」は優等生作品という感慨。
でも、その中でもひときわ光る主人公の絶えず悲しげな顔と、彼がもっとも心を通わせられたはずの相手、ベン・キングズレー演じるフェイギン。彼、いい役者だねえ、「砂と霧の家」にも出てた。そうそう、「AI」に「シンドラーのリスト」にも出てた。オリバー演じる主人公の子役が素晴らしいいう話だけど、いやいや、それよりも素晴らしいのは、ベン・キングズレー。牢屋で絞死刑前に妄想に取り付かれている様なんて、いいよねえ。ほんと光ってた。
で、この作品、彼の演技があるからこそ救われた、この作品がごろっと変わった。と言っておしまいですむのだろうか。本当に、それだけなのだろうか?
ポランスキー自身は、文芸作品を莫大な費用を使って単に道楽的にこしらえているだけなのだろうか。この映画、賞を受けるべく作品「戦場のピアニスト」に拍手喝采だったアメリカでは、受けが悪かったらしい。前作と比べて、単に文芸娯楽大作になってしまったためだからだろうか。
先のベン・キングズレーの光る演技にしても、言い換えてみれば、彼の演技は彼自身によるところだけだったのだろうか、ポランスキーにとって想定外だったのだろうか。そんなことはないだろう、そう思って、この作品を咀嚼すれば、単に文芸作品を描いたのではない、前作「戦場のピアニスト」の思いがあれば、こう観よう。
19世紀前半の英国は資本主義経済が浸透し、富が蓄積されるとともに膨大な貧困層を生み出しながらも、後の社会福祉制度の萌芽のような制度があったそうだ。これは当時の英国の話だが、これを今の世界に置き換えられないだろうか。簡単に言えば、オリバー・ツイストは21世紀にもいる、ということだ。いるという表現だけでは生ぬるい。より増えるであろう社会構造になってきている、とも言えるのではなかろうか。ふと、「ドミノ」という映画を思い出した。あの中で描かれている社会構造は現実だ。
そして、オリバー彼一人だけを救う者もいるだろうが、彼とともに、彼以外とともに共存しようとするフェイギンも、今の時代にいるということだ。そう考えれば、最後にオリバーが牢屋でフェイギンに対し「お願い。許してあげて」という言葉が力強く感じられるはず。結果、オリバーの願いも空しく資本主義経済の社会はフェイギンを処刑する。そこまで考えて作られた作品だとすれば、これまでポランスキーが監督として創りあげてきた数々の作品の延長にあると見えるのである。
オリバー・ツイストは21世紀にもいる、さらに作られようとしている。そして、彼とともに身近に生きるフェイギンも21世紀にいる。特に今、貧富の差は歴然と2極化している。市場原理崇拝のアメリカ理論だ。フェイギンは貧民の代表であり犯罪まがいで生きるしかなく悪のレッテルを貼られるしかない。それがラストで伝わってきたのは、私だけだろうか。アメリカで受けが悪かったのは、そうしたことに過敏になっているアメリカだからではなかろうか。
なぜ今「オリバー・ツイスト」なのか。この「オリバー・ツイスト」という作品、単純に19世紀の文豪作品の映画化だけだとは思えない。
単騎、千里を走る。
単騎では 百里も走れぬ 孤独感
「ヒーロー」はまだしも「ラバーズ」でエンタに走りすぎたチャン・イーモウ監督、「ヒーロー」で彼を好きになった人はまだしも「ラバーズ」で彼を好きになった人の期待を裏切る(やもしれない)、素晴らしい無言劇の誕生です。無言劇って言ってもぜんぜん喋らないわけじゃないけど。無言に近い健さんの役にぴったしこん。しかもモチーフは仮面劇。レビューする言葉も語らず見せずが一番よろし。
だから、これにて、おしまい・・・というわけにもいかない。だから、ちょびっとだけ。
長年疎遠となっている息子が、声だけで姿を見せないのがいい。息子の余命が僅かと知り、息子の願望を叶えようと単身中国に渡る健さんが、息子の最後を見届けられない状況と同じ心情を私たちは味わうのだ。
中国での二人の通訳がまたいい。こいつら役者かよ、へったくそお、と思っちゃうかもしれないが、むしろ素人だ、本物の通訳だ、そう思ったら、この映画のドキュメンタリータッチが生きてくる。男の通訳は日本語がカタコトだ。「ビコーズ」とか「ノープロブレム」という言葉がつい出てしまうところをみると、英語の通訳は得意なのかもしれない。
牢屋に入っちゃった仮面劇を演じる親父と彼をまだ見ぬ男の子、これがまたいい。親父は泣くシーンで涙だけじゃなく鼻水も必ず垂らす。泣くシーンで目薬使わずに涙流せる役者もいるらしいが、彼は鼻薬も使わずに鼻水を垂らせる素晴らしい役者かもしれない。そして、その男の子ときたら、ウンコを垂らすのだ。
この垂れ流される涙や鼻水やウンコは、健さんにとって貴重だ。ビコーズ、自分と息子が似たもの夫婦じゃないけど似たもの親子であることを、これらの垂れ流しを通して痛感していくからだ。
健さんが中国の人・土地・文化・暮らしを紐解くナレーター的な存在を演じるこの映画そのものは、かつて息子の中国で撮り続け日本に紹介した仮面劇フィルムとダブルのである。そのダブリに、さらに、息子の心に繋がる道のり、それこそ、まさに単騎な健さんが千里を行く道のり。この構造、いたくうまいのだ。そして、健さん自身は頑なに仮面を被り感情も押し殺しながらも、片や仮面劇の役者は仮面を脱ぎ感情を吐露する。ストーリーはシンプルだが、よくできた多重螺旋構造をなしている。
そういやあ、ジャッキー・チェンがジャニーズ事務所と組んでハリウッド殴りこみ、なあんて話を小耳に挟んだ。そういったチャレンジ精神もいいけど、失ってはいけない大事な心というか、それを今回チャンと健さんが組んで同じアジア人として共感できるはずのものを、お互い失いつつあることにも、心を通わせ紡ぐように作られた作品とその姿勢に、喝采を送りたい。その思いが語らず見られずの表装の向こうからびんびん伝わってきて、思わずエンドロールで拍手がしたくなってしまった。
天空の草原のナンサ
むかし昔 戦意を棄てた 国ありき
むかしむかし、お金持ちの家族が住んでいました。ある日、その家のとても美しい娘が重い病気になってしまいました。どんな薬を飲んでも治りません。そこで父親は賢者に相談に行きました。すると賢者は、「黄色い犬を飼っているだろう? その犬を追い払わなくてはならない」と言うのです。でも父親は、家族や家畜を守ってくれている犬を殺すことなんてできません。そこで、犬をほら穴に入れて出られなくしました。父親は毎日エサを持っていきましたが、ある日、犬はいなくなってしまいました。すると、娘は本当に治ったのです。でも娘が元気になったのには、ほかに理由がありました。娘はある若者に恋をしていたのです。黄色い犬がいなくなり、二人は何者にも邪魔されずに会えるようになったのでした。
邦題からして、天空の城ラピュタとか大草原の小さな家とかアルプスの少女ハイジとか思い起こしちゃうけど、違うのよねえと言うと思うでしょ。いやいや、あながち、そのあたりを想起された方は観て損はないと思う。というのも、そういう作品思い起こした人なら、この作品、絶対裏切らないから、この作品の監督ビャンバスレン・ダバーは。実は、私自身、そんな感覚で中身もよく知らないで劇場に足を運んだのでした、あははは。
彼女は、生まれはモンゴル。ドイツに渡ってミュンヘンで映画を勉強し、前作のドキュメンタリー「らくだの涙」を作った。残念、私観ていないからよく分からない。で、ミュンヘンに拠点を構え本作を作った。拠点はミュンヘンだから、製作はドイツだけど、モンゴル映画といっていいと思う。
この映画、ドキュメンタリーっぽいが、あくまでもドラマだ。ドキュメンタリータッチのドラマなのだ。ドラマとはフィクションであるが人生劇場でもある。そして、まさしく、人生の劇がここにある。
出演者は本物の家族だ。中でも、三人の子どもが素晴らしい。よく演じたと誉めるべきか。いや、よく自然の毎日を殺さずにフィルムに収めた、というべきじゃなかろうか。しかも、単にドキュメンタリーでなく、物語がある。それにそって、家族はやはり演じたのだ。そこには両親の力もあると思う。でも、それらを自然に撮る力量が制作者にあった。
しかし類稀な映画じゃなかろうか。これだけ日常を生きる家族をよくも物語りに仕立て上げたものだ。
もちろん、主人公である長女ナンサも素晴らしいが、言葉もまだ覚束ない末っ子の息子がいい役回り、というか縦横無尽。それは、明らかにいい演技ではなく、素晴らしい日常の暮らしの一場面なのだ。
心を鬼にして言おうか。最近、監督の力量をカバーするほどの凄い子役がいっぱい出てきている。けど、世の中の監督さん、それって、どうなの? ふと思い出す、「誰も知らない」を。もちろんメインの柳楽くんは、演じられる凄い役者だと思うけど、彼以外の子供たち、おそらく、その子供たちの日常をそのままうまく取り込んだ監督の力量じゃなかろうか。例えば、ダコちゃんを筆頭に、そうした素晴らしい子役が生まれること自体、素敵なことではあると思う。が、監督が子役の力量に頼っていると言っても嘘じゃなかろう。そうそう、邦画の三丁目の夕日の須賀健太くん。いい役者よねえ。最高の子役ではあるけどねえ。
この映画はノンフィクションではない。フィクション。でも、出演者はノンフィクション。カメラワークもいい、例えば遠近二焦点。演出されたチーズ作りの向こうで無邪気に子どもが遊ぶ。ナンサが始めて牛の糞を取りにいく。掬った糞を背中のかごに放り投げる。初めは入るが、後は何度も空振り。しかし無頓着。物語の中のリアリティに、私たち観客は映像ではない、生の家族の日々に付き合わされる。毎日の日常に。
マスコミのやり口でドキュメンタリーそのものが嘘八百化・形骸化している中、ドキュメントタッチのドラマの可能性を「誰も知らない」とともに見させていただいた。出演した普通の家族と彼らにカメラを向けた監督に拍手を送りたい。
ラスト、住まいを移動するために旅をする家族と擦れ違う選挙公報カー。モンゴルでも、近代化が進み遊牧民が減少しているという。その時代の新しい波と古くからの伝統や習慣が擦れ違うシーン。既に私たちは、この映画で黄色い犬の伝説である輪廻転生、黄色い犬は次に生まれ変わると人になり、人に幸せをもたらすことを知っている。そして、父親が犬は飼えないと言いながら最終的には末っ子を守った犬を旅の仲間に加えた。
何処の国でも固有の歴史や生活文化が、技術や合理化・便利性などで金太郎飴化が進んでいる。そうした時代の潮流には逆らえないだろうが、せめてユニークでオリジナリティな固有の文化を抹殺するのではなく、共存共栄していくことを願ってやまない。でなければ、この家族たちのみんなが力を合わせて生きていく精神も失われていくように思えてならない。
むかしむかし、戦争で勝ってばかりいた国を戒めるために、こてんぱんにやっつけ、二度と戦争ができない国にしました。でも、その国の民は、戦争が嫌で嫌で、もう二度と戦争なんかしたくなかったので、その二度と戦争ができないことに大喜び、世界で最も平和を愛する国になりました。でも、その歓びが後世の人たちにうまく伝わらなかったため、世界の潮流に流され、何処の国とも変わらない、また戦う国に戻ってしまいましたとさ。
プルーフ・オブ・マイ・ライフ
数学は もっとも美しい 理性なり
テーマよりもテーマを語るために用いられるモチーフに興味魅かれてしまう。悪質的な言い方をすれば、テーマなんて誰も似たりよったりのものしか扱わない。扱う制作者が悪いばかりじゃない。観る側の関心がそんなところなのだ。
例えば最近の作品で「綴り字のシーズン」テーマはよくある家族って何でしょ。この手は最近でもいっぱいある。ジェニファーの「砂と霧の家」「ダークウォーター」もそうだし、邦画では「誰も知らない」から「空中庭園」「理由」もそうだね。なんと「宇宙戦争」も親子の要素を強調している。「綴り字のシーズン」が本当にいいなと思ったのは、そういう家族の話というよりも、モチーフのほうなんだよね。いや、かといって、宗教学とか哲学じゃないの。簡単、いわゆる言葉。私たちが喋ったり書いたりする言葉。伝達手段で一番大きなツールである言葉。言葉以前に、表情とかしぐさも伝達手段としてあるけど、日本人なら、言霊(ことだま)っていうと、ぴんと来るでしょう。それと大いにかぶるのよね。その言葉、ことのは、ことだま、言葉に託された魂、そういうモチーフが「綴り字のシーズン」には日本人としてぴんと来るのよね。
うらら、ここは、その映画のレビューじゃないわね。人生の証明に戻りましょう。
この映画のテーマ性からすれば、愛情というものに対する証明。勿論、論理だった証明よりも、信頼だとか、心と心の繋がり伝わり方だから、証明するって言うことは、その心の根本である一人一人の思いになるのは当然だわね。でも、そう言うテーマもいいけど、モチーフの数学がいいのよねえ。それも、数学の中でも虚数。虚数という、現実ではありえない世界。それを紐解いたのは娘か父親か。誰もが分からないから、それをも検証したくなる。
ところで、皆様。あなたがこの世に存在するっていうことを証明しなされと言ったら、どうなさいます。証明の理論よりももっと大事なことを、この映画は教えてくれますよね。でも、それとは別に、父親である名優、アンソニー・ホプキンス、イカレタ病の中で画期的な証明を成し遂げたとする場面がありますが、ほんまは、娘(逃げた長女じゃなく、主人公、父をずっと死ぬまで面倒見た次女)が証明しちゃうんだけど、その父親の狂った証明、X=冬の三ヶ月、だとか、そんなんから展開する、数学と文学の融合まがいのいかれぽんち数学証明、これ、私はメチャ、気に入りました。
父親の替わりに成し遂げた娘は、そりゃ凄いと思うよ、そして、愛した男も彼女を信じなさいよ、だよね。でも、この父親の狂った証明に私は感動した。最終的には本屋が流行るのはX=(Y+x)×・・・・、なんだったっけ、あはあははあ。狂気の数学と人生の融合? しかし、この父親の狂気を受け止めた娘、そのまま狂気を受け継ぐかもしれない娘。でも、明らかに、そこには父の存在の証を見たはずだ。姉である長女までが、ひょっとして妹は父親の狂気を・・・なんて思うあたり、社会的なポジションを得た連中って、なんじゃい、証明できなければ信じないのかよ。ふうん。よっぽど証明することが大切な数学者のほうが人間的じゃないか、数学という美学に取り付かれているだけだよ、ってね。
娘が父親と共同作業で数学の証明を解くのって、ある見方をすれば親子のコミュニケーション。それをきちがい扱いする世間ってなんぼのもん。こんな素晴らしい対話ないのに、狂っているのは誰? この映画、そのあたりを観なければなりません。これ、ただの恋愛もんじゃないよ。親子の愛も実はあるんだよ。
モチーフを大事にすると、一番のテーマばかりじゃない、多様な世界が見えてくる。
娘が父からお前も協力してくれといわれて渡されたノート、そんなノートを私もこの映画を鑑賞した劇場から特別にプレゼントされた。そのノートに、これを書いた。書いたつもりだった。しかし、そこには私の存在証明の数式が並んだ。