本当は怖ろしい万葉集
この本の副題は「歌が告発する血塗られた古代史」だ。つまり、平安時代の古今和歌集などとは、まったく趣が違って、文学作品であるというよりも、裏読みすることで、「古事記」「日本書紀」に続く日本古代史を紐解くことができる、ということなのだ。
それは、しかも朝鮮半島と共に歩んだ歴史とも言えるものだ。言い換えれば、日本古代史は、朝鮮半島古代史と共有されるべきものとも言える。
第Ⅰ部 額田王と「天皇暗殺」
第一章 額田王は「帰国子女」だった
まず、表題の額田王が帰国子女だったことよりも、もっと驚きのことがある。ボクは、当時の朝鮮、高句麗や新羅、百済を学んだ時、それらは全く他所の国のことだと思っていた。ところがだ。
「ええええええええええええ~~~~」
それらの国の長と、日本の天皇が、同一人物だった! という恐るべきことに、オッタマゲーションなのだ。
「なんだって、つうことは、日本の歴史と朝鮮の歴史は錯綜しているということではないかあ」
それはともかく(いや、ともかくではないのだが)、裏読みとは……。
額田王が大海人皇子に向けての歌。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
この歌の表の意味は「東の空が赤らむ紫野や標野(禁区)をあなたが行きながら、私に袖を振って名残を惜しむのを野守は見てはいないでしょうか」という禁じられた恋の歌。
ところが、裏読みをすれば、「あかい股が紫色のほとを行きます。標野を行くのです。野守は見ていないでしょうね。貴方が私のハサミをひろげるのを」。ハサミは股。「あなたが私の股を広げる」という意味になるという。
天智天皇と大海人皇子の間が一触即発だったので、その対立を和らげようと額田王は、大海人皇子を誘惑した、ということだと。
いやあ、マイッタ。
第二章 歴代天皇は朝鮮半島から渡ってきた
おそらく、古代日本の天皇は、同時に朝鮮半島の王も経験して来ているということになるのだろうとすれば、彼らは、古代日本語と古代朝鮮語を使えるバイリンガルだったということだろうか。
実際、万葉集を裏読みするのに、古代朝鮮語(和歌に対し郷歌というらしい)にもたけてゐなければ難しい。日本の万葉集研究者も、そうした裏読みを辞書を頼りに試みてはいるが、いかんせん、古代朝鮮語には長けていない。
もうひとつ、万葉仮名で書かれた万葉集は膨大な数にのぼるが、それに匹敵する朝鮮の歌はわずかしか残っていない(散逸したとみられる。そういう意味で、日本のこれらの歴史手々な書物は、世界でも類まれな継承がなされていると言えよう)。
そして、この当時のバイリンガルに匹敵する現代の裏読みができる研究家として、ここに、『もう一つの万葉集』の著者である李寧煕(イ・ヨンヒ)が紹介されている。彼女は、東京出身の韓国人作家。1931年(昭和6年)東京生まれ。1944年(昭和19年)朝鮮総督府の統治下で日本の領土だった韓国に、父母と共に戻る。1948年ソウル市にある私立梨花女子中学校(6年制)の5年生の時、詩『月を転がす』で詩専門誌『竹筍』から文壇にデビュー。1989年(平成元年)日本で『もう一つの万葉集』(文藝春秋)を出版。『万葉集は古代韓国語で書かれていた』として、吏読という方法で実際に読み解いてみせ、従来説を覆す主張が大きな反響を呼んだ。
この章では、章タイトルの「歴代天皇は朝鮮半島から渡ってきた」ということを端的に表した図があるので、それを掲げたい。
第三章 「天皇暗殺」と額田王
額田王が歌ったと考えられる「白村江の戦い」前夜の歌。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
有名な歌だね。表読みでは、「(伊予の)熟田津から(百済復興に向けて)船出しようと月を待っていたが、潮もちょうど、よくなった。さあ今、漕ぎ出そう」だが、李寧煕の裏読みでは、「誰のせいだろう。船に乗ろうよ。皆の者、なだめられ、嫌々ながらも行くとみえる。今こそ、漕ぎ出そうではないか」と、表と反対に嫌々従う人物がいるぞ。誰だ?
中大兄皇子も百済復興に命懸け。大海人皇子も百済を滅ぼした唐が次に狙うは高句麗、百済復興に賭けるしかない。両者の利害が一致した中、消極的な人間がいた。斉明天皇だ。息子の中大兄皇子に嫌々従う中、大海人皇子は斉明天皇暗殺の指令を出した。斉明天皇はトリカブトで毒殺されたが、手を下したのは額田王のようだ。
ここには万葉集で最も難解な歌も紹介されている。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立たせりけむ厳橿が本
おいおい、なんて読むの? 上句と下句が脈絡ないように見えるそうだが、これも裏読みすれば、「水郷を廻らせて都をお作りなさい。そして大城に拝伏しなさい。さあおいでなさい、お城が立(建)っているのですから、行きましょう、何回も」だとな。ほう。
《白村江の戦い」に完敗すると、大海人皇子も百済の遺民も倭国に亡命した。そこで半島を征服した唐軍が、いつ倭国に攻め寄せるかわからない状態になった。中大兄皇子はこの年、水城や大野城だけではなく、対馬や壱岐島の防御を固めている。》
大海人皇子に擁立された間人(はしひと)皇女は舒明天皇と斉明天皇の間の娘、中大兄皇子の同母の妹、孝徳天皇の妃。その彼女の歌。
君が代もわが代も知るや磐代の岡の草根をいざ結びてな
この意訳がボクは、おやおや、と引っかかる。「あなたが権力をふるった時代も私の天皇時代も知っているだろうか。おそらく知っているだろう。この岩山に生えている草を結ぶように、私たちの関係も続けよう」。「草を結ぶ」は男女関係。
この間人皇女即位の事実が抹消されている。
第四章 額田王の「最後の歌」が意味すること
額田王の歌は、天武朝時代になると、沈黙をする。「白村江の戦い」から「壬申の乱」にかけて、中大兄皇子と大海人皇子の対立を緩和することに生涯を掛けた。
そして、持統朝になって、弓削皇子との贈答の歌が残されているのみ。弓削皇子は天武天皇の子で後の文武天皇の妃だった紀皇女と相思相愛。彼は文武天皇即位に反対したが、決定してしまった。
大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の兒ゆゑに
表から見れば「大船が港で揺れているように、思いみだれて瘦せてしまった。どうしようもない人妻のあなたを恋したために」なのだが、裏読みすれば「やれやれとけしかけておきながら、止めろといっているもどかしい(歯がゆい)奴だ」となる。
そして、額田王は忠告の歌を贈っている。
み吉野の玉松が枝は愛しきかも君が御言を持ちて通はく
表読みでは「吉野の松はあなたの言葉を持ってきてくれるので愛しい」という額田王の感謝の気持ちだが、裏読みでは「争いは負けるでしょう。反逆心は砕けるかも。『大鋏』ごとはお控えなさい。頼ったせいで、ほと挿して」となる。つまり、弓削皇子が文武天皇と争っても敗ける、と。そして、「大鋏」とはセックスの意だから、紀皇女と関係することはやめなさい、となる。数々の修羅場を乗り越えてきた額田王は、若い弓削皇子が命を落とすようなことを見ていられなかったのだ。
もし文武天皇が即位できぬなら、弓削皇子も紀皇女も殺されずに済んだろうが、夫が不倫した妻とその相手を殺すことができるのは、当時の日本では天皇だけなのだ。
第Ⅱ部 消された天皇
第一章 「持統天皇」は高市皇子である
中大兄皇子が済州島に追放された少年時代に土着の女性との間に生まれたのが、高市皇子だそうな。中大兄皇子が天智天皇として即位すると唐の意向もあり大友皇子が立太子に。それに不満な高市皇子は天智天皇と大海人皇子の(天武天皇)の争いに、天武天皇側に。天武天皇とは父子の契りを交わしたのだね。
実際は、彼としては、高市皇子VS大友皇子のつもりだったようだよ。なので「壬申の乱」で近江朝敗北、大友皇子が殺されると、自分が即位すると思った。ところが大海人皇子が天武天皇に。高市皇子は、天武天皇生存中に即位することはなかった。
天武天皇が没すると、唐の意向により、天武天皇の子で母が天智天皇の娘である大津皇子が即位。
反大津皇子派、つまり高市皇子、日本に亡命していた文武王、草壁皇子たちが結集し大津皇子を謀反の罪で粛清。皇太子である草壁皇子が即位するはずが、2~3年の空位の
後に草壁皇子が没し、皇位継承三番目の高市皇子が即位。それが持統天皇何だね。
いやあ、ややこやしい。
第二章 天武天皇への呪い
前章で、「中大兄皇子が天智天皇として即位すると唐の意向もあり大友皇子が立太子に。それに不満な高市皇子は天智天皇と大海人皇子の(天武天皇)の争いに、天武天皇側に。」と書いたが、そこには、大海人皇子と額田王との間の娘、十市皇女が加担している。
この十市皇女、大友皇子の奥さんだった人だが、高市皇子と恋仲なんだねえ。こういう男女の複雑な関係、多すぎてよく分かんないよ。
河上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常處女にて
意味は「河上の神聖な岩には草は生えない。そのように常に処女であってほしいものだ」という願い。作者は未詳だが、この歌で十市皇女が天武天皇の怒りを買った理由がわかる。天武天皇は、十市皇女が大友皇子の未亡人であるとして、高市皇子との関係を断つべく伊勢に追放したらしい。そして、突然、十市皇女が急病になり宮中で没する。
三諸の神の神杉夢にだに見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き
十市皇女を悼む高市皇子の歌だ。「天武天皇の許にあって亡くなった十市皇女を、せめて夢に見たいものだが、眠れない夜が多いので、夢で逢うことすらできない」と、なんと悲痛な歌だ。が、李寧煕によれば、済州島なまりで次の意が。「お墓の土が乾いています。行かれるのですね、あなたは。すぐまた、お逢いできるようお祈りしましょう。毒を吞ませ、とうとう逝かせてしまいました」と。
そして、著者さんは、「とうとう毒を呑ませてしまった」主語は、高市皇子ではなく、天武天皇だと。天武天皇が命じて十市皇女を毒殺させた。
さらに解釈。「天武よ、滅びよ。十市皇女は逝ってしまわれたのか。あの世でお目にかかりたいと祈っています。あなたが毒を呑まされて殺されたので、とうとう戦いになってしまいました」と。
第三章 悲劇の政治家・柿本人麻呂
百済の貴族木素貴子として生まれ、「白村江の戦い」の後に倭国に亡命し、大友近江朝の重鎮になった柿本人麻呂は、主として高市皇子を選んだ。
高市皇子と行を共にした「壬申の乱」も終わり、その後、人麻呂は天武天皇に歌人として求められ、大和朝廷に日本人名「柿本人麻呂」として登場。天武朝末期になると、高市皇子の即位に賭けた。高市皇子の持統朝は成立したが10年で終わった。その間が人麻呂における最良の人生だった。この頃の歌が多く残されている。
高市皇子が没し持統朝が終わると、文武天皇の長子の元明天皇即位、人麻呂は遠ざけられる。さらに天智天皇の娘の元明天皇が即位すると、流罪先の石見で近江大津朝への裏切り者として処刑されたようだ。
人麻呂が死に臨んだ時の歌
鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
哀切きわまりない。「鴨山の岩を枕に死んでいる自分を知らずに、妻はひたすら私の帰りを待っているのだろうか」。
文武天皇は人麻呂をそれほど恨んではいなかったが、弓削皇子への思い入れの歌を人麻呂が作ったことから、朝廷から遠ざけた。しかし、元明天皇は、父親天智天皇の恨み、兄大友皇子の恨み、そして夫草壁皇子の恨みが重なり、即位と同時に処刑を命じたようだ。哀れ、人麻呂。
第Ⅲ部 『万葉集』成立の謎を解く
第一章 『万葉集』の「序文」は、なぜ失われたのか
古事記や古今和歌集には「序文」がある。
古事記は、天武天皇の勅命により、稗田阿礼(ひえだのあれ)が詠んだ天皇の歴史を、712年1月太安万侶(おおのやすまろ)が編纂しなおして、元明天皇に献上した、と。
古今和歌集は、醍醐天皇の勅命により、紀貫之(きのつらゆき)が編纂したもの(905年4月)である、と。
著者さんは、「序文」はあったはずだが、本文の歌を後世に残したいが、序文は残したくない、そう踏んだと思う、と。では、誰が、「本文の歌を後世に伝えたい」と思ったかと言えば、醍醐天皇の勅命により、古今和歌集を編纂した紀貫之ではないか、となる。
古今和歌集を世に出した紀貫之は、おそらく、この万葉集も同時に埋没させておいてはいけないと踏んだに違いない。ところがだ、古今和歌集とは性格が異なり、万葉集には、当時の政権のごたごたや、首長同士の争いが色濃く残っている。それは天皇家の天智派VS天武派の諍い目がずっと残っており、そのまま表したのでは、天皇からのお怒りを食らう、ということで、序をもみ消し、古今和歌集の中で、この万葉集についての成立に対するでっち上げを行った、と。
ボクもそう思う。なんせ、紀貫之が編纂した古今和歌集とは大きく趣が異なる万葉集を、この本で学んできたボクだよ、そりゃあ、天智派VS天武派どっちの勅命で家持たちが動いたかは伝えたくなかったかもしれない。だから、古今和歌集には、この万葉集の勅命を、無難な天皇にしているのだ。
ただ、万葉集は、もひとつ大いなる古今和歌集との違い、あらゆる階層、詠み人知らずも含めて、ここには、ある意味、素人の歌も網羅されている。おそらく、古代史日本と朝鮮の全貌が網羅されているのではないか、そう思う。
《醍醐天皇時代、『古今和歌集』の撰者の紀貫之等が『万葉集』を全20巻にまとめたと考えている。同時にそれまで存在していた『万葉集』の序文を抹消し、新たに『万葉集』の成立時期を『古今和歌集』の序文において、平城天皇の勅命と改竄したと推定する。》
第二章 天智朝と天武朝の見えざる影
ボクたちが天皇というものを学ぶときに、この古代天皇の天智天皇と天武天皇、そして、中国の唐、朝鮮半島の百済、高句麗、新羅、そして、任那、それらを同じ古代史として学ぶべきじゃないかと思った。
これまでも、高市皇子のように、もともと天智天皇の息子なのに、天武天皇と父子の契りを交わす。なので、天武天皇の娘の十市皇女とは、兄妹で近親相姦ではないか、となるのだが、ここではちゃんと書かれている。高市皇子は天武天皇の息子でなく、天智天皇の息子なのだ。
《最初に『万葉集』を企画した聖武天皇等の意図は天武朝が正当であることを後世に残すためだったから、序文にはその意志が明快に書かれていた。/しかし実際に編纂に携わった家持以下の人々、さらに平安時代初期に『万葉集』を巻二十に再編成した人々は。天智・天武朝の融合を目的としたので、『万葉集』は初期の目的とは相違してきた。『万葉集』も序文は編纂の最終過程で消えざるをえない運命を負っていたのだ。》
第三章 なぜ『万葉集』は雄略天皇の歌から始まるのか
《おそらく『万葉集』の編者は、雄略を歴史的にみて確実に列島全体の倭王であった最初の人、つまり初代倭王として位置づけていたため、巻頭に雄略天皇の歌をもってきたと思われる。》
なるほど、と思うが、これも、紀貫之等が全20巻にまとめた時に、順序をそうしたのだろうか?
《雄略天皇は武力だけでなく、懐柔もし、硬軟使い分けて倭王として列島を統治すべく心がけていたようである。》
ただ、著者さんは、それよりも目を見張るべき点として、「表音文字」をあげている。
《五世紀後半の雄略天皇時代には、すでに日本に表音文字が存在していたという厳然とした証拠物件にはなる。》
第四章 天智・天武は雄略朝に映し出される
《『書紀』からだけみても、雄略天皇は高句麗・新羅と敵対し、百済の救援に生涯を賭けている。それは中大兄皇子が百済復興のため、日本から出兵して唐国と戦ったことと似ている。》
さらに、舒明と雄略の歌の酷似。
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも(舒明)
夕されば小倉の山に臥す鹿し今夜は鳴かず寐ねにけらしも(雄略)
《雄略天皇の歌にある殺された鹿は天智天皇であり、舒明天皇の歌の殺された鹿は天武天皇だった。天智朝、天武朝の共に勝利宣言の歌だったのである。》
そか、『万葉集』撰者は、こうしてバランスを取っているのだね。
以上、裏読みすれば見えてくる恐るべき史実なりの『万葉集』。
ただ、『万葉集』の前半は額田王や柿本人麻呂、来日一世の歌で、朝鮮語で裏読みされている歌が多いのに対し、後半は裏読みされた歌は少なく、家持の歌が主流になる。つまり、裏読みできる時代とは、朝鮮語も日本語も同じように漢字から派生されており、その7世紀から8世紀における来日一世によるバイリンガルな共有性が有しておるのであり、8世紀を過ぎると、もはや、日本語は仮名も誕生し、独立した言語として歩んでいくのだね。
そうした中、李寧煕が額田王の歌の裏読みを理解できるのは、額田王の半生が、朝鮮人を両親に持ち、日本で生まれ育ち、少女時代に韓国に帰国した彼女の環境と酷似していたためなのだ。
《『万葉集』は、前期の額田王と柿本人麻呂を中心とした歌と、大伴家持一族の歌の多い後期の二つに分かれている。家持の歌には朝鮮語の裏読みはないようである。それが七世紀後半の倭国と八世紀の日本を分けるものともいえる。また列島・半島それぞれが完全に独立国になる過程ともいえよう。》
以上である。ボクは、ふとWikiの「李寧煕」ページで、以下の表記を見つけた。
《李の主張は、俗に韓国起源説と呼ばれる主張と同一視されているが、あくまで万葉集は韓国の古代史を抜きに語れないという視点から文化的影響を綴っただけであり、むしろ「日韓の双方には『劣等優越感』ともいうべき始末に悪い妙な心理」があり、日本人は「歴史的、文化的な韓国の影響をなかなか認めたがらず、何かというと韓国に説教したがる」一方で、韓国人は「日本にしてやられているのに日本文化の起源はすべて韓国といって優越感にひたっている」現状を指摘しただけである。なお、日韓関係を良い方向へ進める策として、「精神分析学では、この『劣等優越感』というのは原因が分かればすぐ治るのだそうですよ」としている。》
日韓におけるは『劣等優越感』ともいうべき始末に悪い妙な心理は、ボクも痛感している。そして、多分、アドラーの考え方に基づくのだと思うが、日韓関係を良い方向へ進める策として、「精神分析学では、この『劣等優越感』というのは原因が分かればすぐ治るのだそうですよ」と。
この原因こそ、この『万葉集』ではないか、ボクはひしひしと感じている。日本列島・朝鮮半島がひとつの歴史を共有していた7世紀から8世紀、これを両国が共有し合えば、共感が生まれ、『劣等優越感』は解消するのではないか、つくづく思う。
本当は怖ろしい万葉集 posted by (C)shisyun
それは、しかも朝鮮半島と共に歩んだ歴史とも言えるものだ。言い換えれば、日本古代史は、朝鮮半島古代史と共有されるべきものとも言える。
第Ⅰ部 額田王と「天皇暗殺」
第一章 額田王は「帰国子女」だった
まず、表題の額田王が帰国子女だったことよりも、もっと驚きのことがある。ボクは、当時の朝鮮、高句麗や新羅、百済を学んだ時、それらは全く他所の国のことだと思っていた。ところがだ。
「ええええええええええええ~~~~」
それらの国の長と、日本の天皇が、同一人物だった! という恐るべきことに、オッタマゲーションなのだ。
「なんだって、つうことは、日本の歴史と朝鮮の歴史は錯綜しているということではないかあ」
それはともかく(いや、ともかくではないのだが)、裏読みとは……。
額田王が大海人皇子に向けての歌。
あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
この歌の表の意味は「東の空が赤らむ紫野や標野(禁区)をあなたが行きながら、私に袖を振って名残を惜しむのを野守は見てはいないでしょうか」という禁じられた恋の歌。
ところが、裏読みをすれば、「あかい股が紫色のほとを行きます。標野を行くのです。野守は見ていないでしょうね。貴方が私のハサミをひろげるのを」。ハサミは股。「あなたが私の股を広げる」という意味になるという。
天智天皇と大海人皇子の間が一触即発だったので、その対立を和らげようと額田王は、大海人皇子を誘惑した、ということだと。
いやあ、マイッタ。
第二章 歴代天皇は朝鮮半島から渡ってきた
おそらく、古代日本の天皇は、同時に朝鮮半島の王も経験して来ているということになるのだろうとすれば、彼らは、古代日本語と古代朝鮮語を使えるバイリンガルだったということだろうか。
実際、万葉集を裏読みするのに、古代朝鮮語(和歌に対し郷歌というらしい)にもたけてゐなければ難しい。日本の万葉集研究者も、そうした裏読みを辞書を頼りに試みてはいるが、いかんせん、古代朝鮮語には長けていない。
もうひとつ、万葉仮名で書かれた万葉集は膨大な数にのぼるが、それに匹敵する朝鮮の歌はわずかしか残っていない(散逸したとみられる。そういう意味で、日本のこれらの歴史手々な書物は、世界でも類まれな継承がなされていると言えよう)。
そして、この当時のバイリンガルに匹敵する現代の裏読みができる研究家として、ここに、『もう一つの万葉集』の著者である李寧煕(イ・ヨンヒ)が紹介されている。彼女は、東京出身の韓国人作家。1931年(昭和6年)東京生まれ。1944年(昭和19年)朝鮮総督府の統治下で日本の領土だった韓国に、父母と共に戻る。1948年ソウル市にある私立梨花女子中学校(6年制)の5年生の時、詩『月を転がす』で詩専門誌『竹筍』から文壇にデビュー。1989年(平成元年)日本で『もう一つの万葉集』(文藝春秋)を出版。『万葉集は古代韓国語で書かれていた』として、吏読という方法で実際に読み解いてみせ、従来説を覆す主張が大きな反響を呼んだ。
この章では、章タイトルの「歴代天皇は朝鮮半島から渡ってきた」ということを端的に表した図があるので、それを掲げたい。
第三章 「天皇暗殺」と額田王
額田王が歌ったと考えられる「白村江の戦い」前夜の歌。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
有名な歌だね。表読みでは、「(伊予の)熟田津から(百済復興に向けて)船出しようと月を待っていたが、潮もちょうど、よくなった。さあ今、漕ぎ出そう」だが、李寧煕の裏読みでは、「誰のせいだろう。船に乗ろうよ。皆の者、なだめられ、嫌々ながらも行くとみえる。今こそ、漕ぎ出そうではないか」と、表と反対に嫌々従う人物がいるぞ。誰だ?
中大兄皇子も百済復興に命懸け。大海人皇子も百済を滅ぼした唐が次に狙うは高句麗、百済復興に賭けるしかない。両者の利害が一致した中、消極的な人間がいた。斉明天皇だ。息子の中大兄皇子に嫌々従う中、大海人皇子は斉明天皇暗殺の指令を出した。斉明天皇はトリカブトで毒殺されたが、手を下したのは額田王のようだ。
ここには万葉集で最も難解な歌も紹介されている。
莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣わが背子がい立たせりけむ厳橿が本
おいおい、なんて読むの? 上句と下句が脈絡ないように見えるそうだが、これも裏読みすれば、「水郷を廻らせて都をお作りなさい。そして大城に拝伏しなさい。さあおいでなさい、お城が立(建)っているのですから、行きましょう、何回も」だとな。ほう。
《白村江の戦い」に完敗すると、大海人皇子も百済の遺民も倭国に亡命した。そこで半島を征服した唐軍が、いつ倭国に攻め寄せるかわからない状態になった。中大兄皇子はこの年、水城や大野城だけではなく、対馬や壱岐島の防御を固めている。》
大海人皇子に擁立された間人(はしひと)皇女は舒明天皇と斉明天皇の間の娘、中大兄皇子の同母の妹、孝徳天皇の妃。その彼女の歌。
君が代もわが代も知るや磐代の岡の草根をいざ結びてな
この意訳がボクは、おやおや、と引っかかる。「あなたが権力をふるった時代も私の天皇時代も知っているだろうか。おそらく知っているだろう。この岩山に生えている草を結ぶように、私たちの関係も続けよう」。「草を結ぶ」は男女関係。
この間人皇女即位の事実が抹消されている。
第四章 額田王の「最後の歌」が意味すること
額田王の歌は、天武朝時代になると、沈黙をする。「白村江の戦い」から「壬申の乱」にかけて、中大兄皇子と大海人皇子の対立を緩和することに生涯を掛けた。
そして、持統朝になって、弓削皇子との贈答の歌が残されているのみ。弓削皇子は天武天皇の子で後の文武天皇の妃だった紀皇女と相思相愛。彼は文武天皇即位に反対したが、決定してしまった。
大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の兒ゆゑに
表から見れば「大船が港で揺れているように、思いみだれて瘦せてしまった。どうしようもない人妻のあなたを恋したために」なのだが、裏読みすれば「やれやれとけしかけておきながら、止めろといっているもどかしい(歯がゆい)奴だ」となる。
そして、額田王は忠告の歌を贈っている。
み吉野の玉松が枝は愛しきかも君が御言を持ちて通はく
表読みでは「吉野の松はあなたの言葉を持ってきてくれるので愛しい」という額田王の感謝の気持ちだが、裏読みでは「争いは負けるでしょう。反逆心は砕けるかも。『大鋏』ごとはお控えなさい。頼ったせいで、ほと挿して」となる。つまり、弓削皇子が文武天皇と争っても敗ける、と。そして、「大鋏」とはセックスの意だから、紀皇女と関係することはやめなさい、となる。数々の修羅場を乗り越えてきた額田王は、若い弓削皇子が命を落とすようなことを見ていられなかったのだ。
もし文武天皇が即位できぬなら、弓削皇子も紀皇女も殺されずに済んだろうが、夫が不倫した妻とその相手を殺すことができるのは、当時の日本では天皇だけなのだ。
第Ⅱ部 消された天皇
第一章 「持統天皇」は高市皇子である
中大兄皇子が済州島に追放された少年時代に土着の女性との間に生まれたのが、高市皇子だそうな。中大兄皇子が天智天皇として即位すると唐の意向もあり大友皇子が立太子に。それに不満な高市皇子は天智天皇と大海人皇子の(天武天皇)の争いに、天武天皇側に。天武天皇とは父子の契りを交わしたのだね。
実際は、彼としては、高市皇子VS大友皇子のつもりだったようだよ。なので「壬申の乱」で近江朝敗北、大友皇子が殺されると、自分が即位すると思った。ところが大海人皇子が天武天皇に。高市皇子は、天武天皇生存中に即位することはなかった。
天武天皇が没すると、唐の意向により、天武天皇の子で母が天智天皇の娘である大津皇子が即位。
反大津皇子派、つまり高市皇子、日本に亡命していた文武王、草壁皇子たちが結集し大津皇子を謀反の罪で粛清。皇太子である草壁皇子が即位するはずが、2~3年の空位の
後に草壁皇子が没し、皇位継承三番目の高市皇子が即位。それが持統天皇何だね。
いやあ、ややこやしい。
第二章 天武天皇への呪い
前章で、「中大兄皇子が天智天皇として即位すると唐の意向もあり大友皇子が立太子に。それに不満な高市皇子は天智天皇と大海人皇子の(天武天皇)の争いに、天武天皇側に。」と書いたが、そこには、大海人皇子と額田王との間の娘、十市皇女が加担している。
この十市皇女、大友皇子の奥さんだった人だが、高市皇子と恋仲なんだねえ。こういう男女の複雑な関係、多すぎてよく分かんないよ。
河上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常處女にて
意味は「河上の神聖な岩には草は生えない。そのように常に処女であってほしいものだ」という願い。作者は未詳だが、この歌で十市皇女が天武天皇の怒りを買った理由がわかる。天武天皇は、十市皇女が大友皇子の未亡人であるとして、高市皇子との関係を断つべく伊勢に追放したらしい。そして、突然、十市皇女が急病になり宮中で没する。
三諸の神の神杉夢にだに見むとすれども寝ねぬ夜ぞ多き
十市皇女を悼む高市皇子の歌だ。「天武天皇の許にあって亡くなった十市皇女を、せめて夢に見たいものだが、眠れない夜が多いので、夢で逢うことすらできない」と、なんと悲痛な歌だ。が、李寧煕によれば、済州島なまりで次の意が。「お墓の土が乾いています。行かれるのですね、あなたは。すぐまた、お逢いできるようお祈りしましょう。毒を吞ませ、とうとう逝かせてしまいました」と。
そして、著者さんは、「とうとう毒を呑ませてしまった」主語は、高市皇子ではなく、天武天皇だと。天武天皇が命じて十市皇女を毒殺させた。
さらに解釈。「天武よ、滅びよ。十市皇女は逝ってしまわれたのか。あの世でお目にかかりたいと祈っています。あなたが毒を呑まされて殺されたので、とうとう戦いになってしまいました」と。
第三章 悲劇の政治家・柿本人麻呂
百済の貴族木素貴子として生まれ、「白村江の戦い」の後に倭国に亡命し、大友近江朝の重鎮になった柿本人麻呂は、主として高市皇子を選んだ。
高市皇子と行を共にした「壬申の乱」も終わり、その後、人麻呂は天武天皇に歌人として求められ、大和朝廷に日本人名「柿本人麻呂」として登場。天武朝末期になると、高市皇子の即位に賭けた。高市皇子の持統朝は成立したが10年で終わった。その間が人麻呂における最良の人生だった。この頃の歌が多く残されている。
高市皇子が没し持統朝が終わると、文武天皇の長子の元明天皇即位、人麻呂は遠ざけられる。さらに天智天皇の娘の元明天皇が即位すると、流罪先の石見で近江大津朝への裏切り者として処刑されたようだ。
人麻呂が死に臨んだ時の歌
鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
哀切きわまりない。「鴨山の岩を枕に死んでいる自分を知らずに、妻はひたすら私の帰りを待っているのだろうか」。
文武天皇は人麻呂をそれほど恨んではいなかったが、弓削皇子への思い入れの歌を人麻呂が作ったことから、朝廷から遠ざけた。しかし、元明天皇は、父親天智天皇の恨み、兄大友皇子の恨み、そして夫草壁皇子の恨みが重なり、即位と同時に処刑を命じたようだ。哀れ、人麻呂。
第Ⅲ部 『万葉集』成立の謎を解く
第一章 『万葉集』の「序文」は、なぜ失われたのか
古事記や古今和歌集には「序文」がある。
古事記は、天武天皇の勅命により、稗田阿礼(ひえだのあれ)が詠んだ天皇の歴史を、712年1月太安万侶(おおのやすまろ)が編纂しなおして、元明天皇に献上した、と。
古今和歌集は、醍醐天皇の勅命により、紀貫之(きのつらゆき)が編纂したもの(905年4月)である、と。
著者さんは、「序文」はあったはずだが、本文の歌を後世に残したいが、序文は残したくない、そう踏んだと思う、と。では、誰が、「本文の歌を後世に伝えたい」と思ったかと言えば、醍醐天皇の勅命により、古今和歌集を編纂した紀貫之ではないか、となる。
古今和歌集を世に出した紀貫之は、おそらく、この万葉集も同時に埋没させておいてはいけないと踏んだに違いない。ところがだ、古今和歌集とは性格が異なり、万葉集には、当時の政権のごたごたや、首長同士の争いが色濃く残っている。それは天皇家の天智派VS天武派の諍い目がずっと残っており、そのまま表したのでは、天皇からのお怒りを食らう、ということで、序をもみ消し、古今和歌集の中で、この万葉集についての成立に対するでっち上げを行った、と。
ボクもそう思う。なんせ、紀貫之が編纂した古今和歌集とは大きく趣が異なる万葉集を、この本で学んできたボクだよ、そりゃあ、天智派VS天武派どっちの勅命で家持たちが動いたかは伝えたくなかったかもしれない。だから、古今和歌集には、この万葉集の勅命を、無難な天皇にしているのだ。
ただ、万葉集は、もひとつ大いなる古今和歌集との違い、あらゆる階層、詠み人知らずも含めて、ここには、ある意味、素人の歌も網羅されている。おそらく、古代史日本と朝鮮の全貌が網羅されているのではないか、そう思う。
《醍醐天皇時代、『古今和歌集』の撰者の紀貫之等が『万葉集』を全20巻にまとめたと考えている。同時にそれまで存在していた『万葉集』の序文を抹消し、新たに『万葉集』の成立時期を『古今和歌集』の序文において、平城天皇の勅命と改竄したと推定する。》
第二章 天智朝と天武朝の見えざる影
ボクたちが天皇というものを学ぶときに、この古代天皇の天智天皇と天武天皇、そして、中国の唐、朝鮮半島の百済、高句麗、新羅、そして、任那、それらを同じ古代史として学ぶべきじゃないかと思った。
これまでも、高市皇子のように、もともと天智天皇の息子なのに、天武天皇と父子の契りを交わす。なので、天武天皇の娘の十市皇女とは、兄妹で近親相姦ではないか、となるのだが、ここではちゃんと書かれている。高市皇子は天武天皇の息子でなく、天智天皇の息子なのだ。
《最初に『万葉集』を企画した聖武天皇等の意図は天武朝が正当であることを後世に残すためだったから、序文にはその意志が明快に書かれていた。/しかし実際に編纂に携わった家持以下の人々、さらに平安時代初期に『万葉集』を巻二十に再編成した人々は。天智・天武朝の融合を目的としたので、『万葉集』は初期の目的とは相違してきた。『万葉集』も序文は編纂の最終過程で消えざるをえない運命を負っていたのだ。》
第三章 なぜ『万葉集』は雄略天皇の歌から始まるのか
《おそらく『万葉集』の編者は、雄略を歴史的にみて確実に列島全体の倭王であった最初の人、つまり初代倭王として位置づけていたため、巻頭に雄略天皇の歌をもってきたと思われる。》
なるほど、と思うが、これも、紀貫之等が全20巻にまとめた時に、順序をそうしたのだろうか?
《雄略天皇は武力だけでなく、懐柔もし、硬軟使い分けて倭王として列島を統治すべく心がけていたようである。》
ただ、著者さんは、それよりも目を見張るべき点として、「表音文字」をあげている。
《五世紀後半の雄略天皇時代には、すでに日本に表音文字が存在していたという厳然とした証拠物件にはなる。》
第四章 天智・天武は雄略朝に映し出される
《『書紀』からだけみても、雄略天皇は高句麗・新羅と敵対し、百済の救援に生涯を賭けている。それは中大兄皇子が百済復興のため、日本から出兵して唐国と戦ったことと似ている。》
さらに、舒明と雄略の歌の酷似。
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも(舒明)
夕されば小倉の山に臥す鹿し今夜は鳴かず寐ねにけらしも(雄略)
《雄略天皇の歌にある殺された鹿は天智天皇であり、舒明天皇の歌の殺された鹿は天武天皇だった。天智朝、天武朝の共に勝利宣言の歌だったのである。》
そか、『万葉集』撰者は、こうしてバランスを取っているのだね。
以上、裏読みすれば見えてくる恐るべき史実なりの『万葉集』。
ただ、『万葉集』の前半は額田王や柿本人麻呂、来日一世の歌で、朝鮮語で裏読みされている歌が多いのに対し、後半は裏読みされた歌は少なく、家持の歌が主流になる。つまり、裏読みできる時代とは、朝鮮語も日本語も同じように漢字から派生されており、その7世紀から8世紀における来日一世によるバイリンガルな共有性が有しておるのであり、8世紀を過ぎると、もはや、日本語は仮名も誕生し、独立した言語として歩んでいくのだね。
そうした中、李寧煕が額田王の歌の裏読みを理解できるのは、額田王の半生が、朝鮮人を両親に持ち、日本で生まれ育ち、少女時代に韓国に帰国した彼女の環境と酷似していたためなのだ。
《『万葉集』は、前期の額田王と柿本人麻呂を中心とした歌と、大伴家持一族の歌の多い後期の二つに分かれている。家持の歌には朝鮮語の裏読みはないようである。それが七世紀後半の倭国と八世紀の日本を分けるものともいえる。また列島・半島それぞれが完全に独立国になる過程ともいえよう。》
以上である。ボクは、ふとWikiの「李寧煕」ページで、以下の表記を見つけた。
《李の主張は、俗に韓国起源説と呼ばれる主張と同一視されているが、あくまで万葉集は韓国の古代史を抜きに語れないという視点から文化的影響を綴っただけであり、むしろ「日韓の双方には『劣等優越感』ともいうべき始末に悪い妙な心理」があり、日本人は「歴史的、文化的な韓国の影響をなかなか認めたがらず、何かというと韓国に説教したがる」一方で、韓国人は「日本にしてやられているのに日本文化の起源はすべて韓国といって優越感にひたっている」現状を指摘しただけである。なお、日韓関係を良い方向へ進める策として、「精神分析学では、この『劣等優越感』というのは原因が分かればすぐ治るのだそうですよ」としている。》
日韓におけるは『劣等優越感』ともいうべき始末に悪い妙な心理は、ボクも痛感している。そして、多分、アドラーの考え方に基づくのだと思うが、日韓関係を良い方向へ進める策として、「精神分析学では、この『劣等優越感』というのは原因が分かればすぐ治るのだそうですよ」と。
この原因こそ、この『万葉集』ではないか、ボクはひしひしと感じている。日本列島・朝鮮半島がひとつの歴史を共有していた7世紀から8世紀、これを両国が共有し合えば、共感が生まれ、『劣等優越感』は解消するのではないか、つくづく思う。
本当は怖ろしい万葉集 posted by (C)shisyun