筒井康隆『残像に口紅を』 | 空想俳人日記

筒井康隆『残像に口紅を』

 ちょっと前に読んだ『旅のラゴス』の感想記事「筒井康隆『旅のラゴス』」で、ボクはこう書いた。

 ほんまは『モナドの領域』を買うつもりだったのだが、『旅のロゴス』を買ってしまった。

 そんなわけで、次に読もうと『モナドの領域』も入手してあったのだが、なんと、その後に手に入れた、この『残像に口紅を』を何故か先に読むことにしたのだよ。

筒井康隆『残像に口紅を』01 筒井康隆『残像に口紅を』02 筒井康隆『残像に口紅を』03

 この物語には、「音」を失いながらも、いたるところに重要な言葉が地雷のごとく埋め込まれている。そこにスポットを当てたい。踏みはしないから爆発はせんだろう。

筒井康隆『残像に口紅を』04

第一部

p35
《そういえば「脂肪の塊」「女の一生」を書いた自然主義の大家の巻もない。そしてフローベールも代表作が消えたゆえにない。》
 モーパッサンか。「ボヴァリー夫人」かな。

p49~50
《ひとり消えたな。たしかにひとりいなくなった。その名とともにこの世から消失した。佐治勝夫はいそぎ、記憶から脱落しないうちにと三女の残像を追った。(中略)ひと前で化粧したことは一度もなかった筈だ。少し、色黒だったからか、化粧をして見違えるように美しくなることが照れ臭かったのか。(中略)彼女の化粧した顔を一度見たかった。では意識野からまだ消えないうち、その残像に薄化粧を施し、唇に紅をさしてやろう。》
 なるほど、タイトル、これで合点がいった。

p54
《ひと昔前なら、作家の妻という立場にいてスタコラサッちゃん並みの苦労をしたほどの女なら他のいかに苦労の多いところへ嫁いだとしても充分やっていけると言われたりもしたものだったが、最近の作家の妻というイメージはずいぶん違ってしまっているらしいのだ。》
 なんだ、「スタコラサッちゃん」って。「エッサエッサエッサホイサッちゃん」が浮かんだ。

p63
《「もしもし。果物、たべますか」
 (中略)
 「なんだい。その、もしもしっていうのは」》
「あなた」か。「あ」は最初にない。ここにボクがいたら、最初に消える。

p63
《いったいおれはこの虚構を楽しんでいるのか苦しんでいるのか。どちらでもないのだろうな。人の世がそうなのと同じことだ。苦しみは忘れていく。楽しみはその時限りのもの。そして失ったものもまた、忘れていく。残ったたものにだけすがりつき、残余の命を保っていこうとする。まるで現実そのものではないか。それはたとえどのような虚構だったとしても同じことなのだろうが、このような種類の超虚構的展開によってはじめて明確になる。》
 まいった、これは哲学書だ。

p64
《そういえばこの虚構にはまったく事件が起らないな。読者が退屈しないように、何か事件を起した方がいいのだろうか。いやいや。事件ならすでに起っているではないか。ことばが失われていくという事件が。これ以上、他の虚構における事件のような事件は起さない方がいいように思える。テーマが分裂しないためにもだ。とすると、たいていの現実には虚構における事件のような事件らしい事件なんて滅多に起らないのだから、やはりこの虚構はより現実に近づいていることになるぞ。》
 人類史は「フィクション」の歴史だ。ユヴァル・ノア・ハラリも言っている。

p65
《誰がいたのだろう。何人いたのだろう。すべて靄と霧と霞の彼方、懐かしいほんの数時間前までの過去の中だ。》
 この「靄と霧と霞」が素敵だ。
 
p82
《録音機の透明の覆いをはずしたものの、中に裏返すものが何も入っていず、根本はまごまごしている。このままでは録音機としての機能が果たし得ないということに今ごろやっと気づいたらしく、録音機は消えてしまった。》
 だよなあ、「カ〇ットテー〇」。

p83
《堀が叫んだとき、根本に叱られた仲居がそそくさと料理を運び込んできた。/「板前の手違いでございまして」仲居が脳天から声を出した。「誠に申し訳が」/ 一どきに運びこまれてきた大量の料理が即ち帆立貝の雲丹まぶし、塩釜ほうらく、鶏もつと菠薐草の浸し、ほやの天火焼きなど。》
 次に「ほ」が消えるぞ。料理がすべて消え、堀もいなくなるぞ。

p89
《「ところでね、根本さんはさっき抑止力とおっしゃった。ご自分がやがて消える存在だってことを知りながらです。これは考えてみると現実とそんなに変わらない。わたしたちは自分がいずれは死んでいくと知りながら何かに束縛され、自らを律している。少なくともこの辺では虚構と現実にたいした違いはない。むしろ虚構は現実以上に、どのみち死んでしまうんだからといって登場人物が無茶苦茶な言動を取ることを、真実らしさに欠けるとして避けているくらいです。そうしたことを勘定に入れて考えてみると虚構と現実の境界がますますぼやけてくるんですよ。ぼくはそこがぼやけているためにますます、そのぼやけた部分にどうも真実が存在しているのではないか。」》
 そう。「真実」は「虚構と現実の境界」がぼやけてくるところにあるのだ。

p102
《このような身体的障害的虚構を体験してこれを完結したのちその次のまた異った虚構、違う現実において自分はいかに言葉に対して何ものにも束縛されない自在の観点を身につけていることか。形式や規則のない文学ジャンルだったればこそ、その内容を面白くし作者自身を啓発するには自らによる束縛が必要だったのかもしれないな。(中略)気高くすばらしいことを成し遂げるには束縛が必要だったのだ。絵画、演劇、さらに詩や戯曲などの文学ジャンルにいたる、形式と規則に縛られた多くの過去の傑作群がそれを物語っているではないか。そしてさらにより以上の傑作群たるや、まさにそうした形式と規則を破壊した上に生み出されたものではなかったか。おお。してみればこのおれはたったひとりで規則を創造し破壊することになる。天才のわざではないのか。おれはもしかして天才ではないのか。》
 おお。拍手!
《「規則」とはいうもののそれはたった一度しか通用しないゲームの規則に過ぎないことに思い至って勝夫はわれにかえる。馬鹿馬鹿しい。何を浮かれていたのか。》
 おおお。拍手!!

p114
《自分の意図が音の消失に関係していることを悟った以上はそれを現前することも虚構内存在としての自分が遂行しなければならないことだ。それこそが読者の願望を満たすことになり、さしたる大事件も起こらないこの虚構の中における事件らしい事件となる。読者だってもうそろそろこの作品の、後半部分に入るまでの、読者が退屈しないよう企てられている趣きを知り、次いで何が起るかを悟っていることだろう。》
 おっ、文学賞受賞者の村田を消す気だな。

p165
《 佐治勝夫にはもう何も言うことがなくなってしまった。野方瑠璃子も黙ってしまっている。残されているのはただその行為によって漸進することのみだ。勝夫は片手を瑠璃子の腋の下からやや反った彼女のからだと座布団の隙間に差しこんだ。》
 いやあ、「脇」ではなく「腋」なのだ。いいね。野方瑠璃子は、評論家の津田のゼミにいる頃、佐治の読者で、津田の紹介から、佐治の手伝いなどのおつきあいがあった、と、第一部の終盤に登場するのだが、佐治の妻も消滅し、瑠璃子の夫も苗字の音が消えたために消滅し、旧姓で登場することになった。
 で、佐治は、彼女を訪れ、官能小説が始まる。上の引用前は、言葉の遣り取りだが、言葉とは言え、読者は、ほぼ実行されているものと想像できてしまうので、上の引用前から官能小説は始まっているわけだが、上の引用以降が実際の情交への描写となっていく。これが長いんだなあ。凄いわあ。

p176
《そうした状態の時に最も感覚の鋭くなる部分同士が、互いの顔と顔をまっすぐ上下からまともに視野にいれている勝夫と瑠璃子からは離れてもはや独立した意志と衝動により一刻も早く繋がりを持とうとして互いに探索している。固くなった亀頭の側が焦燥と潤いによって滑走し大陰唇から出はずれその横の股間を強く突いた時、瑠璃子は勝夫の肩にまわした腕の筋力を強くして彼の耳もとに囁いた。/「寝室に」》
 うまいなあ。第一部から第二部に移る第一部の最後がこれだよ。こうして、第二部は、二人の長い情交シーンだ。乞うご期待。

筒井康隆『残像に口紅を』05

第二部

p184
《神社の裏の森の暗闇。寺院の奥の暗がりに立っている観音様。懐かしい幼児期の官能と不気味さに対しての嗜好。そして海。寄ってくるミルクの波。溺死していく女の幻覚。潮の香りによる欲情の亢進。波打つ砂漠に横たわって乾ききったそれを腕に強く抱いた太陽の下。温室の花のまるで人間のような香りと射し込んでくる緑の太陽。思いは死に対しての狂騒的な競争に肉薄して。瑠璃子と共に死に到り死を感じること。それを断行しようという意志の増大。我慢の根拠は薄弱になってきた。やがて緩慢な、そして何度かのささやかな奥の院の徘徊に続く唐突な猛進。軽い唸りの続いていた美しいものの驚愕。瑠璃子の髪の陽光の乱反射と乱舞。規則正しい寝台の軋みが空気の乾いた静かな屋内に流れて、流れて、リズミカルに流れて。心悸の昂まりにつれて断続的になっていく勝夫の呼気と忙しげに酸素をとり入れようとしての鼻息そして瑠璃子のわずかに聞き取ることのできる極度に短い高音。さらにそれよりはずっと僅かな下半身の肌の乾燥した摩擦音と、濃密な湿度を伴う勝夫の男根基幹部と瑠璃子の小陰唇開口部の柔らかな摩擦音。そこに遠くからののどかなクラクションが混ってそこはもうそれ以外の余分なものは一切ない桃源の楽土、濃厚なる空間。》
 第二部は、第一部の終盤から官能小説だよ。第二部の冒頭から延々と続く情交描写。なかでも、めちゃ想像力を掻き立てられる部分を引用したよ。もう随分使えない音があるので、ズバリ言葉じゃない代替品言葉を駆使してると思うのだが、それが逆に上記のように、想像力を試される描写に、ついついわなないてしまう。

p187
《勝夫はまた瑠璃子の片耳とその上部の髪の横に顔を俯伏してシーツに対し忙しく小刻みに息を吐く。瑠璃子の口腔も今は勝夫の耳もとに対してこまやかな軽い息を吐いている。より多く空気をとり入れようとしての互いの鼻息は苦しげに忙しく大きくどうしようもなく揺蕩して断続して規則なしに交錯し、その脅迫的なくらいの息遣いが互いに互いの悩ましさの昂進をはかる。今、勝夫の咽喉から洩れるのは「は」の音と変わり、瑠璃子のそれはさっきよりも高く恍惚の高みに舞う「ハ」の音に変わっている。小刻みな動作に伴って勝夫と瑠璃子の必ずしも交代にではなく洩らしている息の摩擦音と擦過音に挟まれた迅速な「は」と「ハ」の交歓は、ははハははハハはは・はハ・ハ・はははハハは・はハ」・は・はハハハははははハは・ハハハハハ・ははハはハはハはハはハは。それはまるで追ってくる死から逃れようとしている者が吐く苦しげな呼気のようで、またそうした自分を笑ってもいるかのようだ。彼らは激情ののみなもとに懐かしさを抱いて帰郷しつつ交わるのだ。》
 もうここまで来ると、この情交が喜劇に思えてくるよ。

p192
《「そうだな。再会。密会。交わり。邂逅。交渉。交際。交情。そんなおかしなことばしか残っていないようだな。適当でなかったり、辛辣だったり、しらじらしかったり。でも言葉はどうでもいい。おれは君と『密会』したい」/ 君が消失しなかったらのことだが、と、勝夫は思う。虚構の効果として再度の情事が省略されることは確実だが、密会したいことは確かなのだ。》
 はい、読者として、省略していただいて結構です。味わいたければ、再読させていただきますので。

p194
《もっとも無難なのは、おれがさらなる情交を懇願し瑠璃子がそれを拒んでくれることなのだが、おれが恥をかくと思い、やさしい瑠璃子は拒んだりしない筈なのだ。どうしたらよいのか。何か虚構としての手だては。/ まだ何も思いついていないというのに、突如、勝夫は海員会館の玄関に立っていた。》
 この大いなる省略を、津田のせいにするが、ちょうどよかったではないか。明らかに、津田のしわざに思わせんとした筒井氏の戦略だ。

p203
《「ただいま紹介していただいた佐治勝夫じゃが」佐治はことさらに咽喉の嗄れを装って話し出した。「ま、『創作の現状』とはいっても、定職として創作をやっている者らが作っている社会、音楽会でならば『楽壇』が相当の、その社会を簡単に指定できる言葉を突如今見失ったが、ま、そうした社会において現在どのように創作がなされているのかを証言しようとか、そういった話ではないことをまず申しておきましょう。》
 文末(語尾)に使う音が結構消失しているので、語尾が老人言葉になってしまうのだな。あと、今「ぶ」の音が消失したばかりなので、『文壇』が使えなくなった。

p227
《「臭い」と言われた佐治の一家のその「悪い資質」といったものを端的に指示できることばがない。タクシーを降りながら佐治勝夫はその言葉をまだ探している。それはつまりおのれの高貴さを衒い、学を衒い、生まれや家格を自慢し、といったようなことなのだが。横文字だ。カタカナ四音で何と言ったかな。その下に「意識」がくる。「なに意識」だったかな。発音できないのだ。》
 いつのまにか、幼少期を語る自伝小説になってしまってる。ようは、「エリート意識」でしょ。「なんとか」の乱用はインチキだぞ~。でも、現実でも頭の中にイメージが湧いてても言葉に出ないってこと、よくあるねえ。

p240
《二回同じことをしなくてはならないことを男は「なんとか手間だ」と吐くように言い、それをさっきから何回も何回も言って、なのに勝夫に手伝わしたがらない。勝夫はうとうとしている。もう寝室にさがりたい。だが男はそれを許可しない。「なんとか手間だ」男がそう言った。うとうとしていた勝夫がまたはっと自覚して。またうとうとして。「なんとか手間だ」舌の鳴る音。》
 もう、「二度手間」だろ。やっぱ「なんとか」はインチキだ。

p260
《「りがとう、いました」/ わははははははは。会話ならばこの手を使うことも可能だったんだな。まさに身体障害ことばだが、ま、これは使わないのが賢い。うん。使うまい。》
 と言っておるのに、
p291
《「おお。わたしはこの下にいる、この、しがない作家。ははは。名乗るなんて。単なるこの、ここを通る、この、ただの通行人。は。はは。はははははははははは。失礼」》
 こらっ、使ってるじゃん。

p283
《「胚胎した中庭の股間/夏枯れと橙との熾烈な戦いが終って/和解して診断にサインして/遠い潮騒を喝采に/視界から新興市街を刺殺して死屍累累/可憐にして華麗に咲いた/単彩の紫雲の下の単彩の紫苑/この花の真意は」》
 詩だ。形式と規則に縛られた詞だ。

p293
《なに。おれは若いのだ。快活に行進だ。唐突に突進。断崖の突端に登高。走れ。走れ。走れ。》
 これが第二部の最後の言葉だ。相当空回りしてきているが、第三部は、あんまし期待できそうにないな。

筒井康隆『残像に口紅を』06

第三部

p299
《大回転。煉瓦が勝夫の鎖骨、大腿骨を打った。/いてててて。骨幹に苦い痛さ。だが勝夫は立つ。痛さは些細だ。忍耐だ。忍耐だ。》
 だが、この後、主人公であり作者のはずの勝夫は消失する。何故なら、次に「お」が消えるからだ。
 それにしても、やはり、第三部は、どんどん「音」を消してかかってるな。おそらく、連載の第二部までが限界だったのを、単行本化にあたり、無理して「第三部」まで創作して、結局、最後まで「ん」を残し、最後に「ん」を消して、「世界には何も残らない」としたわけだ。
 では、「お」の消滅と共に、この物語を作っていた勝夫が消えた後は、誰が作者なのだ。ほりゃ、筒井氏でしょ。でも、もう自動書記じゃないかね。いや!

p301
《たった九つの、小才の子が抱いた大願。多感の作家、多彩の作家に。多才、偉才、異才の作家、多恨の作家、伊達の作家、異端の作家に。言いつのった九つの児のたてた大願。だが、採点がいかに。たかだかこの才だ。一転、二転、三転。この展開、この沙汰に至った悔恨。この差異。この大差。最低だ。》
 筒井氏が第三部まで書いたのは、これが言いたかったのではなかろうか。そして!

p303
《胃が痛い。いつだったか。「引退だ」って津田が言っていた。合点。/胃が祟った。大患の悔恨が残ったのだ。》
 なんと、主人公の「勝夫」は消滅しているのに、批評家の「津田」は、まだいるのだ。

p306
《がたがたがた。がたん。がん。がたん。がん。》
 3音だけ、「が」「た」「ん」を残したねえ。オノマトペの勝利だよ。

p307
《ん。》
 んんんんんんんんんん?

筒井康隆『残像に口紅を』07

 巻末の調査報告「筒井康隆『残像に口紅を』音分布」で、難しいことは置いといて、面白いことが書かれている。
 ひとたび消した音を使ってしまっている違反が第二部までに5件ある、と。特に、「ど」を消したすぐに「漫画などを描いて」(p236)と使っちゃったよ。
 わはははは。

 以上


筒井康隆『残像に口紅を』 posted by (C)shisyun


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