安部公房『棒になった男』(再読) | 空想俳人日記

安部公房『棒になった男』(再読)

 G.W.直前に熱田神宮へ参拝じゃなく、散歩に行った話をブログ記事「熱田神宮千九百年の歴史」に書いたよね。で、そこに、
《その後、神宮商店街の古本屋「コトノハ」さんで、すっごい本を見つけた。思わずゲット! 読んだら、また紹介するね。随分先になると思うけど。》
 そう書いたけど、お待ちかね(誰も待ってないか)、その本の話。
 な、な、なんと、安部公房の『棒になった男』の単行本を入手したのよ。この『棒になった男』というのは、小説『棒』を戯曲化したもの。『棒』と言えば、ボクが大学当時、高校の国語の教科書に載ってて、母校の熱田高校へ教育実習に行ったときに、教科書の『棒』の授業をやったよ。
 あと、『棒のエチュード』というシナリオを書いて、森田辰巳監督と映画化を図ったねえ。このことは、ブログ記事「安部公房生誕100年記念『オマージュ「棒のエチュード」』再録」にも書いたので読んでえ。

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 ボクが戯曲版を読んだのは、多分、当時出版されてた安部公房作品集だと思う。奥付のクレジットを見れば、大学時代だと思う。

安部公房『棒になった男』(再読)03

 ところが、今回入手したのは、な、な、なんと、昭和44年出版の初版本、ボクは、まだ13歳。安部公房と出会っていない! 

安部公房『棒になった男』(再読)04

 再読するに、手がぶるぶる震えて読んだヨ。再読して思ったけど、小説『棒』を読んでいるせいか、生前から「棒」であることは全く希少価値がない、ということに「ウンウン」。あれだよ、多分、後日、安部氏大好きなピンク・フロイドが『アニマルズ』発表した時に、「羊は棒だよ」じゃなかったのかなあ。

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 ちょっとだけ「棒」を解説。人間って、生まれた時から何をするか決まってないのに、殆どの人が「棒」になってしまう。だから、デパートの屋上で外界を「ぼ~」と眺めているお父さんが、「棒」になってしまう。これは、当時(今も)、多くの庶民が幸せを手に入れるために「やりたいことをやる」のでなく、「棒になって生きる」ことで幸せを手に入れられるとした、そんな人たちの物語。
 安部公房が拘った、人間らしく生きることを放棄した人がここに描かれているね。

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 あと、この本が凄いのは、戯曲の発表、つまり、初演に合わせて出版されている。『棒になった男』以外に、『鞄』と『時の崖』。
 この3つの作品は、後には分断されるけど、当時は、3部作、だから、演劇の際の主人公は同じ役者、それが必須だったそうだよ。初演は、見事に3作とも、井川比佐志さんが主役みたい。

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 ボクは、井川比佐志さんのボクサーを演じる『時の崖』の映像を、何処かで観た
! 読んでて、とても懐かしかった。

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 そして、冒頭の『鞄』。これ、ボク、読んでないかも、初めてかも。でも、他の作品とともに3部作なら、『鞄』は、ある意味「仏壇」であり「思い出アルバム」だね。誰の家にも「センゾ」がいつづけるって、ボクたちは、そうした過去を払拭して、いや間違い、過去の幸せを思いおこし、今を生きる、明日を生きる、その力にする。払拭するの? 過去の幸せにすがるの? これ、どういう意味か。
 実は、この戯曲に対して、随分後で、『笑う月』という作品集の中に、小説『鞄』がある。高校の国語の教科書にも掲載されたりしているらしい。こちらで読み取れるのは、真逆の2つ、鞄が選択肢を失くしているという負の要素と、鞄こそ世間の眼や常識に囚われない自分の意志。さて、どちらだろう。
 これを、先日読んだ『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』の一人、キルケゴールから考察すると、

 そして、なるほどと思うこと、それは、選択と決断は別のもの、と。選択は理性的な判断であり、決断は理性を超えたもの、と。
《結果が確信できるまで行動を控え、良い選択をするために論証を重ねることを正当化していたら、結局何もできないまま終わってしまう。疑念があっても踏み出すこと、それは決断であり、選択ではない、決断は科学ではなく、芸術なのだ。》
 いいでしょう。なんか、大江健三郎の『見る前に飛べ』を思い出す。
 最近、結婚しない人が多いというが、おそらく理性での選択ばかりしているからじゃないかな、「えいやあ」という直観での決断ができないんだろう。
 そして、神を信じることを「選択」したと思い込んでいるが、実は、それも決断なのだ、と。

 たまたま戯曲では、鞄を前にしているのは、二人の女性。一人は、鞄の持ち主の夫と結婚した既婚者、もう一人は友人の独身女性。決断した女性と、決断できない女性、とも。
 そう、「鞄」は、選択じゃなく、決断ではなかろうか。それは、時には「負」にもなり「正」にもなる。選択肢が多くても選択できないときの、決断、それが「鞄」なのじゃないかな。つまり、自分に大切なものだけど、センゾでもあり、赤ちゃんの死体でもあったり、ボクたちが世間一般とは違う選択の価値観ではない、何か分からない力、ではなかろうか。
 この戯曲の「鞄」は夫が結婚するときに先祖も含めてこれまで生きてきた過去を清算封印した夫そのものかもしれない。
 そう考えると、鞄の鍵穴は男の身体の何処にするかは演出家に任せる、と書いてあるが、やはり、お尻の穴が適切だと思う。
 こう解釈すると、「時の崖」「棒になった男」も主人公は同じ役者が演じなければならない理由が仄かに見えてくる。


安部公房『棒になった男』(再読) posted by (C)shisyun


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