安部公房『(霊媒の話より)題未定』 | 空想俳人日記

安部公房『(霊媒の話より)題未定』

 ずいぶん昔に安部公房初期短編集として新潮文庫の『水中都市・デンドロカカリヤ』を読んだ記憶があるけど、それよりももっと初期作品があるんだあ。この度、安部公房生誕100年を記念して文庫化された晩年未完の『飛ぶ男』、そして、このさらなる初期作品集『(霊媒の話より)題未定』。
 とにかく生誕100年を記念して、新潮文庫が2冊出版された。30年ぶりだそうな。『飛ぶ男』は当時、単行本をすかさず入手したけど、また買ったよ。何故なら、当時単行本で出版された決定稿とは違う初稿段階の文庫化らしい。そして、『水中都市・デンドロカカリヤ』よりもさらに初期の作品集『(霊媒の話より)題未定』。
 前にブログ記事「芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ」にも書いたけど、実は、手に入れたのは、新潮文庫の『飛ぶ男』、そして『題未定』、それから、『芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ』の順だよ。でも、逆に読むことにしたので、先に『芸術新潮2024年3月号【生誕100年記念 特集】わたしたちには安部公房が必要だ』を読んだのね。そして、続いては、この『(霊媒の話より)題未定』。

安部公房『(霊媒の話より)題未定』01 安部公房『(霊媒の話より)題未定』02 安部公房『(霊媒の話より)題未定』03

 これ、「題未定」というのは、文庫化にあたり、「とりあえず出すけど、題名は未定だよ」、そんな告知文句だと思ったら、なんのことはない。作品そのものが「題未定」だったんだ。その前に(霊媒の話より)って副題が何故か、あえて前に付いてるけどね。
 読んでみた。

安部公房『(霊媒の話より)題未定』04

『(霊媒の話より)題未定』
 小作からも人気の高い地主さんと奥様が紹介される。お二人の間にできたお子様は早期に亡くされてる。温厚なお二人に対し、元気すぎるおばあちゃんのお話が登場する。地主さんのお母さん。その一方、家族を知らないパー公は見世物小屋のお子様。そこには、ちょっと年上の、パー公を愛するクマ公がいる。これって、安部公房作品? パー公とクマ公の友情物語じゃん。安部公房も、20代前に小説を書き始めた頃、こういうヒューマニズム臭い小説を書いたんだ、そんな驚き。リルケにカブレたのは聞いてたけど、まさか。途中で、語り手は詩を披露する。安部氏は『無名詩集』をガリ版刷り自費出版してるが、ここで「詩を読まずに飛ばしてくれてもいいよ」なんて言っている。読まれなかった『無名詩集』に対する反逆だね(詩集より前の作品かな)。
 で、詩の後、後段になるんだけど、いやあ、霊媒ねえ、ここからが面白くなるよ。安部作品のキーワード「幽霊」の前身だよね、これは。特に、パー公の悪夢、いや、悪い夢ではなく、悪い奴が見る夢なのかもしれないが、インチキ霊媒で幸せを得ることに苦しむ描写がくどいほど凄まじい。この辺りは、まだ消しゴムで書く行為は習得できていないかも。だが、悪夢の中にこれまで関わってきた連中が彼を苦しめる。「お前が殺したんだ」という声まで聞こえる。彼は実際は殺していないが、それを願い、現実となって幸せを勝ち取っているのは間違いない。後々の安部氏のキーワード、「未必の故意」を思い起こさせる。そして、そうした悪夢の中、「愛を知る」のだ。クマ公や女将たちからの。後々の安部氏と違って、隠喩ではなくダイレクトに表現されているので分かりやすい。
 ただ、ラスト。パー公がどうなったかを読者の想像に委ねるのは、安部氏らしい。19歳での作品とは思えない。

『老村長の死』
 巡査親子に足元をすくわれる村長の話。夜の集会に向けて、家族に八つ当たりしながら集会での答弁の練習をするところから始まる。そして、実際の夜の集会までには至らない。村長は集会が不安で仕方がないのだ。悪夢の中での自問自答とでもいうべき集会所での妄想、「村長と云う職務、それ自身既に一つの法律的職務何であります」という巡査の息子を空想する。
 巻末解読で『飢餓同盟』『砂の女』での土俗的な人間関係と。確かにそれもあろうが、これは法と権力の問題だと思う。そして、権力の上に坐する者の愚かなまでに哀れで滑稽な。村長だけでなく、国家権力に坐する者も同然だ。見よ、国会議員の揚げ足取り合戦を。
 最後の村長が風呂場で溺死するところが安部氏らしい結末。しかも、村民は「村人に責任を感じて死んで果てた」と。ただ、自殺なのか事故死なのか、誰にも分らない。読者にも分らない。そんなこと、「うまく行ったわい」とほくそ笑む者にとっては、どうでもイイことなのだ。

『天使』
《固い冷たい壁だと思っていたものが、実は無限そのものであり、恐ろしい不快な鉄格子だと思っていたものが、実は未来の形象そのものに他ならなかった》
 確かに、これは『壁ーSカルマ氏の犯罪』だ。だが、部屋が牢獄とも病室とも思えないだろうか。黒い服のジャラジャラ音を立てる者が監視人、黒い服に白い上着の天使が医師に見えないか。「近頃、馬鹿に落ち着いたなあ」と言われる自分は狂人じゃないか。紙と鉛筆もいらない、笑っていればいい、とする天使を、その名の通り「天使」と、どうしてもボクには受け取りがたいのだが。ようは、今でいう、平和ボケで生きている人たちみたいな。基本、天使は、死んで存在する、と思う。

『第一の手紙~第四の手紙』
 題名では、どんな小説か分からない。単に、手紙形式で、4つの手紙で構成されいるのだ。だがあ、いかんせん、現存する4つの手紙以降も続くのだが、第4の手紙の続きは次ページで、それは現存していないそうだ。もったいない、せっかく、『他人の顔』のテーマが語られているのに。
 主人公は、「詩」について見知らぬ人に手紙で語るお話。ま、見知らぬ人はうちらだ。舗装工事のおじちゃんやら、誰もが気にせず通り過ぎるのを、恋する人がジンクスで線を踏まないように歩く描写。そんなことを手紙形式で綴る。後々のノート形式の走りだね。重要なのは、工事人の一人との「似てるんじゃないの」。そして、ある日、おかしなセールスマンが訪れる。ここらへん、『他人の顔』を彷彿とさせるね。でも、残念、「第四の手紙」以降も安部氏は書いてると思うけど、現存していない。
 なら、作っちゃえばいいじゃん。ボクなら、第五の手紙でこう書く。主人公が誰に手紙を書いているか分からないけど、それとほとんど同じ手紙が主人公のもとに届く。それは、舗装工事をしてたおじちゃんの一人、どうにも気になった彼からの手紙だ。彼は仕事中、誰も気に留めないなか、主人公が自分を観てることで気になってたのだ。
 そして、あるセールスマンによって、手や顔が普通じゃない、手はすべすべ、顔は裏返し、かと思ったら、そうではなかった。でも、これ、先の舗装工事の彼が、主人公に仕向けたのよ。何故なら、彼もそうだから。
 そして、最後は、自分が誰かに送ってた手紙が、実は、ボクらに重要な手紙となる。君も同じ穴の狢じゃないかな、と。これが、安部氏の目指した「運命の顔」なのよ。ほんまかいな。

『白い蛾』
 白蛾丸という名をつけた船長の名づけ由来の話。ええ話やないすかあ。やっと手に入れた船に形も速さにも満足いかなかった船長は、いつも腹立たしく、船員にも八つ当たりの毎日を過ごしていた。そんな時に白い蛾が舞い込んできた。その白い蛾の船長作のお話。
 生物界でやっかみもんの白い蛾は、鳥たちに追われて、果てまで逃げ惑ったとき、白い船を見つけ、そこに身を隠そうとする。船室には白いバラ。そのバラに止まる蛾。いつしか、バラは朽ちていくが、最後の一弁になってもしがみついて衰えていく蛾。そして、最後の花びらが散るとともに蛾も死んでいく。その蛾が標本となって船室に飾られている。
 そんな由来にたいし、けっして愛や友情ではない、と船長は言う。もちろん、安部氏自身が、そういう話を書いたわけじゃないと言いたいのだ。安部氏は、船長の口を借りて、こう言う。
《此の蛾の運命が、私共人間の背後にひそむ悲しい運命に通っている様な気がしてならなかったのです。これも要するに、私の心があく迄もゆがみ曲げられていたからだとは思いますが……。/でもその後、自惚かも知れませんが、私の性格もすっかり変わった様に思うのです。》
 メチャ分かりやすいお話だねえ。

『悪魔ドゥベモオ』
 ドゥベモオとはエスペラント語で「懐疑」の意だそうな。いきなり名刺を破る、自分の名刺と自分自身の対比のモノローグ。『壁ーSカルマ氏の犯罪』に、もうすぐ手が届く。ちなみに、カルマとはサンスクリット語で「業」である。「業」≒「懐疑」かもしれない。
 悪魔に取り憑かれた作家。この頃、『終わりし道の標べに』で文壇デビューしているので、ある意味、自分の作家生活の裏返し的な作品でもある。
 別居以来ずっと会っていない妻が、手紙を送ったことで間もなく訪れる。その手紙に書いたことを後悔するが、致し方がない、なんせ出版への通路は妻を介するしかないからだ。
 壁の隙間から登場する悪魔。彼に、作家は、妻に渡そうとする作品を朗読する。それは、神が、人間という創造する生き物を作り、数々の失敗をしたことで悪魔になる。その悪魔を人間は神以上に必要し崇める。そんな、あの旧約聖書のアダムとイブが犯す失敗を盛り込んだ、悪魔が主人公の物語。
 どうやら妻が来たようだ。途中で朗読を止めるが、扉の向こうには、妻ではなく代理人の息子が雨にびしょぬれになった姿で怯えるようにして立っている。
 あらすじを全部書いちゃうとネタバレになっちゃうので、あとは書かない。安部氏は、『壁ーバベルの塔の狸』もあるように、旧約聖書をモチーフにするのがお好きなようだが、ある意味、旧約聖書を裏返して、現代社会の暗喩に使うのがお得意なのだね。これは、神話や童話の感覚でもある。人間は神に支えられているとすれば、同じ穴の狢である悪魔にも憑りつかれているはずだ。

『憎悪』
 なんか話が唐突に始まるなあ、そう思ったら、どうやらノート断片4葉に書かれてたらしいうち最初の3葉が消失してるらしい。道理で。
 二重人格の人格同士の対話だよ。これ、名刺の自分と自分自身に置き換えると、名刺の自分が君であり、自分自身は僕だねえ。君が死んだ3月7日は安部氏の誕生日ね。
 終わりの方は、多重人格というか、名刺の自分は沢山の肩書になっていく。君達と複数になる。「生々しい現実」氏、「世界観」氏、「集団主義」氏、「弁証法」氏。どうやら、「僕」というのは、実存主義者のようだよ。

『タブー』
 初めの方に出てくる「牧神の午後」は、マラルメの『牧神の午後』に感銘を受けドビュッシーが作曲した『牧神の午後への前奏曲』だよ。まだピンク・フロイドには出会ってない。

 絵画では「セザンヌ、ヴラマンク、ルオー、ピカソ、ダリ」。ダリはボクと同じ趣味だ。
 タム、タム、タム、タム……。隣室の老人、彫刻家。
 たまらず主人公は隣室の老人を訪れる。
 タム、タム、タム、タム……。木偶を作るときの呪文。
 そして、老人は、過去から現在までを語る。二人の関係はいかに。
 全ての音が、タム、タム、タム、タム……。この小説は、後ろから読んではいけません。
 ちなみに、木偶の坊は 人形。あやつり人形であり、役に立たない人、気のきかない人。タブーの語源はポリネシア。

『虚妄』
 いやあ、これはメチャ面白い。主人公の男のKという女に対しての揺れ動く気持ちの叙述。上下左右に瞬時に揺れ動く心の吐露。有頂天とどん底、愛憎のリフレイン。
 Kは、Mという友人の上司の妻。そのKがMのもとに逃げ込む。Mは彼女をQと呼び、暮らし始めるが、Mは彼女を「ロボットだ」と。そして、K(Q)は、Mのもとを去る。そして、街で見つけたKを主人公は誘惑し自室へ。そうして二人の暮らしを始めるのだが。結局、主人公も笑わないKが理解できず、出て行ってくれ、だけじゃなく、消えてくれ、死んでくれ。
 何故、理解し尽くそうとするのだろう。向き合ったって、見つめる視線は何処に落ちてるか分からない。向き合って見つめ合って理解しようとも、自分という一人称は二人称や三人称にはなれない。相手だって、二人称や三人称でしかなく決して一人称になれない。よっぽど、背中合わせとか、抱き合えば、僕は前を見、君は後ろを見る、心身を一つにして見えないところを補え合えばいい。そうじゃないときは、同じモノを、同じ景色を、横並びになって見つめた方がいい。
 所詮、男は、異性との性的行為は、彼女を道具として自涜行為をすることと五十歩百歩だ。「感情や心の交わりがあるぞ」の多くは虚妄でしかない。終えた後の脱力感、「本当にこの女を俺は愛しているのだろうか」と言うのは、男のエゴであり、男の生理的現象でしかない。たとえ、「あなたとが一番燃えあがる」と言うのも、男のエゴに付き合っている彼女のプレゼント。真に愛するのであれば、行為の前に彼女と向き合うのではなく、彼女が何を見ているのかを知り、それを共に見ることで発見することだ。共に生きる意味を。
 本当に思うことは、何故、理解し尽くそうとするのだろう、ということ。もう一度繰り返す、向き合ったって、見つめる視線は何処に落ちてるか分からない。向き合って見つめ合って理解しようとも、自分という一人称は二人称や三人称にはなれない。相手だって、二人称や三人称でしかなく決して一人称になれない。よっぽど、背中合わせとか、抱き合えば、僕は前を見、君は後ろを見る、心身を一つにして見えないところを補え合えばいい。そうじゃないときは、同じモノを、同じ景色を、横並びになって見つめた方がいい。
 でないと、お互いは虚妄を築き上げるだけ。ところで、Kは本当に死んでしまったのか?

『鴉沼』
 これ、鵜沼という地名かと思った。いやいや、違うよ。鴉はカラス。カラスの沼? 秋田県に烏沼(カラスヌマ)というところがあるみたい。空素沼とも書くみたいだ。
 勿論、舞台は日本ではない。巻末の加藤弘一氏の「解題」によれば、安部氏が育った奉天(現在の瀋陽)、つまり敗戦直後の満州だ。『けものたちは故郷をめざす 』を思い起こした。
 10年ぶりに再会する男と娘。「やりなおそう」という男に娘は、結婚相手がいる。「おそすぎた」「忘れてね」「間に合わない」という娘。そして、たった2~3日の間に、また会うのだが、その間に男は暴徒と化したモップ(群衆)に同調し、瀕死の状態になる。活きているか死んでいるか分からぬ彼を鴉が襲う。その彼の片目を抉り食う描写が凄い。そお、安部氏の、風景描写と心理描写が交錯し織りなす心象風景が凄まじくスゴイ!!
 特に、瀕死の男がやっと立ち上がったあと、娘が男と再び出会うのだが、そこで娘は「私に必要なのはあなただけだったのよ」と言う。が、彼は、「ああ」ばかりで、「間に合うわ」の娘に対し、やっと「こっちへおいで」と言うが。
《娘は思わずその腕の中へ飛び込んでいってしまった。(中略)いかなる期待をも裏切らない、どんな期待をも越える幸福。しかも彼女がそれを受取ったのはもうその期待さえ失おうとした瞬間ではなかったか、腰のあたりを愛撫していた男の手が次第に上へ上がってくる。胸へ、肩へ、……娘も激しい戦きを抑えることが出来なかった。そしてその手は首へ、はっと思った時娘は首を強くしめ上げられるのを感じた。》
 引用はここまでにしておくね。この後、どうなったかは、買って読んでね。それにしても、10年に対し、たった2~3日。モップ化する男、群れる鴉の対比。ここでの描写は、後々の軽妙な語り口の安部作品とは確かに違う。しかし、先の「解題」を書いてる加藤氏曰く
《安部が「前衛文学」を標榜し、変身譚や超現実的な物語が同時代において異彩をはなっていたのは事実だが、世界文学の視野で見た場合、まったく新しい分野を開拓したわけではなかった。》としながら、括弧書きで《むしろ自己の方法論をクレオール言語論や脳科学で基礎づけようとした試みは他に例がなく》にボクは共感している。そして、こう続ける。
《われわれは今や安部公房の作品を「前衛文学」という枠にとらわれず、総体として読むべきなのだ。生前未発表・未再録だった作品は作品それ自体として価値があるのはもちろん、『砂の女』や『他人の顔』といった傑作群を読み直すヒントを与えてくれるだろう。》と。
 そうなのだ。この『鴉沼』もそうだし、それ以前の作品も、前衛文学=安部公房ではなく、文学=安部公房として、総合小説として読まれるべきだ、そうボクは思った。

『キンドル氏とねこ』
 アマゾン・キンドルのこと? いやいや、当時はそんなものあらへん。もともとは、〔火を〕付ける、おこす、〔感情などを〕燃え立たせる、そんな意。
 さてさて、読み始めて、いやあ、やっとお馴染みの『壁』で表現される軽いタッチ安部作品、最後に登場かあ、と思いきや、読み進んでいくうち、「プチン」と終わる。
「なんだ、未完の作品か」と、ポケタ~ンとなった。どんな続きを書こうとしたのだろう。もう1回読み直す。
 支店長に就任したばかりのキンドル氏。そこへ、ノックしたのは、メタ嬢。メタファー、メタモルフォーゼの「メタ」だと思う。彼女を事務所に入れると「素早く後手に戸を閉めると錠まで下ろして」しまうのは、とにかく「コーヒーを飲みにゆこう」と、彼は立ち上がり、「別にそんな気はなかったのだが何時ものくせで思わずメタ嬢を引きよせようとして」とあるように、欲情を燃え立たせてメタ嬢に何かしようとしたのだろうねえ。
 メタ嬢は、「陰謀」を告げに来たのだ。それはアクマ無用論運動の張本人らしいカルマ氏。おそらく、彼は名刺的存在なんだろうねえ。
 天井で、ばけねずみの音。ねこがいるな、キンドルは思う。トンネル通りの八百屋のネコを手に入れようと思うのだが。未完、ネコは登場しない
 そして、コーヒーを飲みに行った店先で、企画部長コモン氏に出会う。きっとデンドロカカリヤになるんだろうなあ。キンドル支店長就任の日にアクマ社長が亡くなった。このことに、キンドル氏は「死んだのじゃなくて、ただ自由という名でもって特殊から普遍に次元を変えただけ」とメタ嬢に言ってたが、
「あなたが殺人犯人でないことは、誰がなんと言っても信じます」というコモン氏の言葉に、ぎょっとして立ち上がるキンドル氏。両脇(コモン氏とメタ嬢)からかけられた腕の重みに、罪人になった気分。カワド理事長も追求しに来るという。カワドは、川の足場で、洗濯場。おそらく、キンドル氏を洗いに来る。そこで未完。
 前の『憎悪』の「生々しい現実」氏、「世界観」氏、「集団主義」氏、「弁証法」氏から、キンドル氏、カルマ氏、コモン氏、アクマ氏へのカリカチュールな漸進的横滑り、分かりやすいね。
 でも、こりゃ、続きは書けんな、たぶん、安部氏は、『壁ーSカルマ氏の犯罪』の方へ思考を移行させちゃったんじゃないかな。でも、ムリムリ続けてたら、きっと、カルマ氏の陰謀で、アクマ社長を殺した犯人にキンドル氏がさせられちゃうだろうなあ、そうして、デンドロカカリヤになるくらいのコモン氏だから、彼もカルマ氏側に回ってアクマ無用論に同調してキンドル氏を犯罪者扱いに。
 そうした中、キンドル氏は、「真犯人捜しを一緒にしてくれ」とメタ嬢を誘惑して、逃亡の旅に出るのだね。キンドル氏は、アクマ社長殺人のカギを握るのは、ばけねずみだと思い込み、ネコを八百屋で借りようとするが、「うちのネコはもういにゃあよ。アクマ社長にあげたんよ」と。どうやらアクマ社長は猫が大好物だったらしい。そこで、メタ嬢が変身して、ネコになり、ばけねずみをとっちめる。ばけねずみ、「分かりました。真犯人を知っています。一緒に旅に出ましょう」「どこへ」「もちろん、アクマ社長の殺人現場へ」3人はタイムスリップ。
「ほら、社長室です」天井裏の穴から3人で覗けば、そこにはアクマ社長とメタ嬢が。「いいじゃないか」「よしてください」「ちょっとだけさ」「いやです」
 そこへキンドル氏が社長室へ。「社長何をしてる。俺のメタ嬢に。俺も仲間に入れてくれ」「やだね」。その現場を覗くメタ嬢もキンドル氏もびっくり、「どういうこと」。「そういうことです」とばけねずみ。
 そう、殺人者はキンドル氏。そして、「アクマ社長は嫌だけど、キンドルさんならOK」だったという共犯者はメタ嬢。では、「今、ここにいる私たちは?」とメタキン両者。ばけねずみは、「あなたたちは、もう死んでいます。いえ、死んだのでなく、ただ自由という名でもって特殊から普遍に次元を変えただけです」。こうして、ばけねずみのアインシュタインくんは特殊相対性論から一般相対性論を打ち立てた。そして、二人をラクダに乗せ、月の砂漠をはるばる行く永遠の旅へと送り出した。
 はい、おしまい。

 ということで、安部公房『(霊媒の話より)題未定』に対するコメントを書いたが、最後の作品(しかも未完)を除いて、どれもが当時、安部氏がリルケや実存主義(サルトルではなくハイデッガーかもしれない)に傾倒していたため、前衛文学と言うよりも、ドイツ観念論的表現の作品が多い。しかし、この初期作品集を読めば分かることだが、そこには、安部氏の思想というか思考回路の源泉が、剝き出しの形で散りばめられている。彼が人間という存在をどう捉えていたかが、生々しく描かれていると言える。安部氏を理解する上で、これらの作品がいかに重要であるか、ひしひしと伝わってくる。
 巻末の「解説」を、ヤマザキマリさんが書かれておられる。十代の頃に単身イタリアへ渡り極貧生活を送っていたヤマザキマリさんの生きる支えになったのが『砂の女』だ。それ以降、彼女は安部公房作品の評論家としても素晴らしい著を表されておる。その彼女が、こう言う。
《この世に生まれてきたことへの正当な答えを探して彷徨い、群れ組織への帰属に安寧を求め、それに戒められ、幻滅し、最後には社会から抹消されていく主人公たち。/ 彼らはまさに安部公房自身であり、この短編集は、不条理と理不尽に満ちた世界に生きながら、横溢して止まない思考を文字にかえて燃焼させ続けていた、エネルギッシュでナイーブな文学青年の命の奇跡なのである。》
 ボクも同感だ。この短編集は、まさに安部公房の源泉であり、命の奇跡であると思う。


安部公房『(霊媒の話より)題未定』 posted by (C)shisyun


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