大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」 | 空想俳人日記

大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」

 凄い「大江健三郎」の評論を発見! 書いた方は井上隆史氏。

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 以下、この本について、某サイトから。

東京大学でフランス文学を学んでいた学生時代の作品「奇妙な仕事」以降、常に文学界の先頭を走り続けてきた大江健三郎。1958年に「飼育」で芥川賞、67年に『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞、73年に『洪水はわが魂に及び』で野間文芸賞、83年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』で読売文学賞、同年、『新しい人よ眼ざめよ』で大佛次郎賞、そして94年には川端康成についで日本で2人目のノーベル文学賞受賞者となった。
新しい戦前と言われる今日、代表作を初期から順に読み進めることで、「民主主義者」「平和主義者」としての大江像に再考を迫る。


大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」04

第一章 三つの処女作
 1957年、東大で仏文学生だったとき五月祭賞をとった『奇妙な仕事』、芥川賞候補になった『死者の奢り』、1958年に芥川賞をとった『飼育』。『奇妙な仕事』は大学病院の実験用の犬を不要になったので皮を剝ぐ仕事。『死者の奢り』は解剖教材用死体を新しい水槽へ移す仕事。いずれも学生アルバイトの話。
 この作品で、著者は、上昇と下降のベクトルを指摘している。ただ、『奇妙な仕事』では、「犬の鳴き声は天の彼方に」に対し、僕は「どこまでも下降する」、二つの力は重なることがないのに対し、『死者の奢り』では、二つの力が最後には葛藤し続ける(階段を駆け下り→喉へこみあげてくる→のみこむ→押し戻してくる)。
 このふたつの作品は現在の東京だが、『飼育』は過去の地方山村(たぶん大江の故郷)、飼育される黒人兵と村の子どもたち。究極のエロチシズムで全二作を乗り越えようとしている。
 著者も書かれてるのだが、実は、この三作品での東京での上昇と下降のベクトル、そして、それを越えんとする過去の故郷でのエロチシズム。これが、大江文学の原点であり、この源流が、その後の作品にも脈々と受け継がれ、ああでないこうでもない、真実を描こうとしながらも、大江の中で絶えず葛藤が繰り返され、本当のことに思えそうな作品を生み続けるのだが、実は、自らも葛藤の中で思考に翻弄され、明るいものが見えてこない。
 それが人間なのだ、そう言ってしまえば、おしまいなのだが、晩年の『水死』になるまで、副題にある「本当ノ事」は見え隠れしながら、語り尽くされない。だから、逆にフィクションとして、何回でありながらも、ユニークで「ぎょっ」とさせられる大江文学ならではの作品が生み出され続けたのだと思う。

第二章 純粋天皇の胎水しぶく
 太平洋戦争末期に感化院の少年たちが山中に集団疎開する『芽むしり仔撃ち』。ここには、「村を追い出される僕」という主人公と大江自身を重ねてみることができる。おそらく、大江は好んで東京へ行ったが、「戻らぬ人間」として故郷から白眼視された思いがあったのじゃないかと、ボクは思う。大江にとって、戦前戦後の故郷と戦後の東京との間で、自らの拠り所に対し孤独と戦う以外、相手はいない、それほどの孤独な人だったとボクは思う(こんなことここには書かれていないが)。
 そして、『性的人間』と『セブンティーン』。ボクは、文庫版『性的人間』に『セヴンティーン』が収められていたので、両方読んだが、ボクの大江デビューは、この作品なのだ。ただし、『セヴンティーン』は、発表当初は第二部「政治少年死す」があったが、「天皇を侮辱する」もの、そして右翼少年による殺しや脅迫などがあり、ずっと封印され、2018年刊行の「大江健三郎全小説3」でやっと陽の目を浴びることに。だから、ボクは読んでいない。
 ただ、この作品は、右翼に批判的というよりも、ここにも書かれているが、大江の天皇に対する偏愛が窺い知れるのだ。大江にとって、天皇の存在は、父であり、三島への妬みであり、民主主義・自由主義を理性で叫ぶ大江の闇の部分でもある。これは、戦前戦中の山村、戦後の東京、このはざまに彼は引き裂かれる心が闇の中にあるものと思う。
 そして、性的人間と政治的人間は、表裏一体でもあるのだ。

第三章 アナルセックスと赤ん坊殺し
 ここで、後年の小説のモチーフとして重要な存在、光くんの誕生がある。それによって書かれた『個人的な体験』。「頭蓋骨から脳の内容がはみだしてしまった」と言う描写、バードは思考停止する。バードは大江自身だ。ボクは、大江が名前を変えて様々な主人公を演じる彼の小説を、ある意味、私小説ではないか、そう思っている。ただ、太宰などの無頼派と違うのは、大江は、自らの生きざまを、あのレヴュ・ストロースが唱えた構造主義に転化し、全体小説を描こうとしている。つまり、人間の悲喜劇を全体でとらえようとしているということだ。
 そして、ここでのもうひとつ『ヒロシマノート』。大江は、小説では構造主義と述べたが、彼の社会的活動は、まさしく実存主義者サルトルのアンガージュマンだと思う。そのアンガージュマンによる結晶が『ヒロシマノート』であり、後の『沖縄ノート』だ。
 ここで、大江は、文学的にも社会的にも、マイナスのパワーとプラスのまやかし臭いパワーに引き裂かれます。『個人的な体験』は、赤ん坊殺しやアナルセックスなど
の終盤近くまでに対し、結末が希望を持って明るく観ん対強くいきることを。これが、結末が矛盾しているという批判となる。ただ、大江は、自らの中に矛盾を抱えながらもそうせざるを得ない。何故なら、部分確定の問題や原水爆禁止世界大会の分裂に対し、同様な明るい希望を持って運動し続けねばならないからです。言ってみれば、実存主義的な活動をしながら、それは批判したレヴュ・ストロースの構造主義的描き方を文学で目指す、大江の生きていく困難さであり、そこが動力源となって次々に問題作を生んでいくのだから。

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第四章 オレハ本当ノ事ヲイッタ
 著者さんが、『水死』とともに最高傑作と言う『万延元年のフットボール』が採りあげられている。
 東京の現在と地方山村の過去を交錯させ、時間も空間も越えた全体小説の結実だと思う。従来の垂直方向性に、新たに水平方向性も加えられている。
 また奇怪なエピソードも酪酸盛り込まれているが、ここではその常軌を逸した首つり自殺、全裸で頭と顔を真っ赤に塗り肛門に胡瓜を突っ込んで首つりするとは。
 ここで思想家の柄谷行人の論考が紹介されている。近代日本が置かれた困難な状況を、国権ー民権と西洋ーアジアという二つの軸による座標によってあらわし、『万延元年のフットボール』の登場人物を座標上に位置付けている。ただ大事なのは、人物がこれらのタイプにずっと留まっているか、そうでなく、座表上を時間とともに動いていないか見極める必要がある。生涯にわたって転向しないか否か、設定と未来を考えること、それが作品構造を考えることになり、社会構造を分析することにもなる、と。
 ただし、同じ価値観で同じ価値共同体を生きているという楽観的な構図はないと大江は考えたのだ。これは、著者もこの章の締めで書いてるが
《そんな大江が、近代的個人によって構成されることを前提とする戦後民主主義の信奉者、体現者として振る舞うことは、辻褄の合わないおかしな話だということです。》

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第五章 三島由紀夫の死
 ここで作品として、『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』『沖縄ノート』『みずから我が涙をぬぐいたまう日』が採りあげられているが、それよりも三島由紀夫という存在が大江にとっていかに大きかったかを述べたい。というのも、ボクは、大江作品を相当数は読んでいるが、安部公房作品と違って、全てを読みつくしているわけではないし、読んではいても安部作品ほど鮮明に記憶に残ってはいない、からねえ。
 ここにも書かれているが、
《三島四五年の生涯に匹敵する長きにわたって、三島はたえず大江を脅かし続けました。》と。
 大江にとって、三島は天皇であり父であるという意識。『みずから我が涙をぬぐいたまう日』の表題作と「月の男」の2中編の冒頭作品「二つの中編をむすぶ作家ノート」に、
《きみの純粋天皇のテーゼは、その後どうなったのかい? と問いかけ、僕には答えるいとまもあたえず逆方向への電車に乗り込んだ。そしてかれは、閉じられたドアに額をおしつけて、ベッカンコーをしてみせつつ、薄暗がりに消え去ったのである。》
 この「ベッカンコー」したのは、三島であり、大江自身なのだ。三島の死を受けて、天皇の問題も逃げずに直視しようとしながらも、そんなことはできないのじゃないか、その両者が大江の中で混とんとなって渦巻いているのだ。
 三島の問題は天皇の問題であり、父の問題だ。そう、彼は父の死を描こうとして失敗もしているのだ。

第六章 レイン・ツリーとイーヨー
 イーヨーとは光さんのこと。「くまのぷーさん」に出てくるロバのぶいぐるみ。生まれたばかりの頃の大江氏には、彼を自然死させる恐怖にさいなまれる。ところが、むしろ彼には、音への敏感さが誰よりも類まれな優性の能力を発揮する。イーヨーは、見事、光さんになるのだが、小説内では、さらに別名になる。
 レイン・ツリーとは、雨の音を聞く女たちだ。大江にとって、女の根源は母親である。その母親には分かってもらえない幼少時代の大江。コギーと呼ばれてた大江の幼少期。母親が名付けた。だが、大江には、もう一人の瓜二つのコギーがいた。どうやらフィクションの話ではなく本当ではないらしい。でも、母親には信じてもらえない。もう一人のコギーは、父親と小艇に乗る。追いかける大江のコギー。もう一人のコギーが父の死、水死を知っているはずだ。彼は三島から脅されたように、天皇をないがしろにするのか、それは父をないがしろにするのか、なのだが、母親は、コギーが森の奥へ上ってったこと、帰らぬ人になったことに、ずっと拘る。
 いかん、ちょい待った。この章から脱線している。この本の著者さんとは共感しながらも、ボク自身の大江像が立ち上がっている。大江は、グローバルに生きようとするあまり、自分のミニマムなことをないがしろにすることに悩むのだ。何故なら、大江にとって、父も天皇も、絶対なのだ。民主主義や自由主義を提唱する大江にとって、一番厄介なものなのだ。

大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」06

第七章 ピンチランナーは生還するか
 大江は、そろそろ最後の小説にとりかかろうとする。ところが、ここで、ノーベル文学賞と伊丹十三の死に直面する。ノーベル文学賞については、次の第八章に譲るとして、伊丹十三、彼は、大江氏の奥様のお兄さんだ。大江氏は、高校に上がって1年間通った学校をイジメらしいが、そんな理由で松山東高校に移った。そこで出会ったのが伊丹十三だ。彼が大江にとってどれだけ重要な存在だったか。
 伊丹は、仲良くなった大江に、仏文研究者の渡辺一夫の本(ガルガンチュアとパンタグリュエル)を見せたそうだ。あの「ふぐり」なんかがいっぱい出てくる本だ。メチャ惹かれた大江は、その研究者に惹かれた。そしたら「東大で教えてるよ」との十三のアドバイス。それがきっかけで大江は、東大の仏文に一浪した入学したのだ。
 大江にとって、そんな伊丹の自殺は大きい。あ、いい忘れたけど、大江の奥さんは、伊丹十三の妹さんだよ。
 伊丹十三の死は、その後の大江作品にも影を落とす。それくらい大きな存在であり、さらには、それくらい大江の小説は私小説に近いのだ。言い方悪いが、自分の今一番に困難で悩んでいることから逃げて空想の世界が描けないのだ。たえず、自分が直面している人間はどう生きるべきかを、自分の姿をフィクションに置き換えて描いてきた人なのだ。だから、言い方悪いけど、いつのまにか彼の小説は、開度、同じような人が同じ環境で何度も登場する。

第八章 あいまいな日本の私
 この章は、目を見張るものがある。一番は、大江氏の前にノーベル文学賞を貰った川端康成に対して、自分が日本で二番目にノーベル文学賞を受賞したことに対する思いだ。
 川端が受賞した際に、スピーチで述べたのが「美しい日本の私」だったそうな。それに対し、大江は、それを踏まえて「あいまいな日本の私」をスピーチしたそうだ。
 川端が受賞できたのは、日本の文学を代表する作家として、非常に霧に包まれたようにミスティな世界、だったそうだが、実は、川端が細密描いた描写を曖昧にしたのは翻訳家のせいなのだ。川端が彼女をまさぐった記憶が蘇り、その指を鼻に当てて匂いを嗅いだ、というのを、単に、手を顔に当てた、そう訳されたらしい。
 それを知ってて、大江は、あえて「あいまいな日本の私」をスピーチしたそうだが、受賞した人間として受賞そのものを批判してもいかんだろ(当時、出来る限り受賞者を世界中駆け巡って与えたいというノーベル文学賞委員たちの意向も汲んでか)ということで、翻訳が日本文学を曖昧にしていることよりも、アジアにおける日本の曖昧さを述べたこと、それと、ノーベル文学賞を貰ったけど、日本の文化勲章を辞退したことで、また右方面から大江氏はやり玉に挙がってる。
 もちろん。悪いのは大江氏ではない。川端にしても、大江にしても、ノーベル文学賞を貰ったことに、「本当なら」という気持ちがあったらしい。川端は、「本当なら三島由紀夫だ」と。そして、大江氏は「本当なら安部公房だ」と。三島氏は、自分が受賞せずに川端になった時に言ったそうな。「もうボクの番はないよ。次は大江だな」と。
 ここでは、集団自決裁判についても書かれている。1970年に出版された『沖縄ノート』の記述に対し訴訟が2005年に。著者さんは、その真相を暴くべく、手を尽くし、生き残った一人の方の娘さんとも面談をしている。確かに原告の言う、体調が集団自決を命令はしていないと思う。しかし、軍の方針に日本人は従わざるを得ない。それが、特に琉球王国時代の士族層以来の家父長制により、軍→地域のリーダー→家長という重層的な圧力が子どもや女性に及んでいたことは間違いない。大江は、『沖縄ノート』には、名指しをした表記はない。原告の敗訴で終わっているが、大江の心は、相当揺らいだのではないか。

第九章 おかしな二人組
 このあたりから、再び彼の作品を読んでいる。相変わらず難解で分けわからんかったけどね。『宙返り』と『取り替え子』。
 まさしく『宙返り』は、自分のこれまでを覆したくて書いた小説だ。成功しているかどうかは別にして、凄いひっくり返る小説ではある。上下2巻の大作だが、ここで宙返り、転向をよしとするのか否かなのか、それ以上に、自分が他の物体というか生き物に成り代わることも、あるだろうて、ボクは痛く気に入った作品であったよ。
 そして、『取り替え子』は、もち、お子様の光さんを赤ちゃんに時に取り換える、そんな話よりも、もっと壮大というか、ありえないけど、死んだ人が生きている人のある人と取り換えて蘇るとか。彼は、最良の人を多くなくしてる。父親も早くに亡くし、三島もなくし、義兄の伊丹もなくし、友の武満徹もなくし。伝説の取り換えをしてくれる妖精が死んだ人と今とを取り換えてくれる。三島の死、義兄である伊丹十三の死、そして最愛の友だち武満徹の死。なんせ、『燃えあがる緑の木』を最後の小説としていたことを覆すのだ。武満徹の葬儀の場で「もう一度小説を書く」と。そこには、大江が、これまで多くを語ってきた小説内の真実だと思ってきたことを、今そうじゃなくこうだった。と取り換えたい意識、そんなもとに書かれたように思われる。

大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」07

第十章 大江健三郎の「本当ノ事」
 そして、最後の第十章だが、ボクは、ここで読むのを止めた。何故なら、前にも書いたが、大江作品はたくさん読んでいるが、読んでいないものもある、と。
 そして、彼の最晩年の作品を読まねばと、『晩年様式集』を読んで満足してたが、どうやら、それよりも一つまえの『水死』が彼の作家生活の凡てを凝縮している、って。
 ならば、『水死』読まねば。これ読むので、第9章まで読んで、急ブレーキをかけて中断したんよ。
 で、『水死』を読んだ。その感想は、ブログ記事「大江健三郎『水死』」に書いたよ。
 そして、読み終えたので、この第十章を読んだ。
 いやあ、自分の『水死』に対する感想がちょっと恥ずかしい。ここには、『水死』がいかに凄いか、いやあ、的確な視点で書かれている。その中で、分かりやすく図式化してくれてるので、ちょっと引用させてね。
《古義人/アカリ
 小河/ウナイコ
 「集団自決」裁判原告/島民》
 古義人は、アカリに「バカだ」呼ばわりを2回している。そして、小河は、かつてウナイコを暴行し、この小説内でウナイコがそれを演劇に盛り込もうとすることを阻止しようとするが、そこで、もう一度暴行する。2回の暴行。そして、この小説が書かれている時、現実では「集団自決」裁判が行われているのだが、それは、島民はかつて自分たちを守るべき軍の命令で死を強いられ、今裁判を起こされてることでもう一度殺されているとみることができる。
 著者さんはこう言います。
《本来であれば、相手を庇護すべき強者が、庇護されるべき弱者を攻撃する。しかも二回にわたって攻撃する》
 鋭いと唸ってしまった。ふと安部公房の「弱者への愛には殺意が込められている」という言葉を思い出した。そして、
《「集団自決裁判において、大江は原告と闘う被告だったはずです。しかしこの構造によれば、大江はむしろ小河とともに原告側、つまり赤松嘉次と梅澤裕に同一化しているのです。》
 このことから、
《アカリへの秘められた殺意が第一の「本当ノ事」だとすれば、自分が実のところ原告側の人間だということが第二の「本当ノ事」だと言える》
 なあるほどお、である。ただ、この後、第三の「本当ノ事」として、
《インセストの主題とそれへの動揺》は、ボクには、ちとよく分からなかった。
 でも、
《一元化できない世界観や解決不可能な矛盾、葛藤、軋轢を、そのまま引き受けて表現する文学》であることに共感するし、《調和なき調和、あるいは調和という不調和という不都合な現実を明るみに出し、これにどう立ち向かうべきか考え続けることを読者に強いる文学》であることも頷ける。
《『水死』は、そのような意味での世界文学として、もっとも価値ある一冊だと思います。》
 こうして、怪物作家の「本当ノ事」が語られているのだが、最後に『晩年様式集』について。
《東日本大震災後に書かれた作品だということであり、覆い難い創作力の弛緩が、福島原発のメルトダウンのアイロニカルな比喩にもなっていることです。》
 なるほど、確かにそうも読めるねえ。

大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」09

 さて、最後に「おわりに」に、とても重要なことが書かれているので、それも引用して、大江健三郎論を終えたい。
《新しい戦前と言われる今日、民主主義も平和主義も、もはや従来のままではまったく通用しないのは歴然としている。なぜ、このような事態に至ったのか。今私たちは、誰に向かって、何をしようとしているのか。それをしかと見極めるためにも、いったん民主主義と平和主義を否定し、その底にとぐろを巻いてわだかまっているおぞましいものと向き合う必要があるのだ。私は『水死』でこれを実践した大江に深い敬意を表したい。》


大江健三郎論 怪物作家の「本当ノ事」 posted by (C)shisyun


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