ドナルド・キーン自伝-増補新版 | 空想俳人日記

ドナルド・キーン自伝-増補新版

 ドナルド・キーン氏は、学生時代に安部公房の作品を読むたびに本のケースの裏へ解説など、あちこちで書評を見かけた。
 で、確か、彼の著作で読んだ唯一の本が、安部氏との対談『反撃的人間』だったと思う。この対談をあまり覚えていないけど、相当にお互いが親しい間柄で、言いたい放題の着地点なし、そんな本だったように思う。
 ほら、安部公房の対談集『発想の周辺』の中の、岡本太郎氏との対談もそうだよ。親しいから、初顔合わせで編集側が着地点を決めないと話が進まないのと違って、親しい間柄だと言いたい放題になる。対談の面白みって、そういう思考のぶつけ合いだと思うんだ。

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 さて、そんな安部公房氏の色眼鏡から観たキーン氏しか知らないで、これまで生きてきたボクが、何で今になって、ドナルド・キーン自伝を読もうと思ったのか。ひょんなきっかけなのである。
 ついこの間読んだムック本『ゼロから分かるカムイ入門』が契機なのだ。しかも、この本のどこにも、ドナルド・キーンの「ド」の字も出てこない。
 太平洋戦争に関する記述のページのアリューシャン列島アッツ島・キスカ島のことを、ボクは知らなんだ。その本に書かれている以上のことが知りたくて、アッツ島・キスカ島のことをネットで調べ始めたら、なんと! アッツ島が初の「玉砕」であり「ばんざい攻撃」と呼ばれたことやキスカ島の日本人撤退後のこと「ペスト患者収容所」の看板について、ドナルド・キーン氏の記述が見つかったのだ。
 なんと、ドナルド・キーン氏は、アッツ島・キスカ島へ翻訳通訳兵として行っていたのだ。日本文学に精通し、日本をこよなく愛するキーン氏に対し、このことがきっかけで無性に自伝が読みたくなるって、どういうこと? でも、キーン氏の生涯を知りたくなったから仕方ないのである。




 9歳のとき父にせがんで一緒にヨーロッパを旅行した。これがきっかけでフランス語など外国語の習得に強い興味を抱くようになるんだね。まず、フランスだったよ~。
 そんな父親が、離婚してしまい、母親に育てられるんだけど、困窮の日々だよ。でも、彼は頭がいいんだ、飛び級を繰り返し16歳でコロンビア大学に入学。しかも、奨学金も受けるほどの優秀生。
 この学校の講義で中国の学生、李と仲良くなり、中国語、そして漢字の惹かれるんだねえ。
 そして、タイムズスクエアでゾッキ本として売られていたアーサー・ウエーリ訳『源氏物語』を手に入れ読んだら、ぞっこん惚れてしまった。日本文学との出会いだ。そういえば、前に読んだ倉本一宏氏の『紫式部と藤原道長』で『源氏物語』が世界最高峰の文学作品であることも認識したし、『紫式部と藤原道長 平安貴族の栄華と暗闇』で、その認識を深めたもんねえ。
 ボクの『源氏物語』は、10年以上前のこと、大塚ひかり『カラダで感じる源氏物語』を読んだことから、大和和紀の『あさきゆめみし』『大和源氏 あさきゆめみし絵巻』『あさきゆめみし~宇治十帖編』に夢中になったんだ。ちょっと遅いね。
 その後も日中戦争のもと反日感情を持つ李への遠慮から最初は日本語は学ばなかったんだけど、アメリカ海軍日本語学校に学ぶことになる。
 そして、卒業後は海軍情報士官としてハワイの翻訳局に赴任し、日課の報告書や物資の明細書などのガダルカナル島の戦いで得られた日本軍の文書を英語に訳す任務に。中には死亡した兵士から押収された日記もあり、最期の思いが赤裸々に綴られた手書きの文書を通じてキーンは日本人の心に接したんだね。
 で、その後だよ、アッツ島の戦いに参加する舞台に同行するんだ。自伝の中から引用するねエ。
《アッツ島攻撃は、五月初旬に始まる予定だった。しかし、島を取り巻く霧があまりに濃いため、上陸は二週間延期された。(中略)
 アッツ島は最初の「玉砕」の地で、アメリカ人はこれを「バンザイ攻撃と呼んでいた。五月二十八日、島に残留していた千人余の日本兵がアメリカ軍めがけて突撃を開始した。アメリカ軍は、かくも手ごわい抵抗のあることを予期していなかった。日本兵は、ややもすればアメリカ軍を蹴散らしそうな勢いを見せた。しかし結局は勝利の望みを捨て、集団自決を遂げた。多くは自分の胸に、手榴弾を叩きつけたのだった。私には、理解できなかった。なぜ日本兵は、最後の手榴弾をアメリカ兵に向かって投げずに、自分を殺すことに使ったのだろうか。》
 そして、キスカ島。
《八月、アメリカ軍はキスカ島を攻撃した。(中略)島には、一人の日本兵もいなかった。(中略)
 戦うべき相手がいなくて、誰もがほっとした。しかし、数日後、別の衝撃が私たちを襲った。海軍の中でも一番無能な男が、標識を見つけたといって私のところへ持ってきた。「もちろん大体の意味はわかるが、幾つか不確かなところがあるのでね」と言うのだった。標識の文字は、この上なく明快だったーペスト患者収容所。ペストの血清を送るよう要請する電文が、急遽サンフランシスコへ向けて打たれた。それからの数日間というもの、私たちはペストの証拠である斑点が現れていないか不安な面持ちで身体を眺めまわしたものだった。その後何年もたってから、キスカに駐屯していた日本軍軍医の妻が明らかにしたところによれば、彼女の夫はアメリカ軍が見つけることを予期して、その標識を書いた。つまり、冗談だったのだ。しかし、誰も笑わなかった。》
 1945年には、沖縄攻略作戦に従軍。沖縄本島へ向かう途上、乗艦していた輸送船が神風特別攻撃隊の標的となるが、特攻機は突入直前に別の船のマストに接触して水中に墜落し、命拾いをしている。沖縄での軍務は7月まで続き、終戦の玉音放送はグアムの収容所で日本人捕虜とともに聞いた。
 日本のポツダム宣言受諾後、日本に赴任することを望んだが、折り合い悪い上官によって、中国に派遣される。赴任先の青島では当初現地の日本軍人と良好な関係を築いたが、まもなく混乱に乗じた腐敗や密告が入り乱れるようになり、戦争犯罪の取り調べなどに嫌気が差して帰国願いを出し、原隊復帰の命令書を得た。帰路、厚木飛行場を経由したのだが、初めて訪れた日本をどうしても見て回りたい衝動を抑えられず、原隊の現在地を横須賀とウソこいて報告。横須賀の司令部に出頭し、自分が「誤解」していたと申告するまで、有楽町から日光東照宮など戦後間もない日本を堪能している。
《日本を去る間際に富士を見た者は、必ず戻ってくる、と。それが本当であってほしいと思った。しかし私が再び日本を見たのは、それから約八年後のことだった。》

ドナルド・キーン自伝-増補新版04




 戦後、コロンビア大学に戻り、再び角田先生の下で勉強。占領軍の方針で、日本への入国は実業家と宣教師のみ。ならば中国へと思ったが、中国の不穏な状況を知り諦め、角田先生の承認を得、ハーヴァード大学へ。
 そして、英国で研究したいアメリカ人に与えられるヘンリー奨学金を手に入れ、驚きの英国ケンブリッジ大学へ。ここで、彼はバートランド・ラッセルの哲学講義を受けている。後、小説家のE・M・フォスターとも知り合ってる。手前味噌だが、ボクは、フォスター原作の『ハワーズ・エンド』を映画で観ている。エマ・トンプソンとヘレナ・ボナム・カーター、アンソニー・ホプキンス、バネッサ・レッドグレーブが出演してた。横道それたね。
 さらに、キーン氏の日本文学との出会い『源氏物語』を訳したアーサー・ウエーリにも出会っているよ。
 ケンブリッジの夏季休暇にコロンビア大学へ戻っている時、非ノン出の研究奨学金が貰えそうないくつかの財団を訪ねた結果、これまた驚き、研究奨学金を貰えることに。そうして、彼は、ロンドンから日本へ。その途中、アジアをできるだけ見ておこうと、幾つかの国を旅している。いやあ、精力的だなあ。
 このアジア歴訪後、羽田へ。そして、京都行きの国鉄で京都へ。途中、関ヶ原駅で、感慨にふけっているよ。「徳川がもし勝利を収めていなかったら」と。
 京都に住んだことで、日本の歴史に触れる。いやいや、触れるばかりじゃないよ。狂言も学び、「千鳥」の太郎冠者で晴れの舞台にも立っている。その客席には、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、松本幸四郎(八代目)をはじめとする著名人の顔ぶれも。
 そして、終生の友、当時京都大学の助教授の永井道雄氏と出会い、永井氏の紹介で中央公論社社長の嶋中鵬二とも知り合っている。グレタ・ガルボを芝居に連れて行ったりもしてるよ。

ドナルド・キーン自伝-増補新版05




 ここでは、いろいろ書かれてるけど、特に国際ペン大会が日本(東京と京都)で開催(1957年)されたことがキーン氏にとって大きな節目だとは思うけど、ごめん、ボクは、安部公房と大江健三郎が思考回路の原点なので、それに言及するよ。
 大江氏や安部氏と知り合ったのは、アジアで初となる東京五輪が開かれた年(1964年)だげな。大江健三郎と安部公房という2人の作家と友だちになった年。大江とはその前にも会ったことはあったが、数日間、一緒に講演旅行をしたことで距離を近づけたそうな。
 大江氏と仲良くなったけど、途中で、彼も分からない、お付き合いがなくなったそうな。その代わりに、大江氏が紹介した安部氏と良く付き合うようになったと。
 ここでは、あまり詳しく書かれてない。彼より13歳若い大江は、94年に日本人で2人目となるノーベル文学賞を受賞することになるけど、キーン氏は、「個人的な体験」「万延元年のフットボール」といった大江作品を激賞したが、その独特な文体と文章の難解さ、奥深さを実感していた。オペラが共通の趣味で、キーン氏がアメリカから持ち帰る大江氏への土産はレコードだった。すごいじゃん。
 しかし、その後、2人の関係はなぜか、疎遠になる。なんで、なんで。
 もう一つの自伝をから考察するよ。この本から離れちゃうけどね。全部ネットからの引用。

《作家安部公房への交差する眼差し
 安部ねり『安部公房伝』書評
 ジュリー・ブロック

 大江健三郎とドナルド・キーンのインタビューについて述べたい。というのも彼らのインタビューは安部公房作品の受容に関して共通したイメージを提示しながら、それが対照的な方法で表現されているという点で、多くのことを教えてくれるからであ
る。
 大江健三郎は二人の外国人読者による意見を挙げている。その一人目はガルシア・マルケスであり、大江は四十歳のときのメキシコ旅行でこの作家に会っている。そのときガルシア・マルケスは、「日本の作家というと安部公房を知っていた(…)他の作家については知らなかった」と言ったという。二人目はル・クレジオである。大江がル・クレジオに日本ペンクラブでの講演を依頼しようとしたが、彼は辞退した。その際に送ってきた長い手紙には、彼がいかに大江の作品に心酔しているかが書かれていたが、これを読んでいるうちに、大江はル・クレジオは彼の作品ではなく安部公房の『壁』の話をしているのだということに気付いたという。このような外国からの反響に比べると、安部は日本においては誰からも作品を理解してもらえず、孤立しているようだと大江は語っている。今日では、おそらく『全集』の出版のおかげで、大江の意見も変わった。彼は安部公房を「日本で全集を全部読んでおもしろい二人の作家の一人」とみなし、「もう一人の作家は誰かというと、夏目漱石だ」と付け加えている。
 ドナルド・キーンがはじめて安部公房に出会ったのはニューヨークにおいてであった。彼は安部を中華料理のレストランに連れて行った。それから数ヶ月して、彼は日本で大江健三郎に会った。大江は最初、安部公房と三人で夕食を食べようと提案したが、安部はファイティング原田 (当時の有名なボクサー) の試合を見に行かなくてはいけないという理由で招待を断ったという。夕食は延期されたが、そのときから彼らの間には親密さが芽生えたそうである。
 他の人々の見解に比べると、ドナルド・キーンの安部公房作品についての判定は並外れたものである。というのは彼にとって、この作品の特殊性は外国文学の影響にあるのではなく、その内在的な独創性にあるというのである。キーン氏によれば、安部公房の野望は西洋人たちには決して発明できない、それどころか発明しようと思いもつかない作品を創造することであった。彼は安部公房に成り代わって次のように作家の考えを翻訳するのである。「未来の西洋文学者たちは、自分を真似するだろう」と。安部公房の小説はアメリカで何十万部も売れたことを考えれば、この言葉は正しかったのかも知れない。
 ドナルド・キーンはまた安部が若い読者を大いに信頼していたとも言っている。というのも彼らは上の世代の読者が感じていた難しさにこだわることなく作品を味わうことができると作者自身が考えていたからである。ここでもまたキーン氏は安部に同意している。例えば『燃えつきた地図』の尻切れとんぼのような終わり方を現代の読者は変に思うだろう。彼はよくわからなかったとつぶやきながら本を閉じるに違いない、しかし未来の読者はこの小説に結末がないところにこそ、何か日本的なものを読み取ることができるかも知れないのである、とキーン氏は言う。
 西洋の小説においては、必ず結末がある。しかし日本の場合、物語が始まるときには語られるものが既に始まっていて、物語が終るときに語られるものはまだ終っていない。物語が終わったあとで語られたものがどうなるかは誰にもわからない。これと同じように西洋の読者が安部公房の作品を前にしたときに感じる未完成の印象 (これはとくに彼の晩年の作品に当てはまる) は、ただ日本の芸術を十分には理解していないことによるのだ、とキーン氏は書いている。
 私はこの点に関して、全くドナルド・キーンと同意見である。『燃えつきた地図』の例を続けるならば、この物語はあたかも円環を描くような仕方で結ばれる。読者はそれゆえ物語の最初に連れ戻される。あるいは小説が終るからには、未だ書かれていない新たな物語のはじめに連れてゆかれると言えよう。こうした現象によって、安部公房のほぼ全ての小説の結末に、ある無限の印象が生じる。読者の想像力に訴えかけるこの無限は、将来のあらゆる可能性を潜在的に含むものである。》

 長くなったが、ここに書かれてること、メチャ分かるよ~。
 ボクは、キーン氏の友人である二人の作家(安部公房と大江健三郎)が今日までの生きる指針、糧になっているのだから、仕方がない。そして、キーン氏が、この二人の作家に対して、ボクと同様の気持ちを抱いて生きてきたことがひしひし感じられる。大江氏と疎遠になったのは、大江氏の家庭環境のことがあったのではないかな(光くんのこととか)。この自伝では、大江氏が酒を飲まなくなった、とか、大江氏の本を翻訳しなかった、とか、人伝の推測が書かれているけど、詳しくは分からない。
 あと、大江氏と安部氏の訣別は有名だから、今更言うべきことはないよね。でも、大江氏がノーベル文学賞を貰う時、「ボクよりも安部公房が貰うべきだった」と言ったかどうか知らんけど、言ったとすれば、ボクもそう思う。

 ここには、吉田健一や河上徹太郎や石川淳らとの木曜夜の楽しい飲み会の話、謡曲「熊野(ゆや)」を学んだ話、アーサー・ウエーリの母(舞踏病。ハンチントン病とも言う。自分の意志に反して手足、顔面をピクつかせたり動かしてしまう舞踏運動と認知機能障害、精神症状をきたす遺伝性、進行性の神経疾患)の介護やキーン氏の母親の死という悲しみも書かれている。
 日本の飛行機が東京・モスクワ間の空路開設で、急にソ連を見たくなったキーン氏は、安部公房に彼の作品の翻訳者イリーナ・リヴォーヴァを紹介してもらいソ連を訪問している。その後、『日本人の西洋発見』というキーン氏の本がロシア語訳で刊行されたが、印税がルーブルで、ソ連でしか使うことができないということで、高価な品を売る店で大きくて重い銀のブレスレットを買ったのだが、それを安部真知(安部公房夫人)にプレゼントしたそうな。
 1960年代は、キーン氏の「脂の乗った頃」で、1961年に近松門左衛門の浄瑠璃十一曲の翻訳、1967年には『徒然草』の翻訳を発表。現代作品の翻訳では、三島由紀夫の小説『宴のあと』(1965年)、戯曲『サド侯爵夫人』(1967年)、そして、安部公房の戯曲『友達』(1969年)。おおお、『友達』は、観たよ。
 そうそう、安部公房の演劇は、彼が安部公房スタジオなる演劇集団と活動の場を持ち、ボクは、そのスタジオ会員になって、いろいろ観たよ。脱線するけど、その写真。

ドナルド・キーン自伝-増補新版06

 失礼しました。あと、深沢七郎『平城山節考』、宇野千代『おはん』、石川淳『紫苑物語』なども翻訳している。精力的だねえ。
 この頃、ベトナム戦争反対が最大の争点でコロンビア大学に学生ストライキが起こり、キーン氏は同情はするものの、教授に授業をさせないことが不正をただすことにはならないと思っている。ただ、キーン氏はこう語る。
《ストライキが象徴的に示していたのは、世の中が動いている仕組みに対して多くの国々の若者が不満を感じているということだった。(私の意見では)抑え難い不平不満の理由が山積している今日、若者たちは不思議にも沈黙を守っている。》
 同感。今日のほうのが不平不満の理由が多いはずなのに、何故に沈黙している、若者よ。
 キーン氏はフォルメントール賞の審査団の一人になっている。影響力では、ノーベル賞に次ぐもので、1961年の受賞者はホルヘ・ルイス・ボルヘスとサミュエル・ベケット。1965年の選考会で、彼は三島由紀夫を推したが、フランスのナタリー・サロートが受賞した。その後、彼は、毎年のように三島由紀夫を推すので反感を食らったらしいが、スウェーデンの出版社の重役が「三島は間もなく、遥かに大きな賞を獲得するでしょう」と言われ、間違いなくノーベル文学賞だと確信したそうだ。ところが、1968年、ノーベル文学賞受賞者は三島ではなく、川端康成だった。キーン氏は言う、「このことが二人の死の一因となったかもしれない」と。
 三島が左翼だということで、ノーベル文学賞は川端へ、という嘘のような裏話が書かれている。
《ノーベル文学賞受賞の望みは、三島を自殺から遠ざけていた。しかし今やその望みは打ち砕かれ、彼の「ライフワーク」である最後の四部作は終わりに近づこうとしていた。死への道をさえぎるものは、何もなかった。》
 1970年11月25日、三島は自決した。
《川端は、三島の死に愕然とした。川端は不当な判断が行われたと感じていたかもしれないし、自分より三島が賞を受けるべきだと思っていたかもしれない。満足のいく作品を何も書けないまま川端は、日本文学の国際的評価を高めるのに役立つような企画に打ち込んだ。彼は、1972年秋に開催される外国人日本文学研究家会議の発起人だった。最後に川端に会った時、彼はこの会議について熱っぽく語っていた。しかし会議が始まる六ヵ月前、川端は自殺を遂げた。》
 大岡昇平は言う。
《ノーベル文学賞が三島と川端を殺したのだった。》

ドナルド・キーン自伝-増補新版07




「明治時代、朝日は駄目だった。しかし夏目漱石を雇うことで良い新聞になった。今、朝日を良い新聞にする唯一の方法は、ドナルド・キーンを雇うことだ。」
 緑樹をテーマに開かれた朝日新聞公園の懐疑のあとの宴席で、酔っぱらった司馬遼太郎が朝日編集局長へぶちまけた言葉。いやあ、面白い。これがきっかけでキーン氏は70歳まで脚韻編集委員のポストに。いやあ、面白い。
 ドナルド・キーン氏の生涯って、素晴らしい人生だよねえ。
 年中行事として、大晦日は安部公房夫妻と過ごし、お正月は永井道雄夫妻と共にする。春になると、アメリカへ。彼は、コロンビア大学を意を決して退職しようとするのだけど、コロンビア大学から異例の提案を受けたんだね。半年間、授業をしてヨ、と。それ以来、35年間? キーン氏は、1年のうち春から秋をアメリカで、秋から春を日本で生活することになったんだねえ。
 朝日新聞連載の『百代の過客』から、誰も書かなかった伝記『明治天皇』、そして、『渡辺崋山』。中央公論では、「にほんのこころ」をテーマに、足利義政を。確かに、水墨画や詫び寂びの世界って、義政の東山文化から始まっていると思う。
 面白いのが、『日本文学の歴史』で、通常は一著者に対し一巻か二巻でまとめるのに、キーン氏は、谷崎作品ではそれでは無理だ、三巻必要だ、と言ったそうな。そしたら、谷崎本人は、ならば夏目漱石も三巻にしようと、な。
 いやあ、谷崎作品ねえ。ボクは、安部公房も大江健三郎もメチャ読んだし、三島由紀夫も川端康成も、まあそれなりに読んだけど、谷崎潤一郎は殆ど読んでいない。いや、まったく読んでないかも。読んだ方がいいかなあ。

ドナルド・キーン自伝-増補新版08

 
 この本に、「あとがき」と「米寿ー文庫版あとがきに代えての後に、「日本国籍取得決断の記」と「六十年の月日と終生の友人たち」の二篇が増補されている。ドナルド・キーン氏が日本と日本人をいかに愛したかがひしひしと伝わってくる。特に、彼の日本との出会い、日本人との出会いは、日本とアメリカが戦争している最中なのだ。日本兵の日記は、日本の文学が古来から日記文学が連綿と受け継がれていることによるものではないかと思う。戦いあう間柄であったかもしれないが、そんな日記の中に、彼は、日本人の『源氏物語』にも描かれている悲哀を感じ、共感したからではなかろうか。
 遅ればせながら、他界されたドナルド・キーン氏に追悼の意を表したい。


ドナルド・キーン自伝-増補新版 posted by (C)shisyun


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