斎藤美奈子『文壇アイドル論』 | 空想俳人日記

斎藤美奈子『文壇アイドル論』

 面白そうな本み~つけた。しかも、古本。初詣に行く途中、神宮商店街の言ノ葉堂で、100円のところ初売りで95円。

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 斎藤美奈子さんは、以前『紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』を読んで痛快丸かじりだったし、昨年読んだ『どうにもとまらない歌謡曲-七〇年代のジェンダー』は、巻末の解説を斎藤氏が書いてて、そこを立ち読みして、「うん、面白そうだ! いや、ぜったい面白いはずだ」と、買うことに決めたのだった。

斎藤美奈子『文壇アイドル論』04

 ここに登場する文壇アイドルは、8名。3章仕立てで、まずⅠが80年代後半のバブル期に驚異のベストセラーを叩き出した3人(村上春樹・俵万智・吉本ばなな)。Ⅱが「女の時代」と呼ばれた80年代を象徴する2人の女性論客(林真理子・上野千鶴子)。Ⅲは「作家」の枠を超えて活発かつ幅広い分野にわたる言論活動をくりひろげてきた3人の知識人(立花隆・村上龍・田中康夫)。
 この本は、「はじめに」にも書いてあるが、「作家論」ではなく、「作家論論」なのだ。つまり、作家を語るのでなく、彼らに対する世の作家論が、彼らをいかに好評・悪評まじえて祭り上げたか、ってな観点だよ。

Ⅰ 文学バルブの風景
 いやあ、村上春樹の例え方が面白いなあ。喫茶店からゲーム喫茶になりゲーセンになった、とな。
 確かに、ボクも、初期の『風の歌を聴け』(1979年)『1973年のピンボール』(1980年)『羊をめぐる冒険』(1982年)は、喫茶店で音楽や文学を語る時期だったかも。20代から30代にかけて、錦三にあるジャズ喫茶(CATと言う名)によく行ってた。大抵一人じゃなく、二人か三人。ボトル(ホワイト)もキープしてて、だからコーヒー飲む喫茶店じゃなく、水割りを飲むんだよ、で、文学を語る。マスターは、そのうちボクの好きなチック・コリアの初期のレーコードをよくかけてくれた(アンプが真空管アンプなんだよ)。たまに、マスターの奥さんから「横井さん、もう少し静かにしてくれません?」って言われた。ちょうど、20代は雲竜ビルの小さな広告会社勤めしてて、お昼に地下の喫茶店で食べることが多く、そこでお手伝いしてた女の子と知り合って、何度かその子とCATに行ったけど、彼女が「村上春樹の『風の歌を聴け』面白いよ」と教えてくれたのがきっかけだった。
 そして、ピークは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)だ。確かに、今思えば、これは、文章は平易だが、ゲームのRPGのナゾトキみたいな小説かも。この小説、二つの物語が交互に進んで、最後には一緒になる、なんてゲーム感覚抜群だ。平易な文章だから読みやすく、でも内容は難解というか、いやまさしくナゾトキというか裏を読むというか、そういうストーリーなんだよねえ。
 ところが、『ノルウェイの森』(1987年)の爆発的ヒット。それをボクは敢えて読まなんだ。「なんでこんな小説書くのよ」なんて思ったん。
 ところが、すぐ後に、旧来の村上ファンが去りそうになったことを感じてか、『ダンス・ダンス・ダンス』(1988年)を出した。これ、読んだ、「そうだよ、こうでなくちゃ、村上くんは」なんてね。で、そこで、もう読まなくなっていった。たぶん、世の中、コンピュータゲームが出てきて、そっちの方へ嵌って行ったのじゃないかな。村上くんよりも、そっちのRPGのが面白い、なんてね。今では、時代についていけなくて、いや時代についていく気がなくて、コンゲーはしないよ。
 さて、次に、『サラダ記念日』(1987年)の俵万智。これ読んで思ったのは、音楽も結構聴いてたから、「ああ、短歌のニューミュージックだよなあ」思ったんね。つまり、反戦あるいは四畳半フォークソングの時代から、ユーミンを代表するニューミュージックの世界へ。歌ってる内容は、そんなにニューではないけれど、表現がニューなんだねえ。五感(主に視覚)に訴える単語を多用した歌詞が、このサラダ記念日にもある。彼女はユーミン能阿多南下を良く聴いてきたんじゃないのかな。
 実は、その後の彼女の短歌は余り読んでない。けれど、『みだれ髪』は、いいな思ったよ。与謝野晶子の『みだれ髪』刊行百年を記念して、俵万智によりチョコレート語訳として、乱倫という情熱的な恋をテーマに刊行されたのを読んだ。チョコレート誤訳ってなんなの~思ったけど。これ存外良かったよ。
 とりわけボクの俳句や短歌に興味を抱くきっかけになったかもしれない。そして、松尾芭蕉が好きになった。だから、立松和平共著の『新・おくのほそ道』(2001)読んだヨ(ブログ記事「芭蕉「奥の細道」私論~その真の狙い~」参照)。
 自分でも、後々、俳句を作るようになった(空想俳人の俳句「ててふ集 2004」空想俳人の俳句「秒病句集」)。
 俵万智の短歌は、ある意味、目立たない普通の女の子の心情をニューミュージック感覚やコピーライターキャッフレーズ感覚の言葉で連ねた。だから、女の子の共感もあるけれど、旧態依然とした女性像に憧れる団塊の世代の男性にも「いい女じゃないか」なんて受けちゃったんだと思う。
 そうだ。ちょっと面白い短歌を引用。
《この曲と決めてマイクをとって唾とばす君(ダチ)なり「唐獅子牡丹」
 おれたちをヤッちゃんと呼ぶ女(スケ)いて神戸元町花隈附近
 この刺青いいわ」と女(スケ)が言ったから七月六日はカラダ記念日》
 筒井康隆作だよ。
 それから、『キッチン』の吉本ばなな。吉本隆明の次女だが、お父さんの血を受け継いだ作品ではない。むしろ、少女の揺れ動く心、それに共感をもたらす筆致だと思う。ボクは、あんまし興味なかったけどねえ。ライトノベルズの走りかなあ。いや、コバルト文庫のが先か。
 いやあ、そしたら、この本には、もっとその前からある少女マンガや少女向け小説、例えば、バーネット『小公女』『秘密の花園』やスピリ『ハイジ』ヤモンゴメリ『赤毛のアン』など、それを今風に復活させたもの、とも言えるようだよ。
 そうそう、当時は吉本ばななの「ばなな」が奇異に思えた古株文壇や「奇を衒ったんじゃない」って評もあったらしいけど、そんなばなな、ボクにはスンナリ入ってきたよ。「みかん」とか「りんご」もありじゃん。なんせ、ボクが子どもの頃、貴重なバナナの皮向いて食べれば美味しい、そういう時代だから、彼女の作品も皮向いて食べれば美味しいだろう、思ったよ。作品は皮向いた結果美味しかったけど、著者さんの衣を脱がしてまで味わう気にはならなかったよ。

Ⅱ オンナの時代の選択
 はい、Ⅱに移るね。ここでは、まず林真理子さん。残念。彼女の作品、読んだことがない。彼女と言えば、よくテレビに出てたよね。彼女がテレビに出てる頃はボクもよくテレビを見てて(いつ頃のことか忘れたが)、この人のことを「言いたい放題、向かうとこ敵なし」と思ってた。
 それと、もう一人、上野千鶴子さん。彼女の作品も全然読んでいない。
 でも、この二人、有名な論争があったんだよねえ。アグネス論争。これ、論争すべきことかな、ボクは思うけど、これ、アグネスが子どもを仕事場に連れて行ったんだって。それを「子どもが仕事場に来るのはあかん」そう言った林真理子たちの勝者目前に対し、上野千鶴子のアグネス養護で大きくひっくり返したんだね。つまり、上野千鶴子は、それだけ味方が多かった。
 ここで書かれているのは林真理子のサクセスストーリー、下からズンズン登っていくのに対し、上野千鶴子は、上から降りてきた人。林真理子のような女の階層移動(普通の人→コピーライター→エッセイスト→小説家→直木賞→歴史小説家。これを林真理子スゴロクと言うそうな)には日本では手厳しいのだ。下からのし上がってくるシンデレラガールは叩きまくる(出る杭は打たれるって奴ね)けど、上野千鶴子みたいな助さん格さん従えて上から舞い降りてのには拝み倒すのよね。しかも、「おまんこ」連発の下品さも身につけて。
 でも、論争に強いところを見るとともに、世代的にも、「フェミニズムの騎手」というよりも「最後のウーマンリブ闘志」では、ボクもそう思った。
 と、まあ、ちょっと、Ⅱに関しては。あまり沢山語れないなあ、でしたあ。

Ⅲ 知と教養のコンビニ化
 そして、Ⅲ。立花隆が登場するんだ。実は、本屋で、彼の著作物をたくさん見るんだけれど、何故か、読みたいと思わない。彼が有名になったのは、田中角栄が首相時代の書物だ。そして、ロッキード事件の暴き。でもね、なんか、きな臭い。彼と田中角栄は繋がっていたかも。そして、その後の著作物、特に『地球からの帰還』など、従来のルポルタージュじゃない、分業制でのノンフィクション作家の地位を築いた。だと思うんだけど、彼には近寄れなかった。どうも、「知の巨人」ということに、拒否反応が働いていた。
 そして、この本を読んで、ボクの拒否反応、それ正解だと理解した。彼は、後年、社会環境よりも脳医学に寄りすぎて、終わった。
 さあ、多くの人が好きな村上龍。彼の『限りなく透明に近いブルー』。透明っていう題名に反して、なんか汚れた作品だなあ。でも、その汚れが生々しくてねエ。
 彼もボクがよくテレビを見てる頃、画面に登場してたけど、その喋り口調が、ここに書かれてる「おっちょこちょい」にふむふむなんだね。早口というか、言い出したことと言い終わることが内容違うのよ。どんどんおかしな方向へ行く。これ、フィクションにはうってつけかもしれないし、彼の予知能力に繋がるのかもしれないけど、エッセー(あんまし読んだことがないけど)は、何言ってんのか分かんないのだろうねえ。
 彼の作品はワイドショーの如きだと。なるほど、ニュースではなく、ワイドショー。ワイドショーは、事実を基にどんどん大げさなみんなを驚かすような(視聴率稼ぎのため)演出を盛り込み、あたかも文字通りショー仕立て(あるいは劇画仕立て)にしちゃう。似てるかも。大衆は恐怖のズンドコが好きだもんね。
 あと、彼の作品に対する批評は私事を持ち出すケースが多いそうだ。
《村上龍がデビューしたのは確か私が就職してすぐぐらいのころで》
 なるほどね。「ワタシは龍さんとおともだち~」って自慢したいんだろうねえ、批評家は、好評にしろ悪評にしろ作品や作家があっての存在だもんね。左岸がないと右岸は存在できない。これくらいかな。
 そうそう、両村上という評も多いそうだよ。この村上龍と先の村上春樹だ。なんでやろ、たまたま苗字が同じだけじゃん。
《もし龍か春樹のどちらかが「村上」じゃなかったらどうだったのか。片方が西園寺とか伊集院とか武者小路とかいう姓だったら、こんな比較論が成立したでしょうか。あるいは中上健次が村上健次という名前だったら現代文学の見取り図はちがったものになったのか。村上春樹が村上春子だったらどうなのか。だれか教えてほしいところです。》
《村上龍の小説がテレビのワイドショーなら、両村上比較論に淫した批評はワイドショーのコメンテーター的なのです。》
 さあて、最後の内田康夫氏だけど、これ最後まで読んで、驚愕! もう驚きものの木山椒は小粒でピリリと辛いどころか、大辛子でひえええ。そうだったんだ。彼のことは『なんとなく、クリスタル』しか知らない。おそらく多くの人がそうじゃないかな。これ読んで「なんとなく暮らしてる」女の子を描いただけじゃん。それもブランドや固有名詞によっかかって。それに、そんなブランドや固有名詞に対する注が多すぎる。しまいには、いちいち注を読む気がしなくなる。そう思ったのだ。
 そして、彼は、5年ごとに様変わりを果たしてるように見える。『なんとなく、クリスタル』以降の小説は殆ど評価されず、エッセーが名指し批判だらけで悪評を買った。と思えば、阪神淡路大震災の時、ボランティア支援に駆けつけたり、さらには、90%以上の賛同を得て長野県知事になっている。
 ところがだ。その最初の『なんクリ』の読み方が間違っていたのだ。なんと、本文は、ルポルタージュのごとき足を使って調べ現代の人間の生きざまを淡々と描きながら、注に彼の批評家精神を注ぎ込んだ。つまり、注は本文以上に大事だった。しかも巻末には統計データまで載せている、ということは、これほどリアリズムを追求した作品はない、ということだ。そして、「足を使って」という、まさに地に足をつけて行動する、その基本姿勢はずっと変わらずに来ているということだ。マイッタ。
 デリダもデニーズも同価値だ、という考え方。それに対し、ある批評家は、
《「(略)デリダにはデニーズを説明することができるが、デニーズにはデリダを語ることができない(略)」どうやら君はこの文章を読んで、自分がデニーズの側で、筆者であるぼくがデリダの側だと思ったみたいだ。(略)ここに誤解があるのだ。ぼくがデリダなのはさておくとして、君もデニーズではなくて、デリダなんだよ》
 と言った。なるほど、と思ったが、これに対し田中氏は、
《上半身のフィールドワーカーとも呼ぶべき「デリダ」では語り尽くせない「デニーズ」の部分もこの世の中には厳然と存在するのではあるまいか》
 いやあ、「上半身のフィールドワーカー」とデリダを呼ぶところが説得力あるなあ、思ったよ。
 例えば、
「デニーズのサニーサイドアップモーニングで朝食、ガストの武蔵野プレミアムハンバーグビーフシチューソースランチでお昼、夜はサイゼリヤでボトルワインのドンラファエロとチョリソーにペンネアラビアータ」
 これとデリダの思想と、どちらがリアリティがあるだろうか。
 田中氏はこう語る。
《人間は考える葦であるからして、形而上の世界にたゆとうことも必要であろう。だが、世の中には、人間は考える足であるとの説もあるのだ》
 まいった。彼は、ずっと考える足であり続けたのだ。
 もう一度、『なんクリ』を注もきちんと読み直すべきだぞ。おい、『なんクリ』は我が本棚のどこにある? 再読することで、今の時代、より一層「なんクリ化」していることが実感できるかもしれない。

斎藤美奈子『文壇アイドル論』05

 以上、だが、ちょと待った。この本自体が、結構、注があるぞ。また、気になるところしか注、読んでない。あらためて、注も読みかえそう。
 

斎藤美奈子『文壇アイドル論』 posted by (C)shisyun


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