坂本龍一『音楽は自由にする』 | 空想俳人日記

坂本龍一『音楽は自由にする』

 追悼・坂本龍一さん、ということで、2009年2月に新潮社から刊行された坂本氏の本が文庫化された。即、入手した。

坂本龍一『音楽は自由にする』01 坂本龍一『音楽は自由にする』02 坂本龍一『音楽は自由にする』03

 本人は気が進まない、そんな気持ちだったようだけど、自分が今ここに生きていることを辿るのもいいのかも、という気持ちで、インタヴューに応じたそうだ。
 月刊誌『エンジン』2007年1月号~2009年3月号に連載されたものがまとめられて掲載されている、坂本氏の伝記だよ。

坂本龍一『音楽は自由にする』04 坂本龍一『音楽は自由にする』05 坂本龍一『音楽は自由にする』06

1 1952-1969
 ここには、坂本氏が幼稚園の頃から高校生のころまでのことが綴られている。
 なんんと、幼稚園の時に初めて作詞作曲をしている。凄い。自発的でなく幼稚園の指導のもとだけど。『ウサちゃんのうた』。幼稚園で買われてたウサギを夏休みに順番に家で飼った、その経験を歌にしましょう、そういう課題だったそうな。へええ。
 彼は、小学校の時から、先生についてピアノを習うだけじゃなく、作曲も習ってる。
 彼が好きな音楽家は、最初は、バッハだったそうだ。ボクも、クラシックを聴くようになって、一番好きだなあ、はじめに思ったのは、ヨハン・セバスティアン・バッハだったよ。
 ビートルズやローリングストーンズも聞いたそうだが、なんと、ドビュッシーの9th(ド・ミ・ソ・シ・レ)に出会い、自分はドビュッシーだと思った。なんてね。ボクも、ドビュッシーが好きになって、メジャーセブンの音や9thが高校の頃に好きになったなあ。あと、6thも好きだけど。
 デモにもいっぱい参加してる。かっこいい、からだそうだ。
 本もよく読んでるよ。吉本隆明とか埴谷雄高とか。難しい。あと、安部公房に大江健三郎だって。いやあ、同じだ。
 映画もよく観てるねえ。パゾリーニやフェリーニ、ゴダールにトリュフォ―。パゾリーニはソドムに吐き気を催したけど、フェリーニはボクもよく観た。トリュフォーも。
 ジャズも。とにかく、学生時代。ほとんどのジャンルに触れているみたいだけど、どうやら、歌謡曲やフォークソングにはほとんど触れていなかったみたいだね。
 それが大学へ入る頃から、さらに広がっていく。

坂本龍一『音楽は自由にする』07

2 1970-1977
 大学・大学院・日雇音楽家の時代の話だよ。
 芸大の試験は、実技重視。和声の試験、対位法の試験、ピアノソナタ。一番先に席を立ったそうだ。これも凄い。どんなフーガの曲を作ったのだろう。
 芸大では、音楽部所属なのに、美術学部の方ばかり足を運んだそうな。そっちの方が、面白い奴が多いって。
 後、この頃、武満徹氏や三善晃氏とも出会っている。これも凄い話。武満徹氏や三善晃氏の現代音楽は、ボクも大学の頃、聴いたなあ。
 もう、この頃から、あちこちからの要請で演奏したり、曲を作ったりしてるんだね。演劇にも参加してる。自由劇場。吉田日出子、柄本明、佐藤B作・・・。いやあ、幅広い。
 そして、これまで未経験だった、フォークソングにも。中央線沿線は、フォークソング。日本のフォークはもともとアメリカのフォーク、そのルーツはアイルランド、スコットランド、南部の黒人音楽がなんだよね。高田渡の武蔵のたんぽぽ団だったっけえ。
 めちゃ、へええええええ、なのは、あの日本のディランとも呼ばれてた友部正人氏のツアーに参加してるんだよ。まじか。友部正人の最初のアルバムは、ボクは何度も何度も聴いてたよ。
 そうこうするうちに、学生結婚。働かなくちゃ、ということで、依頼のある音楽については、じゃんじゃん仕事をしたそうな。で、大学院にも殆ど行けず、4年いられると思ったら、3年で出て行ってくれないか、言われたそうな。
 山下達郎や大瀧詠一との出会いもあり、ポップスもありじゃないか、そう思ったそうだ。なんせ、山下達郎の曲を聞いた時、自分がドビュッシーを聴いて愕然としたのと同じハーモニーを感じ、「どんな勉強したの」と聞いたら、別にしてない、って。いや、坂本氏は、学問として習ってきた、でも、そうじゃない人もいるけど、今、同じ場所にいる、そんな感覚を受けたげな。
 そう、大瀧詠一といえば、はっぴーえんど。そこには、細野晴臣もいた。このあたりから、YMOの前兆があったわけなんだねえ。

坂本龍一『音楽は自由にする』08
 
3 1978-1985
 YMO時代から映画音楽へ。そんな頃のお話。
 細野晴臣氏から誘われたとき、個人の仕事優先するが時間がある時はやります、みたいな返事をしたそうな。細野氏は、あの日本のフォークロックの草分けなる、はっぴーえんど(ほかに、大瀧詠一、後に作詞で精力的に仕事する松本隆、そして、鈴木茂がいた)のメンバーだったし、その後も、ユーミンの旦那とともにティン・パン・アレーで活躍。もう一人の高橋氏はサディスティック・ミカ・バンドで活躍してた。

 で、ファーストアルバムが発売されるが、全然売れなかった。「東風」って曲、いい曲なんだけどねえ。この頃、坂本氏は先にソロアルバムも出している。
 YMOが大爆発を起こすのは、二枚目のアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」。これは、ある意味、逆輸入でヒットしてるんだねえ。同時に行ったワールドツアー(これには、キーボードの矢野顕子、ギターの渡辺香津美、シンせの松武秀樹も参加)が大成功。そのニュースが、日本のいろいろなメディアにも取り上げられ、世界から日本へ飛び火した。海外の方が、ユニークで個性的なものを認めてくれる人たちが多い。日本はやはり、何かの延長じゃないと、かなあ。

 ボクも、このアルバムの中の、「テクノポリス」「ライディーン」「ビハインド・ザ・マスク」なんかは、嵌って、歌がないのに、よく口ずさんだねえ。
 特に「ビハインド・ザ・マスク」は後にマイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンが取り上げているらしいけど、これ、坂本氏みたいな音楽理論はないけど、Am/G/F/Eの循環コード、井上陽水の『傘がない』がまさにそうだよね、それを逆手にとって、A/F/G/Emにしたんじゃないかな。Aに戻るのにGからG#だね。かっこいい。とにかく、坂本氏の音楽は皆、かっこいい。まさしく、ドビュッシーだね。浅田彰氏は、ドビュッシーというよりもラヴェルだ、言ってるけど、違うよ、やっぱドビュッシーだよ。
 あと、この「ビハインド・ザ・マスク」、意味深なタイトルだよね。仮面の下に何がある? 何もないよ、それが坂本氏。これ、今のコロナでのマスク生活にも置き換えられるよね。みんな、マスクをして、その下に何がある? もう、人間はいないよ、ってね。ボクは、「ビハインド・ザ・マスク」がYMOの中で最高傑作だと思っている。それは音楽的にも思想的にも。
 ただ、相変わらず坂本氏の中には反YMOがあって、それがソロアルバムにも反映していく。実際に、YMOが解散する頃には、そんな反発心は消えていくのだけね。
 大変だったのが、これまでの日雇労働的音楽の仕事と違って、坂本龍一が世の中に知れ渡り、飯を食いに行くにも指さして「あ、坂本龍一だ」と言われ、引き籠りになった時期もあるらしい。
 YMO最後の1年は、3人とも「後は花を咲かせて終わろう」ということで、「君に胸キュン。」とか歌謡曲路線へ。あはは。
 そんな頃、大島渚監督から、映画の出演依頼が。わざわざ自宅まで来てくれて、『戦場のメリークリスマス』に出演して欲しい、と。その時、坂本氏は、ぬけぬけと「音楽もやらさせてください」と言ったそうな。そしたら、「いいですよ」の二つ返事。これが、映画音楽への始まりとなったんだね。
 83年のカンヌ映画祭に『戦場のメリークリスマス』が出品されて坂本下カンヌへ行っているんだけど、そこで、あのベルトリッチ監督と出会ってるんだねえ。
 いろいろな分野の人ともどんどんと出会いがあって、なんと、ニューアカデミズムの浅田彰氏、中沢新一氏、柄谷行人氏とも親しくなってる。浅田氏の『構造と力』がとか『逃走論』、ボクも読んだなあ。

坂本龍一『音楽は自由にする』09

4 1986-2000
 ここでは、半分以上がベルトリッチ監督の『ラストエンペラー』のお話だよん。
 この映画も、まず出演依頼で、彼は、満州国建国に関与した甘粕役。その甘粕が最期ハラキリするのを、坂本氏はハラキリなら出演しないと拒んで、監督を説得して銃殺に変えてもらってるよ。
 で、音楽担当は、どうやらあのエンリオ・モリコーネが監督に「音楽やらせろ」としつこかったらしく、自分には来ない、そう思ってたそうだ。そしたらだ、「1週間で音楽を創ってくれ」という依頼。無理だ、2週間はくれ、と。凄いよ、2週間でも。なんせ、挿入曲も含め44曲も、作曲・録音をこなしたそうだ。
 ところがだ、最終的に仕上がったフィルムが、当初と全然違う。で、また、手直しをしたそうだが、最終的に、使われた曲は、半分ほどだそうだ。
 でも、この映画、なんと、ノミネートされた9部門(作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞)全てで受賞したのだ。

 ボクは、『戦場のメリークリスマス』の映画も音楽も好きだけど、それよりも、この『ラストエンペラー』の方が、映画も音楽ももっと好きだよ。メインテーマも最高にいい!けど、挿入曲「レイン」も感動するよ。

 授賞式で、クリントイーストウッドは、アメリカでは2度とこのような映画は撮れない、というほど絶賛したそうだ。
 あと、矢野顕子さんとの結婚の話も。凄い音楽ができる矢野さんが、今の旦那と一緒ではいけない。自分が彼女を守るんだ、そんな一心で、前の旦那からもぎ取るように結婚したんだけど、もぎ取ることはできたね。でも、最終的には失敗したんだよねえ。
 思うんだあ、結婚てさあ、みんなしてから間違っていた、失敗だと思う人が殆どじゃないかな。でも、その後、家族になったなら死ぬまで付き合うか、そういう人と、いやだと死ぬまでも、そういう人の嫌、だから離婚も多いんだよ。
 ボクは、そんなこと、どっちでもいんじゃないかな、思う。失敗は成功のもと、誰かが言ってたじゃない。失敗しなければ成功もあり得ない。成功だけ求めていれば、失敗もなければ、成功もない。
 ところで、坂本氏は、そんな頃、渡米。ニューヨークで生活することに。何かを求めてニューヨークに行ったんじゃなく、アメリカやヨーロッパでの仕事が増えたため、日本にいては出向くのに時間が掛かる。ということで、ニューヨークに住むことにした、そうだ。娘さん(矢野さんとの子供)を小学校へ入学させる時も、「この子を入学させたいんですけど」と言ったら、「いいですよ。明日から来てください」なんてね。アメリカはそういう国なんだ。でも、「何年いますか」と聞かれたそうです。何故なら、いろんな企業がアメリカに人を送り込んでいるから、多くの日本人家庭は数年で日本に帰ってしまうそうな。そんな中、「帰る予定はありません」と言ったら、「そうですかあ」と喜ばれたそうです。
 そのあと、ニューヨーク住まいでの活動が記されています。
 ですが、この後の、ベルトリッチ監督の映画、『シェルタリング・スカイ』『リトル・ブッダ』の音楽担当について、書かれておりません。この2作も、素晴らしい作品で、ボクは鑑賞しており、音楽担当をした坂本氏の素晴らしい音楽を聴いておりますが、何故か、ここには書かれておりません。
 ボクにとって、YMOも凄い音楽、そう思いましたが、坂本氏のその後の映画音楽が、こりゃまたスゴイ、そう思って生きてきました。

坂本龍一『音楽は自由にする』10

5 2001-
 ここで、書かれていることは、ほぼ、「今」です。確かに2009年までの話で、巻末の年表も2009年までしかない。だけど、その後に来る、2023年3月は、現実なのだ。そこ現実に向き合いたくない。それが本音。なので、坂本氏が亡くなって今、これを読んでいることが、凄い切ないです。この章は、あんましコメントしたくないなあ。
 言いながらも、言いたいことだけ書くね。
 まず、同時多発テロのこと。彼はニューヨークのマンハッタン住まい。なので、もう目の前で起きたわけだ。そのショックは、計り知れないものだったと思う。無音の日々が続いたそうだ。
 それでも、12月には『非戦』という論集を出版してる。米同時多発テロ事件がきっかけで、村上龍、中村哲、加藤尚武、辺見庸、重信メイ、梁石日、桜井和寿、大貫妙子、佐野元春、宮内勝典らが参加。
 その後、今度は、お門違いの報復としか思えないアメリカのイラク攻撃。坂本氏も9・11テロとは関係がないと指摘してる。その怒りに突き動かされ出来たアルバム『キャズム』。
 ちょっと脱線、手前味噌な話ですが、ボクも9・11同時多発テロとイラク攻撃に刺激を受け作曲している。
 9・11がきっかけでできた「Flural」。

 イラク戦争がきっかけでできた「NoWar」。

 失礼しました。
 そうそう、ちょっとびっくりが、2002年にパリ公演の時、たまたまパリにいたスーザン・ソンタグが、ひとりで聴きに来てくれてたそうだ。スーザン・ソンタグはボクがついこの間読んだばかりの『反解釈』の著者さんだよ。9・11テロ後、彼女はアメリカ世論の激しい攻撃にさらされながらも、ナショナリズム一辺倒のマスメディアやアメリカの覇権主義を厳しく批判し続けた。坂本氏とは、テロの後で知り合って連絡とったりするようになった、と。
 ここには、YMO再々結成のことも書かれてるね。
 でも、それよりも、彼の社会的な活動について、関心を寄せた。「ストップ・ロッカショ」は、自ら立ち上げた運動で、六ケ所村の再処理工場問題。それから「モア・トゥリーズ」というプロジェクトは、森を増やそう温暖化を少しでも食い止め、保水力や生物の多様性を確保する森。
 彼は、それでも、自分から声をあげて社会活動に関わることはほとんどしてないと言うよ、これ嘘ばっか。してるじゃん。自分の身に降りかかるからしているのだそうだよ。でも、自分の身に降りかかるはずなのに、なにも主張しない人が多いじゃんねエ。
 ここには書かれてないけど、別のところで、浅田彰氏も坂本氏のことを「主張する音楽家」などとと称していた。ただね、海外のアーティストは皆、自分の意見や考えを主張しているよ。なので、坂本氏は、実際ごく自然なのだ。むしろ、主張しない日本人の方がおかしいのだ。
 坂本氏自身がこう述べている。「目の前に川でおぼれている人がいたら、助けるか助けを呼びに行く。ただ、それだけのことだ」と。福島原発事故の直後の言葉。
 日本人は見ぬふりをして通り過ぎる人が多いかもしれない。主張せず無難に済まそう過ごそう、そんな日本人のが普通じゃないと思う。言いたいこと言っちゃうと、逆に言いたいことも言えない奴らから、正義を振りかざして同調圧力で叩かれる、生贄にされる。それがコロナ禍以降、日本では進んでいるのだね。
 さて、彼が「ケープ・フェアウェル」というプロジェクトに参加してグリーランドを訪れて(これも本人曰く、いやいや行ったげな)、感じたことを、引用したい。初めての引用、お許しあれ。これも、
《人間が自然を守る、という言い方があります。環境問題について語るとき、よくそういう言い方をする。でもそれは、ほとんど発想として間違いなんだと思います。人間が自然にかける負荷と、自然が許容できる限界とが折り合わなくなるとき、当然敗者になるのは人間です。困るのは人間で、自然は困らない。自然の大きさ、強さから見れば、人間というのは本当に取るに足らない、小さな存在だということを、氷と水の世界で過ごす間、絶えず感じさせられ続けた。そして、人間はもういなくてもいいのかも知れない、とも思った。》
 ボクはグリーランドへ入っていないが、時々宇宙のことを考えるとき、人間が自然を守るなんておこがましい。地球は、人間による環境の変化で人間自身が地球で住めなくなって滅ぶことなんか、何とも思ってはいないんだ、きっと。

坂本龍一『音楽は自由にする』11

 ああ、以上で終わりにするね。あとがきも、2009年の教授の「ありがとう」で終わるよ。

 あと、この本は、2009年に出版されているので、それ以降のことは書かれていない。
 それ以降で二つだけ、映画音楽を採り上げたい。
 ひとつはレオナルド・ディカプリオ主演の『レヴェナント: 蘇えりし者』(2015)。アメリカの西部開拓時代を生きた実在の罠猟師ヒュー・グラスの半生と、彼が体験した過酷なサバイバルの旅を描いている映画で、坂本氏が音楽を担当した。

 もうひとつは、1970年代、水銀中毒(水俣病)が熊本県水俣市の市民に及ぼす影響を記録した写真家のユージン・スミスを、製作を兼務するジョニー・デップが演じた映画『MINAMATA-ミナマタ-』(2020)。坂本氏が音楽を担当した。


 最後に、浅田彰氏の教授に対してコメントしている動画を掲載して、ほんとに終わりにしたい。
「浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一」


 教授の音楽は永遠である。


坂本龍一『音楽は自由にする』 posted by (C)shisyun


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