吉田類の酒場放浪記。黒田節と日本号。エジプティアン・ファンタジー。戦国武将と酒。天下人の酒宴。黒田如水「上善は水の如し」。上杉謙信・福島正則・黒田官兵衛・織田信長・毛利元就・武田信玄。エイモス・ミルバーン。福岡県
 

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各コラムで紹介した曲目リストは、「目次」で…

  

あの曲や動画はどこ… 音楽家別作品

 

*今後の予定曲

 

音路(19)酔うが如し ~ 武将たちの酒場放浪記



今回は、「お酒」に関する音楽コラムです。
お酒にまつわる戦国武将のお話しや、お酒の音楽をご紹介します。


◇戦国武将とお酒

今も昔も、お酒は人間にとって、「良」であり、「悪」でもある飲み物ですね。

適量であれば、身体にも精神にも良い効果をもたらします。
非常に心地よい時を過ごすこともできます。
相手との信頼関係を育むこともできます。
普段できないことでも可能にするような勇気や気合いを持てることもあります。

ただし、限度を越えた量を飲むと、健康を害するばかりでなく、対人関係を悪化させたり、さまざまなトラブルを引き起こしたりもします。

* * *

戦国時代の武将たちも、酒の絡んだエピソードは山ほどあります。
少しだけ、分類して書いてみます。


◇酒量が多過ぎて、寿命を縮めた…

まさに、この代表格が上杉謙信ですね。
謙信の場合は、食べ物をあまりとらず、ひとりで長時間の「手酌酒」…。

彼は、今でいうジェンダーであったといわれていますし、もともと上杉家への養子で、結婚をせず、側室も持たずでした。
男性の家臣も、夜の酒の相手をしなかったのかもしれません。
相当なストレスや孤独感を抱えていた可能性もあります。
ひとり、月を見ながら、毘沙門天像とブツブツ会話をしながら、酒浸りだったのかもしれません。

彼の戦場での勇ましい戦闘ぶりは、見方によっては、無茶な奇行スレスレです。
これが酒のチカラを借りたものであったとしても不思議はありません。
そのくらい、勇ましい戦場での姿です。
それに、あの意表を突いたファッションです。

* * *

彼は、馬上で酒を飲む時の、専用の豪華な「馬上盃」を持っていました。
今の「どんぶり」ほどの器の下に、長い持ち手がついているものです。
どこかに置くことを想定していない形状から、飲み干すまでは、ほぼ手に持っていたということです。

この形状は、まさに天狗のお面のようなかたちをしています。
歴史文献の中に、「越後の大天狗」という言い回しが登場していたら、その名がなくとも、それは謙信のことを指します。

確かに、冬に極寒になる地方の武将は、酒で暖をとるということも少なくないのですが、これほどの酒がらみの話しが登場する武将は、謙信以上にはいない気がします。

* * *

謙信には、酒にまつわる自身の言葉もたくさん残っています。
「この盃すなわち我が後影なり」。

「四十九年、一睡の夢、一期の栄華、一盃の酒」は、辞世の句です。
当時の戦国武将は、いつ死ぬかわからない中、元気なうちに「辞世の句」を用意しておくのが常でした。

彼の突然死は、寒い時期の新潟で、酒の飲みすぎによる、脳に関わるものであったともいわれていますね。
トイレで倒れ、数日後には亡くなります。
脳いっ血、脳梗塞、脳卒中、くも膜下出血…、のような症状だった可能性が高いようです。
アルコールの過剰摂取、急激な寒暖差、過労やストレスなどが要因になった可能性もありますね。

この時は、これまでにないような上杉軍の大軍団の準備が整い、春の雪解けを待って、どこかに出陣する直前の突然死でした。
相手が、信長だったのか、北条だったのか…、はっきりしません。

謙信の傍らにあった酒だけが、その行先を知っていたのかも…。


◇酒が好き過ぎて、寿命を縮めた…

この代表格が、福島正則、今川義元あたりでしょうか。

織田信長と今川義元の対決「桶狭間の戦い」の戦場の最中で、今川義元は、ちょっとした勝ち情報が入るたびに、酒宴です。
その度に、酒の入った舞です。
こんな状況を襲撃されたら、ひとたまりもありませんね。
でも、これも信長の陰謀でしょう。
とはいえ、戦場のど真ん中で、酒飲んで宴会をしているようでは、勝てるはずはありませんね。
後で、また書きます。

* * *

福島正則(ふくしま まさのり)は、いわゆる酒乱系と思われます。
現代の酒乱もそうですが、周囲はもう どうしようもありませんね。
家臣を自害させるは…、大事な自慢の槍は手放すは…、もうどうにもなりません。

彼が、周囲の武将たちから疎まれたのは、この酒のせいかもしれません。
酒さえなければ、彼は失脚せず、領地を没収されず、命を縮めることはなかったようにも感じます。

* * *

当時の戦国乱世では、武将たちはみな、正則に限らず、相当なストレスの中にいました。
とはいえ、しっかり酒を自制できた武将もたくさんいました。

正則は、いわゆる裸一貫(はだかいっかん)、その身体ひとつと武芸の技で出世した武将です。
明晰な頭脳だけで大出世した石田三成とは、正反対です。

たしかに正則のイライラもわからないわけではありません。
でも、「キレやすい」のも考えものです。
これに、酒がさらに、火をつけました。

酒で身を滅ぼした典型的な例かもしれません。
後で、エピソードを書きます。


◇酒好きだが、自制できた…

同じように、大きなストレスの中、酒に逃げ、大失敗を繰り返していたのが、若い頃の伊達政宗です。
酒の席での酒乱ぶりはひどく、よく生き残っていたものです。

ただ彼は、ある頃から自制心が働き、記憶をなくすほどの飲み方をしなくなったようです。
万が一に備え、江戸城内では、脇差(わきざし / 小刀のこと)も本物の刃ではなく、竹製の「竹みつ」を所持していたようです。
とはいえ、それには、他の理由もいろいろあったはずです。

彼は後に、「美食家」として有名になりますね。
酒へのこだわりが、方向を変え、料理のほうに向かわせたのかもしれません。
料理なら、どんなに上手くても、どんなに食べても、暴れることはありませんね。

伊達家の命運は、「運の尽き」から「萩の月」…。


◇徹底的に酒量を管理…

大軍団が地方に遠征し戦闘する場合は、料理人や遊女を連れていく場合もあります。
場合によっては、陣の中にそうした遊興場所を設置します。
ただ、兵士があまりも酒を飲んで遊んでしまうと、いざという時に役に立ちません。

敵側は逆に、酒だるや遊女を、そうした陣にスパイとして大量に送り込みます。
前述の「桶狭間の戦い」でも、織田軍は今川軍に事前に大量の酒を送り込みました。
そこに酒があれば、今川軍の大将も兵士も飲んでしまう…そのことを信長はよく知っていましたね。
酒を飲んで、できあがったところに、信長の鉄砲軍団が猛連射し、そこらじゅうから乱入しました。

この酒の危険性をたいへんに警戒したのが、毛利元就(もうり もとなり)です。

* * *

戦国時代は、敵はもちろん、一族内でも、酒宴や病気見舞いと称して、相手を招き入れ、毒殺するという暗殺方法がたくさん行われました。
てっとり早く、相手がクチにしやすいのが酒です。

水や湯、茶だと、毒がすぐにわかりやすいですが、酒は意外とわかりにくい気がします。
そういう味の酒だと言われたら、そういうものかと思ってしまいそうです。

* * *

元就(もとなり)の時代の広島を中心とする中国地方は、それは熾烈な武将どうしの戦いの地で、毛利一族も相当に毒殺されています。
安易に相手が出した酒や食べ物をクチにするのはもちろん、自身の屋敷内でも、警戒を怠ることはできません。
今現代でも、重要な人物たちは、そうしていますよね。

元就は、健康の意味でも、安全の意味でも、息子たちに、酒の飲み方をしっかり指導し、くれぐれも酒を飲みすぎないように言っています。

彼は、酒の中に、身体に良いとされた植物の薬用菊を混ぜた「菊花酒」を愛飲していたようで、他にも滋養強壮酒や健康酒をかなり あみだしていたようです。

とにかく、天下の覇者を狙うような者たちは、自身が長生きすることが最大級の関心事です。
毛利元就、武田信玄、織田信長、徳川家康らは、とにかく酒を自制し、さまざまな身体に良いことを行っていましたね。


◇天下人になるには、健康管理から…

徳川家康は、自身の手で、自身が飲む薬の調合まで行っていましたね。
他人には絶対にさせません。

テレビの時代劇ドラマでも、ふんだんに、そうした光景が描かれますね。
彼の死因は、自身の薬の調合の失敗という説もあります。

* * *

織田信長は、伊吹山に自慢の薬草園まで作ります。
さすが優秀なビジネスマンの信長です。
健康、商売、軍事の多方面で、目論んでいましたね。

彼は、ほとんど酒を飲まなかったといわれていますが、そのかわり、相当な量の水や茶を飲んだようです。
水の飲みすぎによる、病気を抱えていた説もあります。
昔は、茶はもともと薬で、茶を飲み比べる銘柄当てゲームなども盛んに行っていましたね。
彼の「茶の湯」好きは有名でした。

彼は、金平糖(こんぺいとう)などの西洋からの甘い菓子が好きだったこともあり、「本能寺の変」の頃は、糖尿病の症状が出ていたともいわれています。
今でも、酒は飲まないが、そのかわり甘味に走る人も少なくありませんね。

酒に厳しく、甘味に甘い…それが信長だったのかもしれません。

* * *

武田信玄の甲斐国(山梨県)には、「薬袋(みない)」という地名や家名があります。
信玄の落とした「薬袋」の伝説もありますね。
その名称の由来は、はっきりとはしていませんが、医療分野に関係のない場所に、このような名称が残るはずがありません。

湿布薬で知られる「トクホン」の名称の元になった、「医聖」と呼ばれる医師の永田徳本(ながた とくほん)は、武田家に仕えた医師です。
でも、さすがに信玄の胃がんは治せませんでした。

* * *

彼らのような天下を狙う武将たちは、病気は、祈祷や呪術で治すものという思想は、ほぼなかったと思います。
科学的な思考、論理的な思考、冷静な判断、普段の地道な努力…、これらを自身の中に備えていたからこそ、天下を狙えたともいえますね。
彼らが、酒で身を滅ぼすなどということは、まず考えられませんね。


◇酒の有名なエピソード

戦国時代には、酒を上手に利用した武家もいます。
先ほど、武将の福島正則が、酒のせいで大事な自慢の槍を手放したと書きました。

これは、福島正則が、自身の自慢の槍「日本号」をかけて、黒田官兵衛の家臣の母里太兵衛(もり たへい / 母里友信)と酒の飲みっぷりを争い、それに負けたことで、この槍「日本号」が黒田家に渡ったというお話しです。
詳しくは書きませんが、どこまでが真実かは、私にはわかりません。

* * *

黒田官兵衛とは、豊臣秀吉の最大の戦略参謀(軍師)で、日本史上、最高クラスの軍師です。
官兵衛の兜(かぶと)には、大きな「おちょこ(お椀)」が逆さまに乗っているという、風変りなものがあります。
それは、まさに酒が入っていない、酒をつげない「逆さおちょこ」のようですね。

コラムの最後に、官兵衛のこの兜のお話しは書きます。

* * *

福島正則と、黒田官兵衛の家臣である母里太兵衛の両者は、相当な酒豪であったのは確かのようです。

二人の武士の格からいえば、正則のほうがはるかに上です。
ただ、秀吉軍ナンバー2の黒田官兵衛の最重要家臣のひとりであるという意味では、太兵衛は引けを取らない気もします。

私は個人的に、この酒にまつわるエピソードには、何か裏があると睨んでいます。
文献通りの内容を、単純に鵜呑みにするのは、少し危険だとも感じています。

ここで、本ブログ「歴音 fun」お得意の、想像推理物語を書いていきます。
ほろ酔い気分で、どうぞお読みください。


◇黒田節

この槍「日本号」は、豊臣秀吉が福島正則に「小田原征伐」での褒美として与えた名品の槍といわれています。
室町時代の後期に作られ、天皇家から足利将軍家、豊臣家を経て、福島家に渡りました。
まさに武家にとっては、家宝中の家宝です。

一方、黒田官兵衛の家臣の母里太兵衛(もり たへい / 母里友信)は、あの大きな盃を抱えて「黒田節」を舞う博多人形のモデルになった人物です。

* * *

福岡地方の民謡「黒田節」の一番(一節)の歌詞は、「酒は飲め飲め 飲むならば、日(ひ)の本(もと)一のこの槍を、飲みとるほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」です。

この歌の一番の歌詞は、この福島正則から母里太兵衛に渡った槍のエピソードを描いた歌詞です。
二番以降の歌詞は、歌詞の意味の連続性はなく、さまざまな時代の歌詞が連続しているものとも思います。
一番の歌詞は、おそらくは、江戸時代の福岡藩で作られた歌詞と思われます。

 

ここは、福岡出身の赤坂小梅の1942年(昭和17年)の「黒田節」で…

♪黒田節

 

* * *

日本史には多くの武家が登場しますが、自身の家の主題歌のような、有名な楽曲を持っている武家は、黒田家のほかには、なかなか思い出せません。
各武家の現代のマイナーな曲なら、他にもありますが…。
武田信玄の「武田節」は歴史が浅く、山梨県民や信玄ファン、民謡ファン以外には、ほぼ知られていません。
水戸黄門の「ああ人生に涙あり」は、現代に生まれた水戸徳川家のための主題歌にも感じますが、「黒田節」のように歴史に残るのかどうか…。
やはり、黒田家の槍「日本号」の威力が、そうさせたのかもしれません。
すごい斬れ味です。

* * *

ネット上に、錦生裕照(にしき ゆうしょう)さんの素敵な日本舞踊の「黒田節」を見つけましたので、ご紹介します。
あの博多人形の姿での日本舞踊です。


ネットで、「錦生裕照 黒田節」で動画検索していただけましたら、何本かの動画がリストアップされてきます。

この舞踊は、福島正則と母里太兵衛の酒宴のエピソードを思い起こさせてくれます。

申し訳ありませんが、このページからは、はリンクできません。


このような動画を見ていると、自身の酒量がさらにすすむというもの…、おのおのがた、お気をつけくだされ。

母里太兵衛が、この女性の先生のように凛々しい姿だったかは わかりませんが、この酒のエピソードひとつで、母里太兵衛の名声は後世に語り継がれましたね。
酒豪でなかったら、これほどの名声は残っていなかったでしょう。
まさか、酒のおかげで、銅像まで…。


◇日本号の陰謀

さて、この槍「日本号」のエピソードが、仮に実際にあったとしても、当然、酒席での偶然の出来事とは思えません。
槍はもちろん、さまざまな かけ引きが裏にあったと見るほうが妥当だと思います。

酒乱の福島正則が酔っ払ったタイミングを、すかさず狙った可能性もあります。
でも、そうではなかろうと思います。

秀吉や官兵衛が企てた、何かのワナや取引きだったのかもしれません。
あるいは、正則も加わった、外向けの「茶番劇」のようにも感じます。

そもそも、「小田原征伐」関連の戦いで活躍した多くの名武将たちを差し置いて、福島正則だけが、これだけの名品の槍を秀吉から授かるのは何か妙です。
それに、秀吉から授けられた名品を、いくら正則が酒癖が悪いからといって、酒宴の興で他人に渡すとは到底考えられません。
普通なら切腹ものです。

* * *

実は、小田原城の北条氏を最終的に降伏させ、家康も納得させた「小田原征伐」を、成功に導いた最大の功労者は黒田官兵衛かもしれません。
とにかく、最難関の交渉事だったはずです。

秀吉軍の圧勝のような歴史的な評価が一般的ではありますが、個人的には、非常に危険性をはらんだ、結構 緊迫した状況を想像します。
秀吉は、とにかく官兵衛の力量に頼ったのかもしれません。

もともと、この「小田原征伐」作戦の内容については、内部でも異論が多かったようです。
それに、「淀君」まで物見遊山(ものみゆさん)で呼び寄せていますから、こころよく思わない家臣も多かったはずです。
実際には、淀君の小田原来訪は、秀吉の計算だったはずですが…。

* * *

実は、官兵衛の率いる黒田軍の主力部隊はこの小田原には来ていません。
九州の戦乱の情勢が緊迫しており、官兵衛の息子の黒田長政ら黒田の主力軍は九州北部にとどまり、官兵衛ら一部の者だけが小田原にやって来ます。
秀吉が、官兵衛だけでも呼び寄せた気がします。
この頃には、秀吉は、官兵衛のチカラを恐れ始めています。

* * *

「小田原征伐」では、関東の多くの場所で、相当な数の武将たちが関連の戦闘を行っています。
実力ある武将たちはすんなり勝利しましたが、石田三成のように武将としての「戦争下手」があからさまになってしまう武将もいました。
豊臣家の家臣たちが、いずれ東軍と西軍に分かれる火種が、すでにそこにあったと感じます。

さらに複雑なのは、徳川家康は、1586年に秀吉の臣下になったとはいえ、それは形ばかりで、徳川家は北条家と同盟を結んでいる間柄で、そこに信濃国の真田家が複雑に絡んで、結構、緊迫の状況でした。

いくら巨大軍団の豊臣勢とはいえ、北条氏の降伏など、そうそう簡単にまとまるような話しではありません。
状況によっては、東日本勢が手を組めば、小田原で秀吉を討てた可能性も十分にあったと感じます。
小田原城を取り囲んでも、そうそう安易に相手に攻め込めないのは、豊臣方も同じだったと感じます。

* * *

この複雑な状況の中で、北条氏を降伏の方向に持っていける力量のある武将は、豊臣秀吉の最大の参謀であった黒田官兵衛しかいません。
官兵衛の説得で、1590年に、北条氏は、当主の氏政が自刃し、降伏します。
家康もそれで納得しました。
表向きには、秀吉の大勝利という結果もついてきました。

* * *

そもそも、この槍「日本号」は、秀吉の了解を得た上で、福島正則を経由し、黒田家に譲渡された品だったのかもしれません。
ただし、黒田家には、戦場での戦いによる武功はありません。

小田原征伐の際に、北条氏への降伏の説得や、家康などと難しい交渉を行った黒田官兵衛だったのだろうと思います。
秀吉は、とにかく大規模正面衝突での戦闘は避けたかったはずです。
秀吉、家康、北条の間で政治的に動いた、官兵衛の能力の勝利だろうと思います。

* * *

酒豪どうしの酒宴での勝負だけで、この「日本号」を手にできるほど、甘い武士の世界ではないはずです。
そして普通なら、福島正則ら武闘派が、武功のない武将への褒美を納得するはずはないと思います。

まさに武闘派…ようするに戦場での武功で身を立てる者たちの先鋒者が、この福島正則なのです。
彼が納得したのなら、他の武闘派の武将たちはみな、沈黙するでしょう。

この名品の槍「日本号」のやり取りが、どうして福島正則と黒田家なのか…。

武闘派の先鋒者で、酒豪で、負けず嫌いの頑固者…正則を上手く使うには…。
内部での無用な争いや戦いを避け、政治的な方法を謀った、秀吉と官兵衛の姿を、個人的には想像します。

あの武闘派の先鋒である福島正則が納得したという事実が、この時に必要だったと感じます。

こうした政治手法は、今現代の国際関係や内部政治の場でも行われますね。
血を流さず、酒のせいに持っていくのは、かなり高度で賢い手法にも感じます。

* * *

後に秀吉は、官兵衛の政治力と実力を、相当に用心し、彼の裏切りを非常に恐れますね。
武将としての最大の誇りの品「日本号」を授け、九州も好きにしていい…「だから官兵衛、これで納得してくれ。オレ(秀吉)を裏切らないでくれ…、福島正則も、それでいいと言っているよ…」。
ひょっとしたら、このようなことだったのかもしれません。

個人的な想像物語ですが、秀吉からのご褒美である、この名品の槍「日本号」が、すんなり譲渡されることなど、到底 普通では考えられません。
これには、絶対に裏がある…そう感じています。

* * *

後に、黒田官兵衛の息子の黒田長政は、豊臣家ではなく、徳川家康を選択(黒田親子であえて別行動を行う)し、徳川家康の指示を受け、福島正則らの反石田三成派を誘導することになりますが、その際に、黒田長政は福島正則と連携して行動します。

反石田三成派の武将たちは、関ヶ原の戦いの直前まで、完全に家康派だったわけではなく、状況を見ながら勝つ側につく者たちでした。
それに、あの家康が、すんなり反三成派の武将たちを信用するはずがありません。
毛利勢(毛利・吉川・小早川)の家康側への寝返り交渉の成功や、三成派の岐阜城のあっけない陥落(三成の戦争下手)を見て、みな三成を見限り、家康派で結束しますが、福島正則はその際に重要な役割を果たします。

黒田家と福島家をつないだのは、まさしくこの槍「日本号」でしたね。


◇明暗を分けた…

黒田家は、いずれ豊臣家と完全に決別し、黒田長政は完全に徳川軍の中枢になり、福岡の地で大きな存在となります。
黒田官兵衛は、「天下人」になるチャンスを逸してしまいましたが、黒田家は失脚や滅亡することなく、江戸時代にも、名門家として存続し続けていきます。

徳川と豊臣の最終決戦「大坂の陣」の際、福島家の一部は豊臣軍に残り、正則ははっきりと徳川方になる態度を示しませんでした。
福島正則は、江戸時代になり、徳川幕府と毛利家の陰謀によって、かつての大大名の地位を失い、領地を没収され、信濃国に移封させられます。
それでも福島家の一部は、江戸幕府内で、小さくなったとはいえ旗本として生きていくことになります。

黒田家と福島家の両家は、完全に明暗に分かれました。

この「黒田節」を耳にするたびに、酒を飲んでも、酒に飲まれることのなかった「黒田武士」と、酒乱で酒に飲まれ続け、陰謀に敗れていった「福島武士」との大きな差を感じてしまいます。

福島武士は、黒田武士の引き立て役となり、「黒田節」が後世に残ったということですね。

福島正則は、酒宴で暴れ、自身の家臣を自害に追い込んだという話しも残っています。
酒を制した黒田家と、酒に敗れた福島家だったのかもしれませんね。

* * *

もし黒田節にある日本号のエピソードが、偶然の出来事であったなら、こうした出来事は、戦争のきっかけや原因になったりする内容ですので、酒の席の単なる出来事では済まされないことも多くあります。

正則が、何事にも注意深いタイプの武将であったなら、その後、福島家に数々押し寄せる徳川家からの難題に立ち向かっていけたのでしょうが…。
もし文献そのままに、酒のために、こんな大事な武家のお宝を奪われるようなら、いずれ失脚 滅亡もやむなしのように感じます。

正則が、酒乱で周囲から疎まれ自滅するタイプでなければ、黒田官兵衛や黒田長政としっかり手を組み、徳川家に対抗できなくもなかった気もします。
あるいは、長政のように江戸幕府内の中枢を担う福島家になったかもしれません。

万が一、福島正則、黒田官兵衛、加藤清正、加藤嘉明、毛利輝元あたりの西日本勢が手を組んだら、徳川家には相当な脅威となった気もします。
そうはさせない、用心を怠らない家康でしたね…。

* * *

この黒田節の一番の歌詞は、酒は飲んでも、飲まれてはいけない…、黒田家の武士は、戦いに勝ってこその武士だという意味にも感じます。
酒宴で酒に飲まれ、正体をなくすような大将は、まず戦国時代を生き残れませんでしたね。


◇織田の酒宴、武田の酒宴

おそらく織田信長は、自身は酔わず、家臣を酔わせ、いい気持ちにさせるほうに重きを置き、家臣たちの人間観察のほうに注意を払っていた気がします。
私の想像では、信長は酒を飲むことを楽しむよりも、酒宴の時を皆で楽しむほうに主眼を置いたようにも感じます。

信長も、元就も、家康も、信玄も、家臣たちに酒宴で酒の強さを競わせるようなことは絶対にさせなかったと思います。

今は、酒に強い人を「上戸(じょうご)」、酒に弱く飲めない人を「下戸(げこ)」と呼びますが、もともとは階級制の中で、上級の身分の人ほど酒量を許されていましたので、下級の身分のために酒を与えられない者たちのことを「下戸」といいました。
身体的な理由ではなく、身分によって飲むことを許されていなかったのです。
もともと「下戸は飲めない」とは、そういう意味です。

信長や元就は、下戸の者たちには、酒宴時に、饅頭を用意したりして気を配っていました。
これが、天下人になるような者たちの行動ですね。
飲める酒量を競うような者たちに、天下人の素養はなし…。
これが、戦国の軍団の評価基準です。

* * *

信長は、宴会時の信長自身による渾身の一発ギャグやジョークにも、相当な気合いを入れていたのかもしれません。
楽しませ上手…、演出上手の信長が、そこにいました。
「エンターテイメントの信長」ここにありだったと思います。

* * *

またまた、私の想像ではありますが、武田信玄の武田軍の酒宴は、結構、ウンチクを披露しあって楽しんでいたのではと感じることがあります。

「どこどこの文献に、こんな話しがありましたよ」とか、「次に山城を、このように工夫したらきっと強くなりますよ」とか、「次の戦闘でこの戦術を試してみませんか」とか、結構、知識層が喜ぶような、アイデアを出し合う討論型の酒宴だったような気もします。
山本勘助、高坂弾正、穴山梅雪、真田昌幸…、みな相当に大きな声で語ったでしょうね。

「御屋形様(信玄)、そのお話しはすごいですな。そのお話しを縮めて『風林火山』というのはいかがですかな。誰でもすぐに頭に入りますぞ」…、酒宴でそんな話しがされていたのかもしれません。
タイムマシーンでその時代に行き、武田の酒宴をのぞいてみたいものです。


◇軍議

戦国時代の実際の大勢での軍議(作戦会議)は、結構 敵のスパイが潜入していることも多いので、大将を中心とした少数での本当の話し合いは、別にあった気がします。
信長は、よく偽内容の軍議を開いて、そのスパイたちに偽情報を持ち帰らせたりもしましたね。
前述の今川義元は、すっかりだまされましたね。

前述の石田三成の西軍の軍議でも、その内容は完全に家康に筒抜けで、家康の意向で、三成ら西軍の作戦が決まっていったようなものでしたね。
作戦を誘導されてしまっては、戦(いくさ)どころではありませんね。

偽の軍議、誘導軍議では、酒も上手に利用したでしょうね。
おそらく、今現代も同じでしょう。


◇武将たちの飲み方

さて、酔いに任せて…、私の想像する武将の酒の飲み方のイメージは…

◎上杉謙信は、ブツブツひとりごと…、次はどんな衣装を着よう…、やだステキ…。

◎武田信玄は、ウンチク語りまくり…、家臣に質問しまくり…、みんな朝までオレの話しを聞け…。

◎織田信長は、家臣に散々しゃべらせた後でカッコよくウケるギャグ…必死に考え中。締めはやっぱり例の曲で、みんなで踊るぞ…。

◎毛利元就は、酒はやめとけ…、あそこの二つの川(吉川・小早川)に流しとけ…。オレの滋養強壮飲料を飲んでおけ。

◎福島正則は、誰かワシの相手をせよ…。あの槍はどこにいった…、エッ俺のせい…そんなの憶えてねえ。

◎真田幸村は、兄と実家に、もっと焼酎送ってくれよ…、焼酎を死ぬほど 死ぬ前に飲みたい…。

◎加藤清正は、また殿の虎退治の話しと、城づくりの話しが始まった…。

◎豊臣秀吉は、今度の姫はどの酒が好きなのじゃ…、おねには内緒じゃぞ…。

◎明智光秀は、オレは女房の前でしか酔わぬ…、水色桔梗にかけて…。

◎伊達政宗は、毎晩 酒の肴は違う名物を出してね…、刀はしまっとけ…。

◎北条氏康は、酒を何度もつぐな、飲む量を一度につげ…、茶漬けと同じだ…。

◎朝倉義景は、雪深い地の田舎者だとバカにするな、金ならある。この若狭湾の黄金のサザエに酒をついでくれよ…、浅井の小僧も呼んでこい…。

◎黒田官兵衛は、酒も、上善は水の如し…、酒をどう戦術に使うか…、おちょこは頭にかぶるもの…。

◎徳川家康は、オレの調合した薬が酒で台無し…、胃薬を先にもて…。ヤバい…調合を間違えたか。

こんな武将たちの姿を想像します。
戦国武将ファンなら、わかってくれますよね…。

おそらくは、それぞれの武将の酒の飲み方は、それぞれの生き方、戦闘の仕方、組織統治のあり方に、深くつながっていたように感じます。
成功した武将には、仮に大将が酒で失敗を仕出かしても、それをカバーする有能な家臣がいたに違いありません。
宴会部長役の家臣もいたはずです。

江戸時代の福岡城内では、どのような「黒田節」が披露されていたのでしょう…。
もちろん公式のおごそかな内容から、酒宴の席用の面白おかしい内容まであった気がします。
お椀を頭にかぶる宴会芸がなかったとは思えませんね。
槍とお椀で、「お椀回し…いつもより回してます」とかしたでしょうか…。

私も、変な酔いがまわってきましたので、そろそろ音楽のお話しにいきます。


◇吉田類の酒場放浪記

さて、お酒のテレビ番組と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか…。

私の頭に浮かぶのは、あの黒のハンチング帽に、親指を立てるあのポーズの吉田類(よしだ るい)さんの番組「酒場放浪記」です。
今は、BS‐TBSで、1本15分だての番組を、4本連続の1時間でテレビ放送しています。

番組1本に、1店舗の酒場を巡り、酒と肴(さかな)を楽しみながら、吉田さんが店主や客と会話を楽しむ番組です。
取り立てて高級店を巡るのではなく、その街に溶け込む、親しみやすい酒場を巡っていきます。
入り込み過ぎない…、宣伝めいていない…、吉田さんの素朴な会話が実に心地よいのです。

酒場店に入る前の、ちょっとした寄り道も楽しめます。
この時に、毎回異なる80年代の洋楽が流れるのですが、これも、なかなかのチョイスです。

番組の締めは、吉田さんの決め台詞と手のポーズ、そして吉田さんの本業の俳句が登場し、吉田さんの千鳥足の後ろ姿のスローモーション映像で終わります。
まさに、毎回決まった、まさに「黄金構成」なのです。
これなら、番組の常連客になろうというもの…。


◇エジプティアン・ファンタジー

今回の本コラムは「利き酒」ならぬ「利き音楽」をしてみたいと思います。

この番組のオープニング曲である「エジプティアン・ファンタジー」を、いろいろなかたちで聴いてみたいと思います。
まずは、番組で使用している「ザ・クレズモリン」の演奏です。

もともとエジプトの砂漠の風景を思い浮かべるような、異国情緒漂うメロディの楽曲ですが、この「ザ・クレズモリン」の演奏は、ここに日本の「赤ちょうちん」や「場末のバー」の雰囲気が見事にミックスされたようなサウンドに聴こえてきます。

世の中には、いろいろな演奏者による「エジプティアン・ファンタジー」がありますが、この番組でのチョイスは見事としかいいようがありません。
まさに、この番組の導入部にピッタリのサウンドです。

日本独特の雰囲気の酒場に引き込む、ザ・クレズモリンの「エジプティアン・ファンタジー」のチカラは絶大だと感じます。
この演奏者での、この楽曲でなかったら、この番組がこれほど大ヒットしたであろうかとさえ思ってしまいます。

♪エジプティアン・ファンタジー

 

* * *

ここからは、「ユーチューブ」にアップされている音楽動画の中から、素敵な「エジプティアン・ファンタジー」をいくつか、どうぞ ご試飲ください。

1950年代あたりのニューヨークで演奏されていそうな…
♪エジプティアン・ファンタジー

 

今のニューヨークで聴けそうな…
♪エジプティアン・ファンタジー

 

シドニー・ベシェットも実にいい…
♪エジプティアン・ファンタジー

 

ボーカルも実にいい…
♪エジプティアン・ファンタジー

 

ヨーロッパのおしゃれな酒場…
♪エジプティアン・ファンタジー

何か、私たちも手軽に演奏できそう…
♪エジプティアン・ファンタジー

 

この番組が大ヒットした要因は、進行役の吉田類(よしだ るい)さんの個性と、素朴なおしゃべりが最大の要因だとは思いますが、番組内で流れる特定の音楽のチョイスが素晴らしく、こうした奇跡の組み合わせが、大ヒット番組になったのだろうと感じます。

* * *

前述の「エジプティアン・ファンタジー」のほかに、印象的な場面で聴こえてくる楽曲をご紹介します。
エイモス・ミルバーンの曲の一部が随所に使用され、それが絶大な効果を上げています。

♪バッド・バッド・ウィスキー

 

♪ワン スコッチ・ワン バーボン・ワン ビヤー

 

♪ジャスト・ワン・モア・ドリンク

 

2003年の番組スタートの頃は、吉田類さんの衣装の雰囲気が、今とはかなり違う印象です。
トレードマークのあの帽子もありません。
ですが、今はまさに、これらの楽曲の雰囲気に、吉田さんの姿が見事にピッタリです。

お酒の熟成がどんどん進んでいくように、番組の完成度が上がっていきましたね。
それとともに、番組の人気もうなぎ登り…。
音楽と吉田さんが、番組を熟成させていったのかもしれません。

エイモス・ミルバーンの楽曲をチョイスしたのは見事でした。

* * *

この番組の締めでは、吉田さんのいつもの台詞があります。
「まだまだ、いい店がきっとあります…、もうちょっと歩いていきたいと思います…」。
そう言って、手で例のポーズをします。

こんな魅力的な番組がヒットしないはずはありませんね。
まさに、大人のお酒専門番組…。

似たような切りクチのテレビ番組はたくさんありますが、この番組には到底 及びません。
そうそう簡単に、名酒も、名番組も、熟成されていきませんね。

* * *

吉田さんの締めの台詞に、私も真似てみます。
「まだまだ、酒のいい曲がきっとあります…、もうちょっと探してみたいと思います…」。

近いうちに、他にもたくさんある「酒の音楽」をとりあげてみたいと思っています。
またの、ご来店を…。


◇黒田官兵衛の合子形兜

最後に、先ほどの黒田官兵衛の、ひっくり返した巨大おちょこ(お椀)を乗せた兜のお話しを、少しだけ書きます。
この兜は、「合子形兜(ごうすなりかぶと)」といいます。
「如水(じょすい)の赤合子」ともいいます。

「如水」とは、黒田官兵衛の晩年頃の号(名前)です。

「合子(ごうす)」とは、蓋(ふた)のついたお椀のことです。

* * *

この兜は、官兵衛の奥さんの実家である櫛橋(くしはし)家から、官兵衛夫婦の結婚のお祝いとして黒田家に贈られた品だといわれています。

「合」という文字と意味が、結婚により両家が深く結び合うことを祝う意味において、非常に適していると考えたのかもしれません。
この時代にはめずらしい恋愛結婚の夫婦ですし、その強い夫婦の絆を示す意味もあったのかもしれません。
官兵衛は、後にキリスト教徒になり、側室を持つことはありませんでした、

* * *

「如水」という名は、もちろん、あの「上善(じょうぜん)は水の如し」から来ています。
最上の善は、水の流れるが如く、自然の摂理に逆らわない柔軟な思想や行いから生まれてくる…大まかに、そのような意味です。

この兜の「おちょこ(お椀)」は、逆さまになっていますので、ここに水は当然の如くたまりません。
蓋(ふた)もありません。

この兜は、武器を手にする戦いだけではない、多くの種類の戦い方を身につけた、大軍師で戦略家であった官兵衛(如水)にふさわしい気がします。
逆さまのおちょこ(お椀)に、酒や水をつぐことなど、最初からできませんね。
逆さまなら、いつも、その水は、あるべき方向に流れていきますね。
黒田家が、酒に絡んだ失敗や陰謀で、失脚滅亡することなど、まずありえないことだろうと感じます。

ひっくり返されて置かれた「お椀」を見て、何を感じるのか…。
飲めない…、飲みたい…、飲んではいけない…、飲むな…、飲んだら負ける…、どうしたら飲める…。
酒は飲んでも、飲まれてはいけない…。

酒で放浪するのは、テレビ番組だけにしておきましょう。
今日も、酔うが如し…、でも酒には飲まれず。

* * *

コラム「音路(20)この日を忘れない~花は咲く」につづく

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