NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の麒麟花押。足利義輝の息子。進士藤延と明智光秀。波多野秀治と丹波国。牧のはりつけ伝説。将軍の子。足利義高・覚山天誉・徳川家光・春日局。誓願寺・八上城・兵庫県 丹波篠山市・京都市。

 

 

麒麟(38)麒麟とザリガニ


前回コラム「麒麟(37)辞世の言葉」では、足利義輝の最期、永禄の変、松永久秀と三好三人衆、辞世の句、天下五剣、将軍の花押などについて書きました。

今回のコラムは、前回コラムの内容の続きとして、雑感を書きたいと思います。


◇信長にとっての義輝

1551年、織田信秀(信長の父)と今川義元の戦いの仲裁を行ったのは、足利義輝です。
「桶狭間の戦い」の約10年前です。

織田信秀が亡くなる前年か同年で、織田氏は今川氏に劣勢になっていた危険な時期です。
将軍は、今川氏に肩入れして当然のように思いますが、仲裁しますので、織田信長からみたら、義輝に恩を感じていたかもしれません。

信長は、足利義輝について、さまざまな見解も残しています。
義輝の朝廷への対応の仕方にも批判的な意見を残しています。
義輝と朝廷の関係は、あまりいいとも感じられません。

ただ、歴代の足利将軍の中で、その意識の高さといい、行動力といい、武芸への関心の高さといい、信長は義輝をある程度評価していたのかもしれません。

信長は、義輝の死後に、自身の花押(文書などの最後に書き込むサインのようなもの)を変更したといわれていますね。

ツイッターである方が、その信長の花押を、ある生きものに表現していたのを見て、笑ってしまいました。
まるで「ザリガニ花押」です。

冒頭写真の青色がその花押です。

* * *

信長は、ある時期から花押にかえて、「天下布武(てんかふぶ)」の印鑑を使用するようになるのはよく知られていますが、それまでは、この「ザリガニ花押」が使用されます。

このザリガニの形は、変遷をたどりますが、この義輝の死が、何かのきっかけであったともいわれています。
このザリガニの形が、何を意味しているのかは、いつかの説がありますので、実ははっきりとは分かっていません。

いくつかの説の中の、ある学者さんが残したものを、ここでご紹介します。


◇信長の「麒麟」

このザリガニこそ、「麒麟(きりん)」の「麟(りん)」の文字の一部だというのです。

「麟」の文字の一部を省略し、草書で崩して書くと、このザリガニ形になるそうです。

もともと、花押というのは、自分の名前を崩したり、何かの絵を崩したり、好きな文章を崩したり、好きな言葉を崩したりして作ります。
ある意味、なんでもいいのです。
ザリガニが好きだから、ザリガニの形に見立てたでも、もちろんいいのです。

* * *

江戸時代の幕末の英雄に、勝 海舟(勝 麟太郎・かつ りんたろう)がいますね。
彼の名前の「麟」の文字も、「麒麟」からきているともいわれています。
そして、勝麟太郎の花押も、このザリガニにそっくりなのです。

信長の花押も、やはり「麒麟」の「麟」から来ているのかもしれません。

「麒麟(きりん)」と「麟(りん)」は、ほぼ同じ意味で、空想の生きもののことです。
厳密には微妙に違いますが、同じ思想や理想を感じさせるものです。

信長は、中国の古い文献を相当に勉強していましたね。
彼がつくった「岐阜(ぎふ)」という地名も、中国の古い地名を合体させ作りました。
信長が、中国の古い伝説の「麒麟」の話しを知らないはずはありません。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」では、足利義輝も、「麒麟」の話しを何度もしていますね。
義輝は、戦国武将たちと面会した際に、理想の将軍像や幕府のあり方、中国の故事の話し、麒麟という生きものの話しをしていたのかもしれません。

たしかに、初対面での会話に、「麒麟」の伝説はもってこいにも感じます。
相手の教養と思想もわかります。

大河ドラマでは、義輝の弟の義昭も、「麒麟」の話しをすでにしていましたね。
開かれた都市部の武将や、寺の僧など、一部の知識層しか、「麒麟」の話しは知らなかったとも感じます。
一般の庶民が知る話しではなかっただろうとは思います。

* * *

信長の中に、義輝亡き後、「麒麟」を受け継ぐ者…、すなわち麒麟を呼び寄せる者は自分だという意識があったのか、なかったのか…?

義輝にも、信長にも、光秀にも、後に将軍になる義昭にも…、この「麒麟」という存在が、大きな影響を及ぼしていたのかもしれませんね。

この信長の花押の話しが、大河ドラマに登場するのかどうかわかりませんが、義輝の死の時期に、実際の信長の頭の中に「麒麟」が存在していたのは間違いありませんね。


◇まさかの伝説・その1(光秀となる…)

さて、前回コラム「麒麟(37)辞世の言葉」で、「永禄の変」の時に、義輝のもうひとりの弟の周高(しゅうこう)と、義輝の生母の慶寿院(けいじゅ
いん)、それに、義輝の子を身ごもっていた女性(名前不明)が、同時に亡くなったことを書きました。
主要な側近たちも、ほぼ全滅しました。

主な側近たちは、荒川晴宣、荒川輝宗、彦部晴直、彦部輝信、杉原晴盛、小笠原稙盛、沼田光長、細川隆是、武田輝信、摂津糸千代丸、進士晴舎、進士藤延などです。

この中で、進士晴舎(しんじ はるいえ)と、その息子の進士藤延(しんじ ふじのぶ)という親子がいました。
藤延の「藤」は、おそらく義輝(旧名:義藤)から「藤」の文字を授かったものでしょう。

* * *

実は、この進士(しんじ)家親子には、妙な伝説があります。
この進士藤延(しんじ ふじのぶ)は、実はこの「永禄の変」で死んでおらず、後に、明智光秀になるというものです。

そして、義輝の子を懐妊していた女性は、この藤延の妹で、彼女も生き残り、その子が、後の明智光慶(あけち みつよし / 一応、明智光秀の長男)だというのです。

進士晴舎(しんじ はるいえ)が、二人の子供を二条御所で死んだことにして、脱出させたというのでしょうか…?
晴舎の娘の身代わりの女性が、二条御所で死んだ…?

たしかに、明智光慶は、その生まれも、最期の死も、はっきりとは わかっていません。

足利義輝の血は、実は絶えておらず、進士藤延(明智光秀)が、義輝の息子を、いつか将軍の座にしようとした…?
まさかのストーリーではありますが、歴史の中には、似たようなケースがなくはない気がします。

進士藤延(明智光秀)を、土岐源氏の系図の中に溶け込ませるのも、できないことではありません。
源氏の将軍である義輝の血が、土岐源氏の系図の中に入ってきても、何の不思議もありません。

大河ドラマでは、すでに光秀に娘たちがいますが、長男ができるのも、このタイミングと符合します。
初期の織田信長の、光秀への低姿勢も、妙に不自然で不思議です。

* * *

「本能寺の変」直前の光秀の言葉「時(土岐)は今…」の、「時」とは、ほんとうに「その時」を示していたのかもしれませんね。
この伝説は、後世の、おかしな創作話しだと決めつけていいものなのかどうか…?

「永禄の変」と「本能寺の変」はつながっていたのか…?


◇まさかの伝説・その2(牧のはりつけ)

今回の大河ドラマ「麒麟がくる」では、光秀の母である「牧(まき)」(演:石川さゆりさん)が、ずっと登場していますね。
ドラマ内でそこまで重要な人物とも思えませんが、もしかしたら、これから、牧に関する、あの伝説のシーンが登場するのかもしれません。

足利義輝の最期の伝説のシーンもそうですが、牧の伝説のシーンもぜひ見たいものです。
まさに石川さゆりさんの楽曲「天城越え」にある「浄蓮の滝」伝説の女性のような迫力で…。

* * *

明智光秀の生母の「牧」に関するお話しを、ごく簡単に書きます。

後に織田信長の家臣となった明智光秀は、織田軍を率いて、1575年頃から、丹波国(京のある山城国の隣国)の攻略を開始します。
敵は、赤井直正です。

ですが、光秀は、家臣であった波多野秀治(はたの ひではる)に裏ぎられ、敗走します。
その後、光秀は、丹波篠山(たんばささやま)の八上城(やかみじょう)に立てこもる秀治と戦いながら交渉を続け、秀治に「織田軍に降伏すれば、丹波国の領地を与え、波多野家の存続を認める」と伝えます。
それを保証するために、光秀は、母の牧を、敵の八上城に人質として送ります。

そして1579年、その条件のもと、波多野秀治は、信長のいる安土城に出向きます。
ですが、信長は、秀治と弟の秀尚(ひでなお)を、はりつけ処刑します。

これに怒った八上城の波多野秀香(ひでたか / 秀治の弟)が、人質の牧を、松の木に「逆さはりつけ」にし、処刑したというのです。
これが「はりつけ松」の伝説です。
信長のせいで、母を失った、光秀のこの恨みが、「本能寺の変」(1582年)へとつながっていくというお話しです。

今では、このお話しは、ほぼ後世の創作物といわれています。

実際は、母の人質と「はりつけ処刑」などはなく、光秀の陰謀で、波多野三兄弟はワナにはめられ、波多野家の丹波国支配が終わったようです。
波多野三兄弟は亡くなりましたが、波多野一族は生き残り、今、私もそのおかげで、グンゼの下着を利用させてもらっています。

この伝説の牧の処刑が、旧暦の1579年6月2日で、「本能寺の変」も1582年の6月2日(旧暦)だというのです。
これが、話しの「オチ」…?

* * *

とはいえ、光秀の生母の「牧」に関する有名な伝説です。
実際に、牧の、「逆さはりつけ処刑」が行われたかどうかは別にしても、似たような残虐な内容はあったのかもしれません。

大河ドラマで、このシーンを描くのかどうかはわかりませんが、この戦いでの光秀の攻撃は、かなり残虐な一面もありますので、光秀という人物を描くにあたっては重要な部分なのかもしれませんね。


◇義輝の子

波多野秀治に絡むお話しを、もうひとつ書きます。

義輝が「永禄の変」で襲撃された時に、義輝には生きている男子がひとりは確実にいました。

襲撃の最中なのか、直前なのかわかりませんが、男子の乙若丸(三歳・後の足利義高、覚山天誉上人)は、京の誓願寺に脱出していました。
誓願寺は、飛鳥時代から続く寺で、鎌倉時代に奈良から京に移転しました。
平安時代の清少納言や和泉式部にもゆかりのある古刹ですね。

乙若丸は、その後、前述の丹波篠山の波多野秀治を頼って、丹波国に向かいました。
丹波国とは、今の京都府の中央部、大阪北部、兵庫県の北東部です。
京都市から、八上城(やかみじょう)のある丹波篠山市は、約60キロメートルです。その日にたどり着けますね。

波多野氏は、もともと三好氏や松永氏とは敵対関係にありました。
乙若丸は、誓願寺と波多野氏がいなければ、まず生き残ることはできなかったでしょう。
この乙若丸は、波多野秀治の庇護のもと、成長します。

彼が僧侶となってからは、丹波篠山にも誓願寺が建てられます。
そして、成長した足利義高(覚山天誉上人)は、1624年に生涯を閉じます。

ですから、波多野秀治の死も、松永久秀の死も、織田信長の死も、明智光秀の死も、足利義昭の死も、豊臣秀吉の死も、徳川家康の死も、すべて見届けてから亡くなります。
「本能寺の変」も、「山崎の戦い」も、「関ヶ原の戦い」も、「大坂の陣」も見届けるのです。

そして、天下人競争を制し、最後に将軍になった家康の天下も見届けました。
自身がなっていたかもしれない将軍の座についた家康を見届けたのです。

* * *

家康は、1609年に、後に豊臣家を滅ぼす準備として、丹波国に丹波篠山城を築き、丹波国の八上城下の街は、すべて丹波篠山城下に移転させます。
篠山の地には、今でも、義高(覚山天誉上人)ゆかりの「誓願寺」や「 浄土寺」が残っていますが、義高自身は篠山城下から少し離れた西紀という地域でひっそりと暮らし、生涯を閉じます。
そのお墓は、将軍義輝の息子だと到底感じさせない、小さな墓石です。

足利義高(覚山天誉上人)は、時代の状況によっては、足利将軍になれた人物でしたね。
本人は、歴史の表舞台には決して戻ろうとはしなかったのだろうと思います。
あるいは、誰かの、何かの導きが、彼を戦乱の世界には戻さず、彼に、徳川により戦乱が終わったことを見届けさせたのかもしれません。

足利義高(覚山天誉上人)は、どのような気持ちで、生涯を終えたのでしょうか。

おそらく彼には、三歳の時の「永禄の変」の記憶はないと思いますが、父親の義輝の理想や思いに、想像をめぐらせたことでしょう。
人間の宿命や運命に、思いをめぐらせたことでしょう。

義高(覚山天誉上人)は、丹波国で、波多野氏を倒した、同じ源氏の明智光秀と会い、話しをしたことがあったでしょうか…。
大河ドラマで、そんなシーンを見たい気もします。

彼は、決して時代の表舞台に出ることはなく、静かに生涯を終えました。
伝説も残しませんでした。


◇将軍の子

丹波国は、明智光秀にとっても、相当にゆかりのある国ですね。
福知山城、丹波亀山城、金山城、黒井城、八上城など、多くの城や寺が光秀に関わりがあります。
もちろん光秀が、織田軍の畿内方面部隊の総司令官という地位にあったからです。
この地位こそが「本能寺の変」の実行を成功させますが、このお話しはおいおい…。

* * *

丹波篠山の春日(かすが)という土地は、明智光秀の最重要家臣の斉藤利三(さいとう としみつ)の娘で、後に徳川三代将軍の徳川家光の乳母となり、江戸城大奥で大きな権勢を誇った「春日局(かすがのつぼね)」の生誕地だともいわれています。
朝廷から、こうした歴史をふまえて、この名と官位を授かります。

春日局の幼名は「お福」で、1579年に、この春日の地で生まれ、興禅寺で三歳まで過ごしたともいわれています。
1579年は、前述のとおり、波多野秀治が信長に処刑された年です。

明智光秀は、この時には丹波国を領地としており、彼の家臣の斉藤利三も、黒井城の地域を光秀から与えられていました。
春日局の母は、美濃国のあの「ガンコ一徹」で知られる戦国武将の稲葉一鉄の娘です。

春日局は、その後に「本能寺の変」の後、苦労の末、後に江戸幕府の江戸城内に大奥をつくり、トップとして君臨します。
戦国時代の厳しさを知り尽くし、戦いの内情を知り尽くし、明智家の栄枯盛衰も知り尽く、両親の強靭さをも受け継いだ、まさに戦国武将のような「お福(春日局)」を家光の乳母に決めたのは、あの徳川家康でした。

* * *

三代将軍の家光には、有名な言葉が残っていますね。
あの「生まれながらの将軍」のエピソードです。

これは、彼の将軍就任時の言葉から来ていますね。

「前代までの将軍(家康・秀忠)は、その方共(ほうども)と同列の大名であった時期もあるので、その方共に対する待遇にも、その含みがあったが、余は生まれながらにして天下人。
これまでとは格式をかえ、その方共を譜代大名と同じく家来として遇するから、さよう心得るよう。
もし不承知の者あらば、謀反いたすがよい。
今日より3年の猶予をつかわすゆえ、国許へ帰ってその支度を致せ」。

この強気で大胆不敵な就任発言から、「生まれながらの将軍」と呼ばれるようになりましたね。

比較的、男色系で女装好きであった家光を、強気の大将軍に作り上げたのは、まさに明智光秀の重臣の斉藤利三の娘の春日局でした。
春日局は、「本能寺の変」から「大坂の陣」までの大戦乱時代の話しを、家光にしっかり話していたことでしょう。
足利将軍の没落の話しもしたかもしれません。
実戦の話しよりは、人の心や精神力の話しをしたかもしれませんね。

* * *

前述した、将軍 足利義輝の息子の「義高(覚山天誉上人)」と、この徳川家光の、人生の違いは歴然です。
同じ将軍の子に生まれながら、その生涯はまったく違っていましたね。

どちらが、幸せな人生だったかは、私には、よくわかりません。
ですが、これだけは言えるかもしれません。

将軍の子にだけは、生まれたくない…。
麒麟より、ザリガニと遊んでいるほうが…。

最後に、石川啄木さんにならって…
「戦乱の、丹波の山の、谷川に、われ泣きぬれて、ザリガニとたはむる」。
(一握の天下)

* * *

 

コラム「麒麟(39)器はどこ…」につづく。

 

 

2020.9.17 天乃みそ汁

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