NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。どうして桶狭間。沓掛城と祐福寺。松平元康と朝比奈泰朝。蜂須賀小六と簗田政綱。服部一忠と毛利新介。近藤景春と山口教継。母衣衆と馬廻衆。
麒麟(24)桶狭間は人間の狭間(6)
「最後の一線」
前回コラム「麒麟(23)桶狭間は人間の狭間(5)義元をつれてこい」 では、今川軍の兵力と進軍方向、信長の戦い方と人事評価、雪斎だったら…、今川氏の赤鳥紋などについて書きました。
今回のコラムは、いよいよ「桶狭間の戦い」の直前である「沓掛(くつかけ)城」のことを中心に書きたいと思います。
◇くつかけ
「沓掛(くつかけ)」って、妙な言葉ですね。
今の長野県の「中軽井沢」は、かつて「沓掛宿(くつかけじゅく)」と言いました。
日本各地に、この「沓掛(くつかけ)」の地名がありますね。
「沓(くつ)」とは「朽ちる」「屈(くつ)」の変化形のようです。
「掛(かけ)」とは「崖(がけ)」の変化形だそうです。
ようするに、街道にある峠の「崖」や「窪地」のような場所を意味していたようです。
「屈掛(くつかけ)」という漢字を使用する場所もあるようです。
「沓」は履き物の意味もありますね。
今は「くつ」を、「靴」のほうの漢字で表記するのが一般的です。
いつしか言葉遊びのように、「旅人が履き物をぬいで、引っかけておく…場所」、つまり街道の峠で休憩できるような、見晴らしのいい場所をさすようになっていったようです。
さらに、旅人たちは、いつしか、旅の道中の安全を祈願し、草鞋(わらじ)や、馬具の布などを、その場所にある地蔵や道祖神、庚申塔(こうしんとう)などに供えていくようになったようです。
お供えした後、この場所で、新しい履き物を履いて旅を続けたそうです。
旅に馬を連れている場合は、この場所で、馬を休ませ、馬の履き物「馬沓(うまぐつ / 蹄鉄や、馬用の草鞋のこと)」を交換し、古い馬沓を高い樹木の上に放り投げたそうです。
沓掛だけに、一種の「願掛け」にも感じます。
修験者の山伏(やまぶし)などは、普段の生活で履いていた草鞋(わらじ)を、新しい履き物に替え、山に入っていったそうですが、この「沓掛」が俗世と、聖域(天上界)の境を意味しているそうです。
物見遊山(ものみゆさん)の行楽の旅なら安全祈願もいいでしょうが、もし俗世(現世)と聖域(来世)の境であるなら、これから生死に関わる戦いに向かう武士が、ここで履き物を替えてしまっていいのでしょうか…。
今川氏の「赤鳥紋」の話しは、前回コラムで書きましたが、この「赤鳥紋様」は馬に関わる意味も含んでいます。
もし馬具や履き物を、沓掛城で交換、新調したなら、何か不吉な気もしないではないです。
義元は、どちらの行動をとったのでしょうか…。
義元は、窪地の「沓掛城」で引き返すことなく、運命の窪地である、桶狭間の「田楽ヶ窪(でんがくがくぼ)」に向かうことになります。
* * *
沓掛城は、それほど大きなお城ではありません。
冒頭写真が、その中心部の城跡です。
知立城(ちりゅうじょう)から進軍してきた今川軍は、沓掛城のすぐ近くの「祐福寺(ゆうふくじ)」も含めて、この城付近で、大軍勢を宿泊させました。
1560年5月18日のことです。
義元は、天皇だけが通る勅使門のある、由緒ある「祐福寺」のほうに宿泊したようです。
この祐福寺と、桶狭間にある「長福寺」は、今川家にとって非常に大事なお寺でした。
義元が、最後に、二つの大事なお寺に参拝できたのは、せめてもの救いだったのか…。
それとも、仏様の声を、義元が聞こうとしなかったのか…。
* * *
ここで前回コラムに引き続き、 尾張や三河の歴史にお詳しい、「モリガン」様のアメーバブログの中にある、「沓掛城」や「祐福寺」を紹介するページをご紹介いたします。
モリガン様の祐福寺・沓掛城のページ
◇最後の一線
大高城(おおだかじょう)、鳴海城(なるみじょう)、沓掛城(くつかけじょう)が、すでに今川方に落ちていることは、これまでに書いてきました。
大高城と鳴海城は、織田方の幾つかの砦(とりで)に囲まれ、身動きがとれない状態です。
そんな中、今川軍は何事もなく、すんなりと沓掛城に入城します。
今川軍は、何かおかしい…と思わなかったのでしょうか…。
義元が、何の疑いもなく入城することのほうが、まったくもって不思議です。
文献などの記録が見つかっていないだけなのでしょうか…。
義元は、信長が、沓掛城の周囲に砦(とりで)を築かない理由をどのように考えていたのでしょうか…。
沓掛城の周囲に「隠し砦」があるのかないのかを、入城前に調査すらしていないようにも感じます。
* * *
私は個人的に、信長が行った、この沓掛城周辺の手はずは失敗だったと思っています。
相手が、上杉謙信や武田信玄であったなら、完全に、沓掛城は信長のワナだと感じ、進軍計画を変更したはずです。
特に、この二人は研ぎ澄まされた感覚も持った武将でした。
今川軍に雪斎がいたら、まず見破ったはずです。
私は、信長の計画が、義元に見破られる可能性がもっとも高かった場所が、この沓掛城だったと思っています。
岡崎城にも、知立城にも、大高城にも、鳴海城にも、周囲に大量の織田方の兵を置きながら、この沓掛城の周囲に何も置かなかったとは…。
私は、唯一、この場面だけが、信長に運が味方したと思っています。
私の個人的な推測では、この関門を突破し、義元が桶狭間に入ってくれさえすれば、あとはネズミ一匹、その中から出させない、袋のネズミ状態だったと思っています。
信長は、この戦以降もそうでしたが、「袋のネズミ作戦」が大好きです。
信長は、この戦いを通じて、この場面だけは、義元が「愚将(ぐしょう)」であるほうに、一か八か賭けたのでしょうか…。
私には、よくわかりません。
* * *
戦国時代の戦国武将の戦略とは、現代の推理小説などともよく似ています。
あるはずのものがない…、ないはずのものがある…、瞬時に見抜けない武将は、そこで負けです。
義元率いる今川軍は、危険性を察知し、この沓掛城から引き返していれば、敗北しないですんだであろうと感じます。
ここから始まるであろう、ワナの数々に引っかかってしまうこともなかったでしょう。
義元が命を落とすこともなかったでしょう。
義元は、沓掛城で、まさに「最後の一線」、何かの「くつかけの境」を越えてしまったのだろうと感じます。
現代に暮らす私たちも、何かがいつもと違う…、何かがおかしい…、なぜだか落ち着かない…、に注意をはらっていたいものです。
たえず、そのサインは出ているはずなのですから…。
◇大軍勢を分ける
今川軍は、岡崎から知立方面にすんなり向いましたから、このまま沓掛城に義元本軍が入る可能性が非常に高かったと思います。
武田信玄や上杉謙信であれば、ここから、まさかの方向転換というワナも十分に考えなければいけませんが、信長の相手は雪斎のいない今川軍の義元です。
ただし、戦略的には、今川軍がいずれ大高城方面に、軍団の一部を分けて向かわせる可能性が非常に高いと思います。
鳴海城地域の危険性や、次の戦闘の展開を考えると、まずは大高城に軍勢を向かわせるのだろうと誰もが推測できます。
二つの城の救出を優先するのか、織田氏との戦闘を優先するのかにもよりますが、今回の第一の遠征目的から考えると、城の救出を優先させたものと感じます。
武将によって、判断が分かれるところだとは思います。
織田軍との戦闘や、信長の生命奪取を優先した場合でも、いくらでも策はあったと思います。
* * *
いつどこで、今川軍の一部を大高城に向かわせるのかが、信長には大問題でしたね。
その部隊が誰になるのかも…。
元康は、しっかり準備してくれているのかな~?
◇城主の判断
実は、「桶狭間の戦い」の直前まで、沓掛城主だった近藤景春の動きも、結構 怪しい雰囲気いっぱいでしたが、彼の動きと判断の甘さが、最後にあだとなります。
沓掛城のもともとの城主は近藤景春でした。
鎌倉時代から、この地域をおさめる有力豪族だったようです。
もともと三河国の松平広忠(元康の父)の配下で、「桶狭間の戦い」の前年までは、織田方についていましたが、今川方に急に寝返りました。
ですが、「桶狭間の戦い」に備え、義元は、近藤景春を沓掛城から追い出し、今川家臣の浅井政敏を城主にします。
景春は、近くの別の小さな城主となり、織田方と戦うことになります。
近藤氏の一族や家臣たちからしたら、「殿、何やってんの~」ですよね。
* * *
このお隣の城である「鳴海城」の城主は、山口教継(やまぐち のりつぐ)でした。
山口氏も、かつては織田方でしたが、織田信秀(信長の父)の死去により、織田氏に見切りをつけ、強力な今川氏に寝返った武将です。
この山口氏の調略によって、沓掛城と大高城が、織田方から今川方に寝返ったのです。
大高城の城主が誰だったかはっきりしませんが、今川方への寝返りにより、今川氏の家臣の朝比奈輝勝が入城します。
織田氏との戦いに備え、「鵜殿長照(うどの ながてる)」に交代させます。
もともと今川氏は、伊勢湾の覇権奪取、尾張国との対決という意味で、欲しくて仕方のない大高城でしたが、武力でなかなか奪取できなかった城でした。
今川氏は、鳴海城の山口氏を使って、大高城、沓掛城を、戦うことなく調略で織田氏から奪ったのです。
ようするに、織田信秀という絶対的な織田家当主の死により、後継者の織田信長を非力とみなし、今川方に寝返っていった者たちの城でした。
* * *
織田氏にとっても、今川氏にとっても、こういう武将たちは、その時々で、強い者になびく者たちですので、まず信用しません。
戦国時代ですので、弱小国の城主としては、やむを得ない気もしますが、後に、山口氏は今川義元に、近藤氏は織田信長に、それぞれ滅ぼされます。
戦国時代の弱小武将たちは、安易に強い者になびいているばかりでは、逆に危険に身を置くことにもなってしまいます。
三河国の松平氏も、近藤氏や山口氏と立場が似ていますが、一族の人数や武力が、かなり違います。
なにより、率先して、どちらかになびくという態度をとりません。
どちら側にも、影響力をしっかり残しながら、三河衆という自立心を高く持っていたように思います。
近藤景春は、しっかり三河勢として行動を共にしていれば、滅ぶことはなかったのかもしれませんね。
戦国武将は、時に柔軟に、時に真摯(しんし)に…、思考力と判断力が求められていましたね。
さあ、「桶狭間の戦い」で、松平元康はどのような行動に出るのでしょうか…。
◇蜂須賀小六
信長は、沓掛城だけでは、おそらくこの大軍勢は入れない…、きっと「祐福時(ゆうふくじ)」の二つに分けて宿泊するだろうと、早い段階から思っていたのだろうと思います。
信長は、いずれ豊臣秀吉の配下となる、蜂須賀小六(はちすか ころく)の暗躍集団と、大量のスパイを、ある段階で、祐福寺に向かわせたのだと思います。
というよりも、彼らは、かなり早い段階から、祐福寺で、義元の到着をずっと待っていたのです。
沓掛周辺の村人たちは、とっくに、小六と親しくなっていたようです。
変装した小六が、街道沿いで、義元の行列を見ていたとも記録に残されています。
* * *
当時の小六は、ほぼ暗躍の実行部隊です。
まさに斎藤道三 仕込みの、裏技稼業…。
侵入・調略・破壊工作などの汚れ仕事のエキスパート集団です。
この時期は、歴史の表舞台に、まだあまり登場してきません。
後に、この実行部隊と、竹中半兵衛や黒田官兵衛の知性派の大策略家を、秀吉が抱えるのですから、それは天下をとるはずですね。
* * *
一説には、彼は、今川軍の兵の人数にあまるほどの酒や肴、おそらく「遊女」や「博打(ばくち)打ち」も、祐福寺に、相当に持ち込んだとあります。
前回までのコラムの中で、大軍勢での遠征では、こうした歓楽施設を陣の中に用意すると書きましたが、祐福寺は、そうした場所になったのかもしれませんね。
実は、こうした場所こそ、暗躍の拠点となります。
「おもてなし」をする中で、たくさんの情報を収集したのかもしれません。
義元が宿泊したのは、沓掛城ではなく、豪華な祐福寺のほうです。
兵士は沓掛城、今川軍のお歴々(おれきれき)は祐福寺だったのでしょうか。
ただ、両者の建物は、ほぼ数キロしか離れていない近距離です。
今川軍はここまで、小競り合いに連戦連勝、飲めや歌えの上機嫌で陣をはっていたのかもしれません。
末端の兵士たちなら、朝まで、どんちゃん騒ぎ…。
実際に、桶狭間の義元本陣にも、酒が運び込まれ、なんと戦の最中に、お祝いの酒宴を何度も行っています。
そこに酒があれば、人は飲むもの…。
ダメだ、こりゃ…。
こうした兵の戦意の低下や、軍組織の緊迫感の低下が、いざという時の指揮命令系統の連絡や判断に、混乱を招くということはないのでしょうか…。
朝帰りのお父さん…朝から職場でしっかり仕事できますか?
◇何が何でも、義元に近づけ
大河ドラマでは、兵士の「乱取り(らんどり)」に激怒する義元の姿が描かれていましたね。
義元を演じた片岡愛之助さんも、迫力の激高でした。
「乱取り」とは、戦闘中や戦闘の後に、鎧(よろい)や兜(かぶと)、刀や槍、その他の武具や金品などを、略奪あるいは、拾い集めることをいいます。
兵士たちは、それを金に換えるのです。
戦国時代は、特に禁止行為ではなく、恩賞代わりに推奨していた武将もいます。
この時代ですから、倫理観の欠如と言っていいかどうかはわかりませんが、軍の規律という意味では、低下は免れません。
信長は、この「乱取り」という習慣も、作戦として利用したともいわれています。
「桶狭間の戦い」でも、「乱取り」に見せかけた兵士を敵軍の中に大量に潜りこませ、義元の近くに向かわせたという説もあります。
* * *
私は、前述の蜂須賀小六に与えられた仕事は、今川軍の組織力低下や混乱だけではなかったと思います。
義元本人の居場所を正確に把握しておくことこそが、最重要の任務だったのではと感じています。
「影武者」のニセ義元、ニセの「馬印(武将の居場所を示す旗や物)」、おとりの「輿(こし・義元が乗る乗り物))」などが、ないのかどうかを確かめさせたと思っています。
あとは、鉄砲や火薬をいざという時に使わせないことや、重要な連絡を行う伝令の兵士をしっかり把握しておくことも重要だったでしょう。
おそらく、重要な局面で、真っ先に、今川の伝令兵は暗殺者に消されたはずです。
* * *
後に、この「桶狭間の戦い」で織田軍の「一番手柄」とされた武将「簗田政綱(やなだ まさつな)」のことを書きますが、彼は、信長の父の織田信秀時代からの古参の旗本の家臣です。
実は、「一番手柄」の話しは、後世の創作だという説もあります。
いずれにしても、簗田政綱は、この戦いの後に、沓掛城主となりますから、その貢献度はかなりの評価です。
それに対して、蜂須賀家は、もともと美濃国の斎藤道三の家臣だった家です。
「長良川の戦い」で道三が義龍に敗れ、蜂須賀氏は織田信長の家臣となります。
蜂須賀氏は、織田氏に仕官する以外に選択肢がなかったかもしれません。
実力はありますが、織田家臣団の新参者でした。
それに、簗田氏と蜂須賀氏は、以前に宿敵だった関係ですね。
* * *
この「一番手柄」については、何か政治的にも深い理由が隠れている気がします。
どこの武家の家臣団も、いろいろな問題を抱えていますね。
前回コラムで書きました、信長の「人事評価」の話しも含めて、あらためて書きます。
ともあれ、蜂須賀氏はいずれ強大な武家になります。
私は、「蛇の道は蛇(じゃのみちはヘビ)」ではありませんが、この二人は、いいコンビだったようにも感じます。
かつての敵だろうが、「悪(ワル)」どうしには、何か通じるものがあるのかもしれません。
ここまで素性に差があれば、ライバル関係にもならず、むしろ、わかりあえたのかもしれませんね。
「桶狭間」が生んだ、最強タッグの「悪党コンビ」だったのかもしれません。
いや、ひょっとして、もうひとり加えて、悪党トリオ…?
今川軍からも、ひとり加えれば…悪党カルテット!
◇服部一族ここにあり
「桶狭間の戦い」では、この蜂須賀小六、松平元康、水野信元、「一番手柄」の簗田政綱(やなだ まさつな)、「一番槍?」の服部一忠(はっとり かずただ)など、その行動がよくわからない人物が非常に多くいます。
何か、暗躍の匂いがプンプンします。
おいおい、最終的に義元の首をとる「毛利新介(もうり しんすけ・毛利良勝)」も含めて、彼らについては、戦況の話しの中で書いていきますが、この服部一忠は、本当に織田軍の兵士として、この戦場にいたのでしょうか…?
「一番槍」なのに、目立った「ごほうび」無しとは…何を意味している?
一忠よ、おまえもか…。
まさか、今川義元近くに潜入…?
この一忠は、よほど優秀な兵士だったらしく、信長が本能寺で亡くなった後に(本能寺に一忠がいなかったことも不思議です)、秀吉にも「馬廻衆(うままわりしゅう)」(後で説明します)として抱えられ、城主にまで大出世します。
ですが、その後、人生が大きく転落します。
ただ、子孫は徳川家で活躍します。
そこはそれ、あの服部一族です。
大河ドラマ「麒麟がくる」でも、顔は映っていませんでしたが、一忠を連想させる人物の槍が、しっかり義元をとらえていました。
そして、織田軍の毛利新介のジャンプです!
* * *
私は個人的には、蜂須賀小六や簗田政綱レベルの、後ろ暗い暗躍者が、実は今川軍の中にもいたと思っています。
それも目立つ立場の人物です。
この話しは、あらためて…。
〇〇よ、おまえもか…。
* * *
今回の戦いでは、服部友貞(はっとり ともさだ)率いる「服部党」は、水軍として今川方についています。
これら服部氏の祖は、もちろん伊賀忍者の祖である服部一族です。
服部一族は、古くから織田氏とは敵対関係にあり、独自路線で生き残ってきた一族です。
織田氏にも、今川氏にも、他の多くの有力武家にも、一族の誰かが入り込んでいたのかもしれません。
服部友貞は、「桶狭間の戦い」の直後に、熱田神宮を攻撃しようとしますが、失敗します。
織田と今川の戦いに乗じて、勢力拡大、政敵排除をねらっていたのかもしれません。
あるいは、義元の命も、信長の命も、どさくさの中で、狙ったのかもしれません。
織田氏は、「桶狭間の戦い」以降も、伊賀の服部勢とは何度も戦うことになります。
信長は、甲賀勢を味方にします。
元康は、いずれ伊賀勢も甲賀勢も、両者とも重用したことで知られていますね。
元康は、「服部一族の暗躍力は使える」と、この戦いで実感したのかもしれません。
◇母衣衆(ほろしゅう)・馬廻衆(うままわりしゅう)
この服部一忠といい、毛利新介といい、まさに「一匹オオカミ」のような武士の印象を受けます。
家臣を幾人もかかえるような有名武将たちは、武芸はもちろんですが、政治力や交渉力、判断力、組織運営力など、総合的な能力が求められます。
ですが、軍団の中には、総合力は持ってはいないが、刀や槍での斬り合いにめっぽう強い武士という者たちもいます。
戦場で、弓矢をかいくぐり、大将に限りなく近づいていける特殊能力を持つ武士たちもいるのです。
実戦の戦場では無敵の戦士たちです。
組織にはなかなか馴染まないが、ひとりで小軍隊ほどの強さを持つ、まさに「ランボー」たちですね。
だいたい、服部一忠も、毛利新介も、義元のもとまで、しっかりたどり着いていることさえ、たいへんな能力です。
義元の最期の瞬間、義元のもとまで、幾人がたどり着いていたのでしょうか…。
* * *
前述の毛利新介は、「母衣衆(ほろしゅう)」と呼ばれる、大きな袋状の弓矢防衛用武具を背に装着し、馬に乗って攻撃する特殊部隊の出身です。
ようするに、高度な馬術、剣術を持った、猛烈なスピードで突撃できる兵士です。
組織だって突っ込むのではなく、あくまで単独でも突っ込んでいける武士です。
信長は、こうした「母衣衆」を本格的に組織して、桶狭間に大勢連れていったのだと思います。
どこかで特殊訓練でもしていたのでしょうか…。
雨の中、敵に鉄砲で狙われなければ、まず倒れることのない、無敵の戦士たちです。
この「母衣衆」を含めて、特殊突撃部隊だったのが「馬廻衆(うままわりしゅう)」と呼ばれる集団です。
高度な戦闘能力と、なにより強靭な精神力も持っていたと思います。
今でいえば、親衛隊とか、グリーンベレーとか、MI6(エムアイシックス)とか、007のジェームス・ボンドたちのようなものでしょうか。
信長には、馬廻衆が700名近くいたといわれています。
ひとりで三人倒せる能力があれば、約二千の兵力にも相当しますね。
おそらく三人どころではなかったでしょう。
後に光秀が、信長のいる本能寺に、あれだけの大軍勢で向かったのも、わかる気がしますね。
* * *
信長は、「桶狭間の戦い」に向けて、そのような武士たちを選抜して組織し、桶狭間の戦場でもフル活用したのだと思います。
そうした武士たちは、有名な武将にはなりませんでしたし、あまり長生きできませんでした。
佐々成政や前田利家のような大出世は、異例だと思います。
そういえば、この二人…、「麒麟がくる」の中で、信長と斎藤道三が初めて面会する時に、信長の後ろに二人だけで座っていましたね。
いざとなったら、この二人だけでも、道三の首を取れると言わんばかりでした。
まさに、戦うために生きている…、死ぬことを恐れない…、ひとりで何人もの敵を倒せる…、敵を倒すことに手段を選ばない…、戦国時代だからこそ生まれてきた「無敵の一匹オオカミ」たちを、信長は集めたのだろうと思います。
「時代が、そうした人物たちを生む」とは、こうしたことなのでしょうね…。
* * *
戦場で、こんな武士が敵として、ひとりだけで立っていたとしても、何か恐ろしさを感じますね。
桶狭間の最終局面では、織田軍の、そんな恐れ知らずの鬼のような形相の武士たちが、ものすごい勢いで敵をなぎ倒していったのかもしれませんね。
農民たちをかき集めたような非力な臨時武士集団では、到底、立ち向かえないような気もしてきます。
そんな馬廻衆の毛利新介は、その後、そのまんま真っすぐな名前を名乗りましたね。
「毛利良勝(もうり よしかつ)」。
どんなかたちでも、勝ちゃいいんだよ…勝ちゃ!
翼を羽ばたかせた、ジャンプ見てくれた…!
いまい!
◇沓掛城から大高城へ
さて、いずれにしても、1560年5月18日、スパイだらけの祐福寺と、沓掛城に今川軍が入ります。
大高城には、まだ今川軍の兵は向かっていなかったと思います。
そして、18日の夜にうちに、今川軍の一部である、元康らの三河勢、今川氏の駿河国の朝比奈泰朝の軍、遠江国の井伊直盛の軍らを、大高城に向かわせることになります。
後に戦場で信長が語った言葉…、「敵は夜通しの進軍の上、鷲津砦(わしずとりで)、丸根砦(まるねとりで)で戦っている」とは、この18日の夜の進軍を想像ではなく、事実として認識しています。
確実に今川軍の動向を把握していたのだろうと思います。
* * *
いつ、誰を大高城に向かわせるかは、義元の独断での命令だったのでしょうか…。
軍議で決めたことだったのでしょうか…。
私は、義元が、元康ら三河衆の軍団を単独で移動させたとは、到底考えられません。
義元の信頼の厚い今川武将を必ず同行させたと思います。
ここで、元康ら三河勢が織田方に寝返り、大高城の鵜殿氏を攻撃する可能性を、義元が考えないはずはないと思います。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、まずは元康が大高城に入り、援軍として朝比奈泰朝ら3000名を向かわせたと描かれていました。
元康軍だけが先に大高城に向かったというのでしょうか…?
あわせて5000あまりの兵で、織田軍の「鷲津砦(わしづとりで)」と「丸根砦(まるねとりで)」を攻めるというのです。
朝比奈と井伊を加えたのは、大高城周辺で、織田軍と、元康ら三河勢による戦闘が相当な規模でおきると、義元が考えたからだとも思います。
事態がそうなってから、朝比奈軍を向かわせても遅いと感じます。
大河ドラマでも、そのような主旨の台詞がありました。
ですから私は、元康も、朝比奈泰朝も、この沓掛城から大高城周辺に、ほぼ同じタイミングで向かわせたのではないかと思っています。
個人的には、いずれ、この両軍が、大高城より鳴海城方面に進軍し、他の今川軍と連携し、「中島砦(なかじまとりで)」や「善照寺砦(ぜんしょうじとりで)」の織田軍を攻撃する計画だったと思います。
◇沓掛城を経由しない大高城へのルート
私は、朝比奈泰朝と元康の両軍だけを、義元本軍とは別に、岡崎あたりから大高城に直接向かわせたとは、少し考えにくい気がします。
大河ドラマのとおり、沓掛城から大高城に入ったと思います。
ですが、後の元康の行動を考えると、元康軍だけは、別ルートの可能性がないとも言い切れない気もします。
知立方面から桶狭間を右に見て、そのまま大高城に向かうことのできる最短ルートもあります。
沓掛城よりも、はるか南の地域です。
その途中に、小さな大脇城という、取るに足らないようにも見える、織田方であったと思われる城があったのですが、ここを通過してくれば、元康軍は岡崎城から大高城に直接向かうことができます。
もし織田方の城なら、元康だけでも、たやすく落とせそうな城には思えます。
これは今川本軍も同じです。
日程の関係や、宿泊場所の大きさ等を考えると、このルートは今川本軍が向かう可能性は少ないとは思いますが、元康軍だけなら、このルートはいいかもしれません。
もし織田軍の誰かと密会するには、格好のルートのような気もします。
蜂須賀小六が、すでに沓掛で待っていることから、今川本軍が沓掛城にやって来るのは周知の事実だったのだと思います。
大河ドラマでは、元康も、沓掛城を経由して大高城に入ったと描かれていました。
とはいえ、何でもなさそうな、こういうルート選びにこそ、歴史の真実が隠れているのかもしれませんね。
知立城から、沓掛城を経由して桶狭間に向かうのか…、それとも直接、桶狭間方面に向かうのか…、その意味の違いは、意外と重要なのかもしれませんね?
おそらく、信長が、義元本軍を沓掛城に来させたかったのは間違いないと思います。
◇とにかく兵糧を…
今川軍の元康は、どこかの時点で、こんなことを言ったのかもしれません。
「私が大高城に行きます。
兵糧(食料)を運び込むくらいは自分にもできます。
食料の運び込みなんて仕事を、今川家のお歴々にさせるわけにはいきません。
ただ、織田軍の砦のすぐ近くを通りますから、朝比奈さん、井伊さん、助けてもらえませんか…。」
「何、この若造め、仕方がない、ついて行ってやるか…」
「ありがとうございます。では、前祝いに一杯どうぞ…」
この時の元康は、今の将棋界のヒーローの藤井青年と同じ年齢の満17歳です。
こんな会話があったかどうかはわかりませんが、朝比奈泰朝という、今回の今川の遠征軍の中では、相当に強力と思われる軍団 約二千名と、ここまでの遠征で大活躍の井伊直盛の軍が、元康軍の約二千名とともに、大高城方面に向かうことになります。
もちろん、このあわせて4000名の、元康軍と朝比奈軍は、大高城方面からの信長攻撃軍としての位置づけだったであろうと思います。
この兵数だけでも、信長全軍の兵数に匹敵しますね。
よほどのことがなければ、義元が信長に敗れるとは想像もできません。
「運」や「作戦」だけで、信長に道が開けるとは、到底 思えませんね。
それにしても、朝比奈さん…、ここで元康さんと、せっかくお近づきになったのに、このままずっと近くにいれば、「徳川四天王」のひとりは、朝比奈さんだったのかもしれませんね。
「運」とは、そんなもの…。
* * *
個人的には、大高城の兵糧(食料)不足の話しも、かなり怪しいと思っています。
今川軍中枢での話しなので、こんな重要な極秘情報も入ってきているとは思いますが、本当に、そんな切羽詰まった状況だったのでしょうか。
運び入れた、次の日には戦闘開始です。
何か、元康の虚言のようにも感じます。
本当に中味は米だったの…?
後の江戸幕府なら、史料に加筆しそうな気もしないではないですね。
兵糧、兵糧って、何度も何度も強調して…。
* * *
朝比奈泰朝は、おそらく今川家が、もっとも信頼をおく、強力な家臣だったと思います。
泰朝が裏切る可能性は絶対にないと、義元は思っていたと思います。
大高城の救出…、この段階で速すぎないか?
よく調べもしないで…。
誰かに、ニセ情報でもつかまされていないか…?
それより、今川本軍から4000名あまりの兵が離れてしまって、だいじょうぶか…?
それも、けっこう距離が離れている…。
* * *
いずれにしても、18日の夜には、元康が大高城に兵糧を運び込み、丸根砦攻撃隊(松平元康・石川家成・酒井忠次ら約2000名、プラス井伊直盛の軍)と、鷲津砦攻撃隊(朝比奈泰朝・本多忠勝ら約2000名)が、19日早朝の攻撃開始にむけて着陣します。
それにしても、朝比奈泰朝を除いて、後の徳川軍のバリバリの主役たちの三河勢と遠江勢が、ここに大集結していますね。
天下取りは、まだまだ遥か先のことですが…。
上記マップの青色の城が今川方です。
赤色の砦(とりで)が織田方です。
青色矢印が、おそらく、松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛らが進軍した、おおよそのルートです。
松平元康、朝比奈泰朝、井伊直盛らが大高城方面に向かうルートは、おそらく沓掛城を出発し、南下(マップの下方)し、「桶狭間」を右に見ながら、大高城方面に向かう主要街道ルート(鎌倉街道・東浦街道・大高道)だったと思われます。
大河ドラマでは、鷲津砦と丸根砦の間を通過したと語られていましたが、どのルートを本当に通ったのかは、わかりません。
次回以降のコラムで、細かな戦況、各武将の配置、この地域の地形、信長の作戦などについて書きます。
◇沓掛城から桶狭間へ
ここから、「桶狭間の戦い」の最大の謎の部分について書きます。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、元康と朝比奈の軍が、織田軍の鷲津砦と丸根砦を陥落させた後に、義元自身の本軍が「大高城」に入ると言っていました。
ほんとに…大高城に?
今川軍が敗者となり、桶狭間にいた今川軍の武将の大半が討ち死にし、さらに史料のほとんどが徳川家の影響を受けたこともあり、昔から、今川軍の作戦内容がはっきり判明していません。
今川軍の作戦については諸説あります。
* * *
大河ドラマの内容のように、義元が大高城に向かう説や、義元本軍が別方向から鳴海城方向に進軍する説、鳴海城への援軍部隊が別行動をとる説など、多くの説があり、どれも考えられないこともありません。
義元が大高城に向かう推論以外の説が証明されていない以上、史実や定説が最優先の大河ドラマとしては、義元が、ある時刻に桶狭間にいたという事実と、少なくとも沓掛城から桶狭間までは進軍してきたということ以外を採用するのは、むずかしいかもしれませんね。
今川軍の作戦が不明で、義元の本陣場所も確定できず、今川軍の多くの武将の配置や最期の場所もわからない以上、どこかに向かう途中だったかどうかは別として、桶狭間に確実にいた人物だけしか描けませんね。
松平忠政や三浦義就(みうら よしなり)など、大軍勢であったであろう武将の最期の場所も状況もわかりませんので、ほとんどの時代劇ドラマで、今川軍本軍の有力武将たちは、ほとんど登場しません。
自由にドラマ制作できるのでしたら、もっと面白い推論もたくさんありますが、大河ドラマでは仕方のないところかもしれません。
それでも、戦いのハイライト場面は、迫力のある劇的なシーンです。
戦国時代の武将たちの、数ある最期のシーンの中でも、トップクラスの迫力ですね。
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個人的には、今川軍が尾張国の織田氏打倒を目指すのであれば、沓掛城などに来ないで、最初から、義元が大高城に向かうほうがいいとは思います。
沓掛城には、有力な今川武将を送って、防衛ラインを維持すればいいと思います。
私は、義元は、清洲城などの尾張国の心臓部にいきなり入らずに、まずは、鳴海城や大高城周辺で、信長自身が来ようが来まいが、大規模戦闘をして織田軍を排除し、西三河を制圧しようとしていたのではと思っています。
その後で、状況を見ながら準備して、水軍の到着を待ち、まずは熱田勢とその地域を制圧し、そこから清洲城を取り囲むか、美濃国の斉藤氏と連携するのも手だったと思います。
◇どうして桶狭間…
私は、義元が沓脚城に入った理由は、大高城に義元は向かわずに、別ルートで鳴海城方面に向かう計画だったのではと思っています。
大高城方面隊、別方面隊、鳴海城からの三方向連携による、織田軍への攻撃計画だったのではないかと考えています。
信長からみたら、今川軍がそうした体制になってしまう前に、何としても手をうたないと、敗北確実となってしまいます。
個人的には、祐福寺と長福寺で戦勝祈願してから戦うために、義元が、わざわざ沓掛城にやって来たとは思えません。
戦いより参拝を優先することなど、ないと思いますが…。
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私は、義元は、はじめから沓掛城から桶狭間に入り、本陣を置いて、何か次の行動をしようとしていたのではないかと思っています。
個人的には、桶狭間という地形的に非常に危険性のある場所に入り込むのは、かなりリスクが高いとは思っています
義元は、軍勢の規模でカバーできると感じたのでしょうか…。
鳴海城周辺の織田軍を攻撃するにあたっては、幾つかに分散した今川軍が連動して戦闘できる体制が整ってから、大規模攻撃に入ろうとしたのではとも、私は感じています。
私は、義元が考えていた鳴海城周辺の織田軍への総攻撃の日は、その日の今川本軍の進軍時刻や、大高城にいる元康軍の状況を考えて、討たれた19日の翌日の20日だったのではとも思っています。
今川軍が、無計画にたまたま桶狭間を通過するはずはないと思います。
必ず理由か計画があったはずです。
私は、19日の時点で、義元がはじめから桶狭間に本陣を設置するつもりだったように感じています。
個人的には、桶狭間の義元の本陣が、大高城に向かう途中の小休止の場所だったとは、想像しにくいです。
桶狭間に幾つかの大軍団を残し、さらに人数が減った状態で、義元近くの軍団だけが大高城に向かうには、リスクが高い気がします。
大高城周辺に元康らの三河勢の数が多すぎて、危険性を感じます。
* * *
ただ、桶狭間の長福寺で戦勝祈願でもして、そのまま大高城に向かうつもりでいたら、天候が悪くなり、織田軍が近づいてきたという情報も入り、急きょ、ここに本陣を急ごしらえで設営しなければならない状況に陥ったということも考えられなくはないです。
これなら、今川軍の有力武将たちの準備もあまりできていないはずです。
これが大河ドラマの、ある意味「安心安全放送バージョン」ですね。
信長が、20日の今川軍総攻撃を知っていて、あえて、前日の19日に、そうした突発的な状況を作りだしたと考えられなくもないです。
ということは、義元は、桶狭間の南側からやって来たのではなく、北側から、軍勢が細長くなった状況で桶狭間に入って来たのでしょうか…?
それに、井伊直盛軍が、大高城方面で戦闘を行い、その後に桶狭間にわざわざ戻ってきたのはなぜか…?
* * *
個人的に感じるのは、義元が大高城に向かうのなら、どうして沓掛城を経由したのか…?
沓掛城から大高城に向かうのに、どうして桶狭間を通過したのか…?
桶狭間を通る必要性などまったくないと感じます。
桶狭間の長福寺に参拝するためだけの小休止に、大高道から、わざわざ大軍勢を右折させるのか…?
北からの別ルートで長福寺に来たとしても、この場所に本陣が設置されたのはなぜか…?
大高城に向かうのなら、桶狭間に本陣など置かずに、なぜ、そのまま向かわないのか…?
疑問点だらけです。
* * *
義元本軍は、大高城方面に、元康ら三河勢や朝比奈泰朝を送ったとはいえ、まだまだ相当な数の軍勢です。
大河ドラマの「トリセツ」に従えば、義元本軍が7000、鳴海城の援軍部隊が3000、あわせて1万の兵が、この桶狭間を中心に展開していることになります。
おそらく、松井氏や井伊氏らの遠江国勢は、義元本軍の前線での防衛部隊で、それ以外の大多数の駿河勢が、鳴海城への援軍部隊と義元防衛部隊に分かれ、戦闘準備をしようとしていたのかもしれません。
織田軍への攻撃の主体であったであろう三浦義就らの駿河勢が、どこに布陣したかがはっきりしていないので、義元周辺の防衛力がわかりませんが、それでも、5~6000の数の兵は義元の近くにいたのではないでしょうか…。
ここに2000いるかいないかの織田軍が突っ込むのです。
桶狭間の心臓部まで突撃する部隊だけとなると、700名いるかいないかなのでしょうか…?
よほどのピンポイント攻撃の作戦でもなければ、まず不可能な気がします。
それに、生きて戻れるでしょうか…。
それにしても、義元の桶狭間での布陣には、かなりの甘さも感じます。
家康の「関ヶ原の戦い」を見てもそうですが、各武将の軍団がどのタイミングで持ち場に着陣するかが、いかに大事で、勝敗に直結するかがわかります。
信長は、この戦いで、それぞれのタイミングを、しっかりコントロールしていますね。
雪斎頼みだった義元とは、経験の差が出たのでしょうか…。
* * *
義元が、どうして桶狭間に本陣を置いたのか…、私は、信長が近づいてきたため、急きょ、設営されたのではなく、はじめから設営する作戦であったと思っています。
ただ、この今川軍の作戦計画を、誰が本当に作ったのかが問題だと感じています。
まだコラムに登場してきていない、暗躍者…。
◇予定通り…
そして、どのように考えても、その時刻に、義元が桶狭間に来ることを知っていなければ、信長がその瞬間に、桶狭間に来るはずはありません。
尾張国内か善照寺砦に戻る時刻を考えると、信長が、義元を倒すことができる瞬間は、あの時刻しかなかったはずです。
結果的に、義元は大高城に入っていませんので、大高城に向かおうとしたかどうかはわかりませんが、信長は、義元が桶狭間に来ることだけは絶対に知っていたはずです。
信長が善照寺砦にいたら、たまたま義元が桶狭間にいることがわかったので、攻撃に向かったというのでは、まず討ち取れるはずがありません。
絶対に、信長は、場所もおおよその時刻も知っていたはずです。
後は、予定通りに義元がやってくるのかどうか…。
善照寺砦か中島砦のどちらかで、簗田政綱は信長に言ったのかもしれません。
「殿、今この時、桶狭間に行けば、義元を討ち取れます。ご決断を…」。
決行の最終進言を、政綱が行ったのかもしれませんね…。
◇作戦 vs. 作戦
信長にばかり都合よく、「偶然」という「幸運」が、これほどの数で重なるはずはありません。
あまりにも綿密な計画と、心にくいばかりの人員配置、相当な覚悟の大きさを見せる信長に対して、何かが足りないようにも見える義元の姿勢に感じます。
戦国武将どうしの戦いは、「作戦」対「作戦」です。
どちらの作戦が上なのか…。
作戦の進捗状況を随時確認するだけでなく、検証を同時に行うことも必要だろうと思います。
相手の作戦を考えることは、さらに重要ですね。
戦国時代の戦いでは、相手が、自分の作戦の中に、巧妙に別の作戦を潜り込ませてくると、本当にやっかいです。
見破るのは至難の業です。
自分の作戦が思い通りに進む中で、何か別の危険な要素を見つけるのはたいへんなことです。
戦国時代に、自分がどうやったら勝てるかだけを考えていた武将は、まず勝てなかったと思います。
自分の戦い方を知り、相手の戦い方も知る…、それが勝利への極意だったのかもしれません。
* * *
今回の戦いを見ていると、元康が、義元とも、信長とも違う何かを考えていたのは間違いないと感じます。
元康にとっては、この戦場からの脱出方法とタイミングも、非常に重要なことだったと思います。
「関ヶ原の戦い」では、戦の最初から、脱出のタイミングとそのルート選びだけを考えていた島津勢を、家康は取り逃がしてしまいました。
家康は、島津の「脱出作戦」を見抜けなかったのかもしれません。
家康は、最後は追いかけるのをあきらめます。
これが四百年後に、反撃されるとは…。
戦場には、武将の人数と同じ数の「作戦」がありましたね。
◇最終確認
私は、信長は、義元が大高城方面に兵を送るという確実な情報を、どこかで入手した可能性が高いと思っています。
沓掛城あたりで、その最終確認ができたはずです。
私は、信長は、尾張国の清洲城で、今川軍のそうした行動を見とどけてから、動くように考えていたと思います。
敵に、大将の動きを見破られたり、推測されてしまっては、元も子もありません。
ギリギリまで動いてはいけませんね。
「これは確実に大高城に、元康が入るな…」。
信長からしたら、あとは、手はず通りに、元康が朝比奈を連れて、大高城にやって来てくれるのかどうか…?
「元康が、手はずどおりに動けば、 これで大軍勢を分断できる…」。
信長の狙いは、三河勢を義元から切り離すだけでなく、朝比奈を含め、この大軍勢の「分断」にあったと思います。
「義元は、自身の作戦だと思い込んでいるはず…」。
「元康が大高城に入ったら、オレは動くぞ!」。
信長の作戦の話しは、次回のコラムで…。
◇魔王戦略
私は思います。
「沓掛城」で、義元が引き返さなかったこと…、一度立ち止まって考えを整理しなかったこと…、ここで運命は決したように思います。
何かの一線を、人が越える時、そこには慎重さと、準備と確認が、絶対に必要だと感じます。
時に、根拠のない覚悟や勇気、楽観は、邪魔にもなります。
戦国時代に、身内や家臣の裏切りはないと考えてはいけないのだと思います。
次回のコラムでは、その一線をやすやすと越えさせた、「魔王信長」の巧妙な作戦を考えてみたいと思います。
この戦いの後、戦国時代の信長のすさまじい「魔王戦略」が続きます。
「桶狭間の戦い」は、その本格的な始まりだったのだと思います。
* * *
コラム「麒麟(25)桶狭間は人間の狭間(7)魔王信長」 につづく。
2020.7.11 天乃みそ汁
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