新潟県柏崎市にある上条は「かみじょう」ではなく「じょうじょう」と読みます。そこにあるお城(上条城)は、当然のこととして「じょうじょうじょう」となります。「じょうじょうじょう」はここだけでなく、全国各地でちょいちょい見られる城名ですが、それでも実際に目の当たりにするとちょっぴりにやけてしまいますね。「じょうじょうじょう」。うーん。いい響き(笑)。
上条城は上杉氏の一族である上条氏がいたお城です。城内からは実際に15~16世紀のものを中心とする遺物が相当数見つかっているそうなので、上条氏がここに常駐していたかどうかはともかくとして、何らかの形で上条氏も居住し得る城館がかなり長期間に亘ってここに存在していたことは事実でしょう。上条氏は越後守護を務めた上杉房方の子・清方を祖とする越後上杉氏で、この家からも越後守護の上杉房定や山内上杉氏に養子に出されて関東管領を継いだ上杉顕定などを輩出している名門です。長尾為景(上杉謙信の父)が越後上杉氏を凌駕する力を持ち始めた際、その力を食い止めるべく立ち上がったのも上条氏。享禄の乱とか天文の乱とか言われる上条定憲と長尾為景の戦いは文字通り死闘と言ってよく、最終的に長尾為景は隠居に追い込まれてしまいます。後に上条家には上条政繁が養子に入りますが、この政繁は上杉謙信の養子の一人でもあった人物で、一時は上杉景勝の重臣に収まりますが出奔して幕臣になっています。上条氏の家格は本来であれば上杉景勝(元を正せば長尾景虎(=上杉謙信)の養子に入った上田長尾家の人物)よりずっと上のはずなので、なんとなくどことなく居心地が悪かったのかもしれませんね。
上条城のあった場所には私塾や学校が建設されていた時期があったそうで、遺構面も相当に攪乱されている可能性があるようです。地表面に散乱していた遺物はいくつかの山に分けて積まれており、この遺物を分析した結果が先に記した15~16世紀、ということになります。上条氏が活躍していた期間と概ね一致しますね。越後守護を支えたり、自らの家からも越後守護を出したりしていた上条氏は、越後国府・守護所があった上越市と苗字の地である上条とを行ったり来たりしていたのでしょう。きっと。現地では気が付きませんでしたが、しっかり見れば山麓には堀跡も残るのだそうです。現状からはそれほどの防御性が感じられず、先日ご紹介した安田城(越後毛利氏一族の安田氏のお城)と同じく古めかしい印象を与える上条城ですが、丘全体を取り囲む堀に囲まれた城館であったとするならば、安田城よりまるっと一回り大きい感じになりますね。さすがは上条上杉氏。越後毛利氏よりワンランク上なんだぞ、といったところでしょうか。