岡山県真庭市にある高田城は勝山城ともいい、江戸時代におかれた藩の名も勝山藩でしたので、高田城と勝山城のどちらを前に持ってくるかで悩みました。高田城も勝山城も全国各地に存在する実にありふれた(失礼!)城名なので最後まで決め手がなく、「えいやっ」で美作高田城の表記を用いることにしました。高田城ではない!勝山城が正式名称だ!と仰る方もいらっしゃるかとは思いますが、そこは何卒ご容赦頂ければと。
美作高田城は、真庭市を見下ろす山の広範囲を城塞化している大規模なお城です。戦国時代、ここには三浦氏がいました。鎌倉時代の初め頃から強い勢力を保ってきた三浦一族は、日本史上にも残る数々の政変やら戦いを経ていつも敗れる側に回っているのですが、それでもどこかに血統が残るというしぶとい一族でもあります。鎌倉以来の武家の歴史を生き抜いて、鎌倉時代の苗字の名乗りをそのまま明治まで伝えた「大名家」というと、佐竹氏とか島津氏とか、数えるほどしか存在しないはずで、当時から絶大な人気を誇った畠山氏の名を受け継いだ足利系の畠山氏も大名ではありませんよね。そんな中、三浦氏は曲がりなりにも大名家としての三浦氏を明治まで残した点でもやっぱりしぶとい一族です。

 

 

 


そんな三浦氏の一族である美作三浦氏は、初代とされる三浦貞宗が14世紀頃に真庭に入って高田城を築城したとされています。築城には今川了俊も関わったとされていますが、さてこの時代にどんなお城が建ったのやら。本格的な戦国城郭としての美作高田城は、三浦貞連という人物によって整備されたものが始まりと考えられているようです。その後、三浦氏は尼子・三村・毛利・宇喜多らの大勢力に翻弄されながら何度となく美作高田城を失い、その度に失地回復を遂げること実に3回。一度目は天文13(1544)年、三浦貞久(貞連の孫)が尼子方から、二度目は永禄9(1566)年、三浦貞盛(貞久の弟)が三村方から、三度目は永禄11(1568)年に三浦貞広(貞久の子)が毛利方から奪還しています(その後開城・降伏)。奪還した三浦氏当主も、奪還した相手方も異なるという点も、この地域の混乱度合いを示しているような気がしませんか。ちなみに一度目と二度目の間に美作高田城を奪われた時の当主は三浦貞勝(貞広の兄)でした。この貞勝の妻が後に宇喜多直家の妻となり、一子を設けます。この子こそ、後の宇喜多秀家。秀家の母となった女性(円融院)には貞勝との間にも一子(桃寿丸)があり、この桃寿丸には三浦氏の家督継承権があったはずなのですが、どういうわけか20歳前後まで元服できず、天正の大地震で倒壊した建物の下敷きになって亡くなったそうです。かくして美作三浦氏は壮絶なる奪還戦を繰り広げながら滅びていきました。
美作高田城はその後、宇喜多家、小早川家(いすれも岡山)、森家(津山)の所領となり、それぞれ城代がおかれていましたが、森氏改易の後に天領を経て美作勝山藩が開かれることとなりました。三河西尾藩から2万3千石をもって移ってきたのが三浦明次。なんとなんと、三浦氏がまさしく身を削って奪還を繰り返したそのお城が、奇跡のどんでん返しで三浦氏のものとなりました。先に記した、「大名として三浦を名乗った唯一の三浦氏」がこの系統です。いやいやいや、実にしぶとい。三浦氏、恐るべし。

 


現在、美作高田城の三の丸に残されている石垣や二の丸櫓台の石垣は、大名である三浦氏の時代のものと推測できます。大名・三浦氏は三の丸に居住し、二の丸の櫓台までは整備したとされていますが、どうやら本丸までは手をつけなかったようです。その本丸には虎口に破城の跡が見受けられ、元和一国一条令か島原の乱か、いずれかの機会での破城と推測できるそうです。本丸部分には積極的に石垣が用いられた形跡がなく、いわゆる織豊系への改造がなされたお城ではなかったようですね。だからといって美作三浦氏が現在残る本丸周辺の遺構のすべてを構築したというのは無理がありそうですが、美作三浦氏がこのお城と真庭の領地に執拗なまでに拘っていることと併せてみれば、このお城に三浦氏の執念を感じても決して間違ってはいないのだと思います。そういう目線で見てみると、尾根筋に設けられた堀切などには他のお城よりも悲壮感が漂っているような気がします。訪ねた季節が悪くて草が生い茂り、二の丸櫓台も三の丸石垣も草の中でしたけれども、お城全体にまとわりつく執念みたいなものを感じられただけでも、このお城を訪ねた甲斐はあったように思いました。