トコトン「キライ」をしてみよう。
なぜなら、すごく楽しいから。
すごく、らく。
嫌ったり、何かのせいにしたり。
それを簡単にサラッとしてみる。
すごく、楽しいと思った。
なんて心が楽なんだろうって思った。
そんな新しい自分の感情を知って面白かった。
たまたまコバさんの過去のブログを読んでいて、『どうせ愛されてる。を1日500回言う。』って言うのがあって。
私は『どうせ愛されてる。』が言えなかったんだけど、今回、試してみたら、いとも簡単に言えた。
それで、それをブツブツ何度も言いながら、下の子の保育園のお迎えに向かった。
私は預かりに対してすごく不満を持っていて、イライラを常に募らせていた。
でも、この時に浮かんだ感情が、
『預かってくれることに愛を感じる。』だった。
〝預かりのプロなんだから、毎月の費用を払ってるんだから、仕事のとき以外も預かれ〟って思っていた。
(保育する側で働いてるので、その言い分も分かるし、費用も助成を受けてることも分かっている。)
気がついていたけど、どこかで預ける事を責められてる気がしてたり、否定されてる気がしたり。
でも『どうせ愛されてる。』をつぶやきながら向かうと、時々、軽く釘をさすことで私の立場を守ってくれてることや、何だかんだと許してくれて預かってくれてることがジンワリと感じた。
ちゃんとしてなくても何だかんだと許されてる、どうせ愛されてるんだ、と感じた。
後、仕事終わりの後、お迎えまでの少しの時間にお昼ご飯を食べにお店に入った。カウンターだけのお店。
そこで、数名の女性と店側の男性が会話を弾ませていた。
そして、後から入ってきた女性に先にいた女性が、この間はお世話になりましたと挨拶をした。
そして、その後の会話の内容が肉など食べ物にまつわる話だったため、後から入ってきた女性が「私、食事の時に食材の話しが苦手なんです。」「想像力が豊か過ぎて、食事がまずくなるんです。」
とお店側の女性に伝えて、それをお店側の男性にお店の方が伝えた。お客さんが嫌がってますよと。
その会話は直ぐには終わらなかった。
その後、クレームを付けた女性とお店の女性は、お店でのマナーなどについて、お互いの思いを話し続けた。
食材の話しをしていた女性たちは、更に声をあげて盛り上がっていた。
クレームを付けた女性が帰る時に、初めに挨拶をした人がまた「ありがとうございました!またよろしくお願いします。」と声をかけた。
私はというと。
同じく、食材の会話は美味しい食事をまずくするな、と思った。(これは1人の時。みんなで食べてるときは気にしない。1人の時はOFFなので、少し自分の気持ちに敏感になってるから、結構、細かいことに神経質になってる。しかし、みんなといるとそこの部分が逆にOFFになってあまり不快は感じなくなる。)
そして、人の店で自分の活動の挨拶をするのが嫌だなと思った。
したいなら、その方が外に出た時にでもした方がいい、本当、耳障りだった。(選挙活動ね、清き一票をありがとうございます。って、挨拶されてた人はそんなつもりなく、「いいえ、私は私の判断でしました。誰かにお願いされてしたわけではありません。」って言ってた。ステキ。)
今までだと、クレームをつけた女性に神経質だな、とか思ってた。
また、仕事の挨拶を人の店でする人こともとくにそこまで気にしなった。
それより、じゃ自分はどうなんだ?と思って嫌なことは嫌と思えなかった。だって、自分だって相手が嫌な会話を食事中にしてしまうかもしれない。
人の場所で自分の仕事のアピールをしてしまうかもしれない、自分がしてしまうかもしれないことを嫌な事と位置付けれなかった。
でも、自分の好き・嫌いってあっていいよね、できるかできないかじゃなくて、それは私すきじゃないってあっていいよね。って思った。
なんか、そんなことを思うと、自分の中のキライって面白いなって思った。
自分の中はもっと自由でいいのだ。
きっともっと知らない私がこの中にいる。
もっと色々なものをみて、何を感じるか知りたいと思った。
私は何にこだわるんだろ、私は何が気になるんだろ。
きっと、それは好きなことでもあるのだなと思った。
私は何気にマナーやおもてなしが好きなのかもしれない。
今は真逆に存在してるけど。
私の中は自由だ。
人のことなんて本当にどうでもよく感じた。
それよりも、私は今、自分のキライにとても興味がある。
人からの批判や大きなお世話やジャッジや、もうそれを気にすることもないし、恐らく気にならないだろ。
それよりも、私が何を感じるかだけが大事なのだ。
相手がどうとか関係ない。
それをわたしが好きか嫌いか。
そうすると、相手の行動にイライラすることもない。
なぜなら、イライラする必要ないから。
相手の価値観と私の価値観は別に位置するのだ。
相手と私を混ぜる必要がない。
相手から嫌なことをされても、それを私は入れる必要はない、ただ嫌えばいいのだ。
それだけのこと。
自分の中のキライを大事にすると、相手のことで一喜一憂しなくなった。
相手そのものを嫌うというより、私の中で何がキライかに気がつく、そんな感じ。
何かのせいにするのも、私が自分の責任を放棄するというより、何に私が反応してるのか、と気がつくみたいな感じ。
それを分かりやすく、何かのせいにしたり嫌ったりがとても簡単でやりやすいというだけ。
そして、私の感情はとても自由であっていいのだ、私の中は未知の世界なんだと気がついた。
そして、こんなに自分勝手で自己中でドロドロの私もどうせ愛されてるのだ。