こんにちは!
れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。
今回は、特別ガチャで当選確率が3倍になっている、
「山県昌景(やまがた・まさかげ)」をご紹介いたします!
現在、ゲームでは、
特別ガチャ「二人の直虎」が開催していまして、、、
「井伊直虎」や「山県昌景」が出る確率が上がっています。
最近、「井伊直虎は男だった」という説が、
話題になっていることもあって、
それを基にした異説「二人の直虎」のイベントも開催しております。
この男直虎が欲しくてガチャを回したんですが、
なかなか出ずにやっとこさ出たのが、SSRの山県昌景でした。
さて、その昌景は、武田信玄の重臣であり、
「武田四天王」の1人に数えられる歴戦の名将です。
なぜ「二人の直虎」という井伊家に関するガチャなのに、
山県昌景が関係しているかというと、
1572年の武田軍の駿河・遠江(静岡県)への侵攻で、
井伊谷城は山県昌景の軍勢の手に下ったためだと思われます。
昌景は元々は飯富(おぶ)家の出身で、
武田信玄の小姓となり、初陣から武功を挙げていった人物です。
信玄の命令で、断絶していた名家の山県家を継ぎ、
信玄の側近として、書状に名を多く残す他、
家臣や諸大名、豪族などを信玄に繋ぐ交渉役・取次役を務め、
緒戦でも「武田二十四将」の1人に名を連ねる活躍を重ねました。
そして、1572年に武田信玄は、
「西上作戦」と呼ばれる大行軍を決行し、
領地の甲斐(山梨県)・信濃(長野県)から、
駿河(静岡県西部)や三河(愛知県東部)に侵攻を始めました。
その時、一軍の将となったのが昌景でした。
昌景は諸城を落としていき、
井伊谷城を手中に収めたのも、この時だと言われています。
そして、この直後に、
徳川家康の唯一の敗戦と言われる、
「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」が起きており、
昌景はこの戦にも加わっており、
武田勝頼のピンチを救ったとも言われています。
しかし、信玄は、
行軍中の翌1573年の4月12日に病死し、
行軍は中止となり、武田軍は領国に撤退していきました。
その2年後、
武田家の後継者となった武田勝頼と、
徳川家康と織田信長は決戦をするに至ります。
有名な「長篠の戦い」です。
昌景はこの決戦にも参戦し、
一番に徳川軍に攻撃を仕掛けたといいますが、
奮戦空しく、昌景は討ち死にを遂げました。
昌景は身長が小さかったものの、
甲冑を赤で統一した「赤備え」を率いて戦い、
諸将から恐れられたと言われています。
その赤備えは、武田家滅亡後に、
直虎の後を継いだ井伊直政が引き継ぎ、
井伊家に代々継承されていった他、
「大坂の陣」の際に、昌景とおなじく武田家臣だった、
真田幸村によって受け継がれています。
ちなみに、御子孫や一族の方は、
上杉家や徳川家、越前松平家に仕えたり、
甲斐などに帰農したりして、現在まで続いています。
実は、その御子孫の1人が
山梨県山梨市で温泉旅館を経営しています。
その名も「山県館(やまがたかん)」!
隠し湯などを多く残した信玄が整備を進めた川浦温泉にある、
安政3年(1856年)に、
13代当主の山県信徳さんによって創業された歴史ある温泉旅館です。
私はまだ行ったことがないのですが、
もしチャンスがあれば是非行ってみたいと思っております。
皆さんも是非足を運んでみてくださいませ~。
よってくだんのごとし。
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