れきしクン・その百四十三【山県昌景】☆「二人の直虎」ガチャ開催! | しろくろジョーカー公式ブログ

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こんにちは!

 

 

れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。

 

 

今回は、特別ガチャで当選確率が3倍になっている、

 

「山県昌景(やまがた・まさかげ)」をご紹介いたします!

 

 

現在、ゲームでは、

 

特別ガチャ「二人の直虎」が開催していまして、、、

 

 

「井伊直虎」や「山県昌景」が出る確率が上がっています。

 

 

最近、「井伊直虎は男だった」という説が、

 

話題になっていることもあって、

 

それを基にした異説「二人の直虎」のイベントも開催しております。

 

 

この男直虎が欲しくてガチャを回したんですが、

 

なかなか出ずにやっとこさ出たのが、SSRの山県昌景でした。

 

 

さて、その昌景は、武田信玄の重臣であり、

 

「武田四天王」の1人に数えられる歴戦の名将です。

 

 

なぜ「二人の直虎」という井伊家に関するガチャなのに、

 

山県昌景が関係しているかというと、

 

1572年の武田軍の駿河・遠江(静岡県)への侵攻で、

 

井伊谷城は山県昌景の軍勢の手に下ったためだと思われます。

 

 

昌景は元々は飯富(おぶ)家の出身で、

 

武田信玄の小姓となり、初陣から武功を挙げていった人物です。

 

 

信玄の命令で、断絶していた名家の山県家を継ぎ、

 

信玄の側近として、書状に名を多く残す他、

 

家臣や諸大名、豪族などを信玄に繋ぐ交渉役・取次役を務め、

 

緒戦でも「武田二十四将」の1人に名を連ねる活躍を重ねました。

 

 

そして、1572年に武田信玄は、

 

「西上作戦」と呼ばれる大行軍を決行し、

 

領地の甲斐(山梨県)・信濃(長野県)から、

 

駿河(静岡県西部)や三河(愛知県東部)に侵攻を始めました。

 

 

その時、一軍の将となったのが昌景でした。

 

 

昌景は諸城を落としていき、

 

井伊谷城を手中に収めたのも、この時だと言われています。

 

 

そして、この直後に、

 

徳川家康の唯一の敗戦と言われる、

 

「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」が起きており、

 

昌景はこの戦にも加わっており、

 

武田勝頼のピンチを救ったとも言われています。

 

 

しかし、信玄は、

 

行軍中の翌1573年の4月12日に病死し、

 

行軍は中止となり、武田軍は領国に撤退していきました。

 

 

その2年後、

 

武田家の後継者となった武田勝頼と、

 

徳川家康と織田信長は決戦をするに至ります。

 

 

有名な「長篠の戦い」です。

 

 

昌景はこの決戦にも参戦し、

 

一番に徳川軍に攻撃を仕掛けたといいますが、

 

奮戦空しく、昌景は討ち死にを遂げました。

 

 

昌景は身長が小さかったものの、

 

甲冑を赤で統一した「赤備え」を率いて戦い、

 

諸将から恐れられたと言われています。

 

 

その赤備えは、武田家滅亡後に、

 

直虎の後を継いだ井伊直政が引き継ぎ、

 

井伊家に代々継承されていった他、

 

「大坂の陣」の際に、昌景とおなじく武田家臣だった、

 

真田幸村によって受け継がれています。

 

 

ちなみに、御子孫や一族の方は、

 

上杉家や徳川家、越前松平家に仕えたり、

 

甲斐などに帰農したりして、現在まで続いています。

 

 

実は、その御子孫の1人が

 

山梨県山梨市で温泉旅館を経営しています。

 

 

その名も「山県館(やまがたかん)」!

 

http://www.yamagatakan.com/

 

 

隠し湯などを多く残した信玄が整備を進めた川浦温泉にある、

 

安政3年(1856年)に、

 

13代当主の山県信徳さんによって創業された歴史ある温泉旅館です。

 

 

私はまだ行ったことがないのですが、

 

もしチャンスがあれば是非行ってみたいと思っております。

 

 

皆さんも是非足を運んでみてくださいませ~。

 

 

 

よってくだんのごとし。

 

 

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