イケメンと美人は国の宝である | 白クマの妻は今

白クマの妻は今

外国の白クマを夫にしたら予想外のイケメン子グマが2匹も出てきた。どぉする?

そう言えば今月は六白金星の今年一番のドツボ月だったなあ。

 

今月は天秤座の運勢が良いので自分で自分を騙していた

ような気がするが、そうよ、今月は六白が最悪なのよ。

 

石橋を隅々まで叩きまくって慎重に

すべてを進めないとダメなのよ。

 

そんでもって人間関係では謙虚に3歩下がらないとダメなのよ。

 

脳内メモメモ・・・。

 

などと殊勝なことを書き始めておきながら、

先日、友人達とのチャットで出てきた話題で興奮して

しまった持論で毒を吐いてしまおうと思う。

 

(注:意見には個人差があります。

コピーライト:生さだ)

 

この話題の元となったのは、アメリカのいわゆるミスコン

というやつで、アラバマ州のミスに選ばれた女性が、

その容姿からネットで誹謗中傷を浴び叩かれまくったが、

堂々と反論して、更なるアンチと共に

サポーターも得ている、という話題である。

 

この女性の姿は日本のネットニュースにもなっていたので

ここにリンクを貼っておく。

 
端的に言って、この女性は日本の基準から言っても

アメリカの基準から言っても病的な肥満であり、

顔は個人の趣味もあるだろうが、整っているとは言い難い、

美人とは間違っても評せない容姿である。

 

多様性多様性と声高に連呼される時代となり、

この方は自身を「プラスサイズでもミスコンのタイトル保持者に

なるべきである」と評している。

 

おそらく心根の立派な、行動力があって

頭も良い方なのだろうと私も推測する。

 

しかし、それとこれとは話が違う。

 

まず、プラスサイズという言葉が私は嫌いだ。

 

不健康極まりない、医学的に言って病的な肥満を

讃美するのは危険だと思っている。

 

個性の範囲内の基準体重超過と、病的な肥満は別物である。

 

また、ミスコンはいつから内面だけを評価する舞台に

変わったのだろうか?

 

醜悪な容姿を「これもまた美しい」として、

歪曲した価値観を無理やりに発信することが正であると

いうことになったとしたら、かなり危ないことだと私は思う。

 

そして私はちょっと待て、と、落ち着け、と、言いたい。

 

不健康な病的肥満者の承認欲求を認めることには

肯定的でありたいと思う。

彼らもみな平等に人間であり、社会に貢献できることに

疑いはないし、人として素敵な方々もたくさんいるだろう。

 

しかし、それと美醜問題は完全に別である。

 

私は人生の半分以上を何が美しくて何が美しくないのかを

言い当てて方向修正することで報酬を得て生きてきたのだ。

 

まず、シンプルな事実だが、世の中の大多数、過半数の人類は

視覚的に整ったものに心地よいという感情を持つのだ。

 

それは何も人間の顔や体に限ったことではない。

 

色や形やバランスにおいて、整っていると反応が良く、

理解されやすく、意思の疎通がとても早く間違いが少ない。

もうこれは科学的にも文化的にも証明された事実である。

 

そうでなければ全世界のグラフィック・デザイナーと

アート・ディレクターは用無しになる。

 

そして、人の容姿も含めて、美しいものを否定したら、

地球上のすべての美術館は中国の文化大革命のごとく

破壊せねばならなくなってしまう。

 

美しいものが正義だとは言っていないが、

美しいものには価値がある。

 

私は個人的に、イケメンと美人は国の宝だと思っている。

彼らは存在しているだけで価値がある。

 

それは美しい絵画や彫刻や建築物や宝石と同じカテゴリーに

属する存在であると思うからだ。

 

なにもそこまで言わなくても、というご意見の方には

逆に伺いたい。

 

あなたは自分の家の中や部屋の中が古く朽ち果てていたり、

めちゃくちゃに荒れていたり、おどろおどろしく汚れていても

精神衛生を正常に保てると思うだろうか?

 

街の中や公共の場が恐ろしく汚くても気分を害されることは

ないという自信があるだろうか?

 

私はない。

 

願わくば清潔で明るくて美しい色と形に満ちた世界で

生活したいと思う。

 

きれいな花を愛でるがごとく、

見事な景観を賞賛するがごとく、

イケメンと美人の価値を認めたい。

 

その花は毒があるかもしれず、

その景色の裏には腐敗政治がからんでいて、

そのイケメンは性犯罪者で、

その美人は低脳な厄介者であったとしても、

私にとってそれらが美しいという事実は変わらない。

 

それは絵画の最高傑作を生み出した画家が社会不適合者で

あったとしても、その絵画の価値が変わらないのと同じことだ。

 

ゆえに私は今どきのミスコンというものの

存在意義そのものを問い直したい。

 

それは視覚的な美を競う場であるのか、

それとも内面の価値を競うものなのか、

もしも両方が揃っているのでない場合は

どちらに重きをおくものなのか。

 

私はその職業上、視覚的または聴覚的な美の価値を

全面的かつ恒久的に認めて生きていきたい。

そうすることで精神の健康を保てると信じている。

 

しかしそれはもちろん、内面的な美の価値を

損じるものではない。

どちらにも同じだけの価値を感じている。

 

ただ、内面と外面のどちらかを否定することになるような

考え方には賛同しかねると言い切る。