下記論稿に基づいて、韓伝の国名比定の続きです。
国名でみる三韓の地域性について
この区分の国は下記のようになります。

爰襄
牟水
桑外
小石索
大石索
優休牟涿
臣濆沽
伯濟


この区分では伯濟が定点になります。
ほぼ定説は現在のソウル、風収土城です。

優休牟涿に関しては、千寛宇説の江原道春川市をもとに、下記のような記事を書いたことがあります。
優休牟琢國を比定する
臣濆沽については下記の論稿で議論しました。
二郡遂滅韓・戦後処理と馬韓北部の情勢
ここでは臣濆沽を三国史記の波害平史、現在の京畿道坡州市坡平面としました。

これら三国はいずれも京畿道の北半から江原道の北半にあります。
馬韓7分の2区分の忠清南道、北道とは離れています。

一方小石索大石索には、新増東国輿地勝覧の南陽都護府古跡条には、府の西に石山城があるとの記述があり、これをあてる説があります。
三国史記蓋鹵王十八年の北魏への上表文に、臣西界小石山北國海中見屍十餘とあり、石山が百済時代からの地名で、漢城百済の西にあったことが判ります。
南陽都護府の京畿道華城市南陽邑をあてる説が有力です。
また牟水を三国史記の買忽一云水城をあてる説があり、大小の石索のようにこの地域では明らかに字義による国名があることから、これも有力です。

すると牟水や大小の石索は、京畿道の南半の西側にあることになり、国名の順からしてこの区分もA1を断点とする標準パターンであると思われます。

A群
爰襄
優休牟涿
臣濆沽
伯濟


B群
牟水
桑外
小石索
大石索


桑外に対しては、三国史記の松村活達、現在の京畿道平沢郡振威面を充てたいと思います。
松村活達は一名釜山とありますから、最後の達は山を表す地名接尾と考えられます。
一字目の松は、釜/pu/につながることを考えると、高句麗語の松/pusa/と訓じたものでしょう。
すると松村活/pusonkat/と、外を上古音系で評価して、桑外/sangat/とに通ずるものがあります。

爰襄は不明として下記の比定を行いました。