三国志魏書東夷伝(以下東夷伝)韓条にみえる、優休牟琢國について考察する。
東夷伝韓条馬韓の国名の比定は、これまで李 丙燾氏、千 寛宇氏、朴 淳發氏等の韓国人学者によって行われてきた。

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優休牟琢國については三氏の比定地はそれぞれ下記のようになっている。

李 丙燾説:京畿道富川市
千 寛宇説:江原道春川市
朴 淳發説:仁川広域市桂陽区


李 丙燾氏は漢字の反切を重視し、千 寛宇氏と朴 淳發氏は馬韓国名のそれぞれ中古音上古音での漢字の発音を重視して、三国史記の地名と比較している。
実際のところ三国史記の地名は音訓混ざって、比定は容易ではない。
直接地名に当たるのではなく、地名の特徴によって絞り込みはできないだろうか。

優休牟琢國に他の国名と比較して共通部分など抽出できる特徴はない。
しかし唯一語頭に共通点のある国名はみつかる。
それは東夷伝韓条の辰韓優由國(優中とも)である。
果たして大きく離れたこの馬韓と辰韓の二国に、何かの共通点はあるだろうか。

語頭の優に関して、これが固有語の音訳であったとすると、同様に優を使用した音訳を行ったケースが、他に東夷伝にないだろうか。
すると次の例がみつかるのである。

東夷伝高句麗条官名:優台(丞)
東夷伝高句麗条人名:優居


これらはいづれも高句麗語の音訳でしかも優が語頭にある。
果たして高句麗語と優休牟琢國、優由國に関わりはあるだろうか。

高句麗は半島よりも北にあり、二つの国は漢の郡を挟んで南にある。
しかし東夷伝を見ると、夫餘と高句麗、東沃租、東濊の言語はだいたい同じとする。
二国は濊系の言語の国である可能性は無いだろうか。

そこで後世の三国史記地理志に優を語頭に見る地名を探してみるが、発見できない。
優が三国史記でどのような文字に対応するかを確認してみる。
三国史記高句麗本紀、太祖大王には投降した曷思王の孫、都頭を于台にするという記述があるが、この于台が優台(丞)であろう。
ここから三国史記では優が于に対応していると思われる。
そこでこんどは于で始まる地名を三国史記地理志より探してみると下記があげられる。

百済地名
于召渚県(全北益山郡鳳東面)

高句麗地名
于次呑忽(黄海瑞興郡瑞興面)
于冬於忽(黄海黄州郡黄州邑)
于烏県(江原平昌郡平昌面)
于珍也郡(慶北蔚珍郡蔚珍面)
于尸郡(慶北盈徳郡寧海面)

新羅地名
于火縣(蔚山蔚州郡熊村面)


以上を見る限りやはり高句麗地名が多いことが分かり、地域的には北朝鮮南部から朝鮮半島南部の日本海側が目立つ。
三国史記地理志の地名は、古代の新羅の領域に限定されていることを考えると、おおよそ濊貊にゆかりの地を中心としている。
上記地名には慶北の日本海側が含まれているが、この地域は新羅時代の溟州で、濊貊の地であったとされているのである。(賈耽郡國志)
実際慶尚北道迎日郡新光面から、晉率善穢佰長の銅印が出土している。
迎日より北の日本海沿岸地域は穢の地だったのである。

さてここで大まかな優休牟琢國と優由國の位置を考えてみよう。
優休牟琢國は馬韓の国名リストの6番目にあたり、馬韓の国名が概ね北から南に並んでいることを考えると、馬韓の北部にある。
ソウル周辺と思われる伯濟國が8番目にあることを考えると、大まかに漢江にかかる地域と思ってよいであろう。
伯濟國がのちの百済であるとすると、出自を夫餘とする伝説がある。
また考古学的にも、漢江流域の内陸部には、濊貊系の文化の影響があるという。
優由國については、釜山と想定される涜盧國、慶州と想定される斯盧に続いていて、自然にその方向の延長を考えれば、新羅時代の溟州方面と考えてよいであろう。

つまり高句麗には東夷伝の優、三国史記の于を語当にもつ語が実際に多かった可能性があり、しかも
優を国名の頭にもつ優休牟琢國と優由國の大まかな位置は、韓と濊の接する位置にあったことが分かるのである。
ここに高句麗語と
濊語が比較的近似するという東夷伝の記述を考慮すると、優休牟琢國と優由國はともに濊貊系の国であった可能性が出てくるのである。
おそらく
濊の国でありながら韓地に隣接し、韓の国々との交流が深くともに朝貢したため、韓の国であるとみなされたのであろう。
われわれの目にする多くの古代史の本では、東
濊と馬韓を図示する際、両者が接するように書かれている。
実際臨津江や、北漢江を遡れば、自然に東
濊に至る。
漢江流域に
濊貊系の文化の影響がみられるのも、このような地理的関係によると思われる。
ところが東夷伝には、
東濊と馬韓が接するとは書かれていないのである。
東夷伝を作成した中国人は、おそらく
東濊と馬韓の地理的関係をあまり明瞭に理解しておらず、その境界はあいまいであったのであろう。

 優由國については、末松保和氏の任那興亡史に載る比定地は、于尸郡(慶北盈徳郡寧海面)で上記考察と整合的である。
由と尸の比較になるが、由の子音はy、尸の子音は三国史記の場合は非常に特殊でlと思われる。
lがyになる変化は自然であるが、逆は普通ではない。
ただ地名の場合にはその地名を担う人々の入れ替わりがあることがあり、より古い発音体系の人々にとって代わられることで、発音の先祖がえりが起こることがある。

一方優休牟琢國については、冒頭で挙げた三氏の比定があるが、濊貊系とするならば、千 寛宇氏の春川説が有力になる。
ここは古来貊の国とされたところである。(賈耽郡國志)
そこで千 寛宇氏の比定を詳しく見てみよう。
三国史記地理志に下記の記載がある。

牛首州:首一作頭。一云首次若。一云烏根乃

これをみると、牛首ないし牛頭は高句麗語で首次若または烏根乃と言ったようである。
烏根乃と優休牟琢を比較してみよう。
語頭の優は三国史記の于であるが、于と烏はいづれも喉音で、母音の響きも比較的近い。
休は曉母、根は見母であるが、どうも朝鮮語ではこの二つの子音は混同されるようである。
休は優や牟と同じ母音をもち、これが于に対応するなら日本語の母音ではウに近く読んでもよいであろう。
根の母音は日本語の母音ではオに近い。
あえて日本語に引きつけて読んでみる。

烏根乃(okonno)
優休牟(ukumu)


これだけではまだ何とも言えない。

しかし興味深い事実がある。
三国史記地理志で、牛首州に対応する高句麗語がかなり違った二通りあることである。
首次若と烏根乃ではなんとしても発音はかぶらない。
これはおそらく異なる単語があてられたのであろう。

ここでこの地域の歴史を考えてみよう、春川は考古学的に古くから濊貊系文化があった。
そこへおそらく後の時代に高句麗がやってきた。
高句麗と東濊の言語は、東夷伝ではほぼ同じとされているが、方言差はあったであろう。
 マイマイ・カタツムリのように同じものを指しても方言により異なる単語が使われることがある。
首次若と烏根乃はどちらかが高句麗方言で、どちらかがそれより古い濊貊方言なのではないだろうか。
烏根乃がもし東夷伝の優休牟に関連付けられるのであれば、烏根乃はもともとの濊貊方言からきているのではないだろうか。

ここでもういちど烏根乃(okonno)と優休牟(ukumu)を比較してみよう。
高句麗語では乃(no)で土地をあらわすとされる。
烏根乃(okonno)はこの高句麗語の乃(no)が接尾したものではないだろうか。
優休牟(ukumu)+乃(no)から母音の脱落と母音の逆行同化によって生じたものが烏根乃(okonno)ではないだろうか。

ukumu + no -> ukumno -> okonno

さてここでもう一度三国史記地理志にもどろう。
優休牟(ukumu)が牛首ないし牛頭を表したのであるとすると何が言えるだろうか。
多くの学者の指摘するように、日本語と高句麗語には何らかの対応関係がある。
上代日本語では、頭などの膨らんだもののことを、kubuまたはkobuと言った。
優休牟(ukumu)が牛の頭で有れば、休牟(kumu)は上代日本語の頭(kubuまたはkobu)に対応するのではないか。
それでは優(u)は牛を表したのだろうか。
ここで烏根乃同様に烏を語頭にもつ地名を三国史記地理志高句麗地名から集めてきてみよう。

猪足県:一云烏斯廻
猪闌峴県:一云烏生波衣。一云猪守
猪䢘穴県:一云烏斯押
遼東城州:本烏列忽。
兎山郡:本高句麗烏斯含達県
津臨城県:一云烏阿忽


六例中三例が猪、一例が兎に関連する。
優(u)はもしかしたら、動物に関連する語ではないだろうか。
優休牟(ukumu)は獣の首という程の意味ではなかろうか。

ここでこれまで議論の対象にしてこなかった、優休牟琢の末尾の琢(tak)について考えてみよう。
高句麗人が地名要素の乃(no)を接尾させたとすると、もともとの琢(tak)もまた何らかの地名的な接尾ではないだろうか。
ここで春川には牛頭山という著名な地名があることを思い起こすのである。
琢(tak)は山を表したのではないだろうか。
すなはち優休牟琢(ukumutak)とは獣頭山ではないだろうか。
山は高句麗語では達(tal)となる。
もしもこれがもとの半島中部の濊貊方言で琢(tak)であれば、高句麗語よりも日本語の岳(take)に近い。
優休牟琢とは目にも耳にもなじみにくい地名のようではあるが、実はウ(シ)コブタケのように読めば、極めて日本語的な地名であったことになる。
すなはち半島中部にはもともと高句麗よりもさらに日本語に近い言語を話す人々がいたのではないだろうか。

高句麗語が朝鮮語よりも日本語に近いことが分かった時、なぜ二つの言語の分布が南北に分かれたのかの疑問が生まれた。
言語の世界ではこのように近接した言語が二つに分かれた分布を示す時には、もともとは一つの分布であったところに、別言語が貫入してきたと考えることがある。

考古学的には縄文時代に、九州西岸から半島南岸を通り、半島の東岸を北上する文化的なつながりがあることが報告されている。
同じように九州西岸から半島南岸を通り、半島の東岸を北上し、さらに咸鏡道から中国東北へと、南から北へ少しづつ方言差をもちながらつながる言語的連続体が存在したのではないだろうか。
縄文時代にあったそのような言語連続体が、その後韓語の貫入によって分断されたと考えるのである。