長野県佐久市「龍岡城五稜郭」② | 城取博幸のスーパーマーケット見聞録

城取博幸のスーパーマーケット見聞録

城取博幸が国内外のスーパーマーケットを回り、ヒットしそうな商品紹介を
して行きたいと思います。

長野県佐久市 「龍岡城五稜郭」②

「大給恒(おぎゅうゆずる)」の像

プレートは五稜郭にちなんで五角形になっている

「日本赤十字の母」 大給恒(おぎゅうゆずる)

絵 千代原福太郎

紙芝居のようになっているものを写真に撮らせていただいた

たぶん裏にあった説明文の撮影を忘れてしまった

なぜ「日本赤十字の母」なのか

奥殿藩藩主「松平乗謨(まつだいらのりかた)

松平乗謨は天保10年(1839年)、三河奥殿藩(後の信州野口藩)の藩主「松平乗利」の次男として江戸に生まれる

奥殿藩の領地は、赤い線で信州佐久地方も含まれていた

14歳にして奥殿藩藩主になる

「天保の大飢饉」では「お救い米」を配給して、一人も餓死者を出さなかったという言い伝えがある

ペリー来航から日本は大きく変わりつつあった

三河奥殿は4千石であったが、佐久1万6千石を領有

1862年、参勤交代制度が廃止されたことを契機に信州佐久地方に本拠移転を決意した

1863年龍岡城建設を始め3年半後に完成

経費の問題で約半分しか水堀が存在していない

大砲、鉄砲攻めに備えた、幕末最後の築城

鉄砲戦では死角がなく、十字攻撃が可能であった

幕末は松平家の流れから乗謨も二条城の警備がその任務であった

幕府の政治総裁は開国急進論者である乗謨を追放した

戊辰戦争では新政府軍として参戦

明治からは、

「松平乗謨(まつだいらのりかた)」から「大給恒(おぎゅうゆずる)」に改名

赤十字の父「アリン・デュナン」

日本の赤十字の父は「佐野常民」 母は大給恒

西南戦争では敵味方区別なく、けが人や病人の救護をおこなった

「博愛社」を設立

「博愛社」は「日本赤十字社」となった

日本赤十字の名誉総裁は皇后様

ちょっと待った!

もう一人いる

函館戦争では(函館五稜郭タワーの展示品)

「高松凌雲(たかまつりょううん)」

函館戦争においては函館病院を開院し、赤十字精神から敵味方関係なく治療を行った

函館戦争後は、医師会長であった凌雲は、貧民を無料で診察する組織「同愛会」を設立

「大給恒と赤十字」 北野進著 銀河書房

岡崎と佐久の地図

岡崎の「奥殿陣屋跡」と「大給城跡」

1983年の航空写真

この時期はプールが五稜郭内の御台所建物裏にある

今はその下の空き地に移転

見取り図

同じ信州に住みながら龍岡五稜郭を訪れることはなかった

まだまだ知らないことは沢山ある

いい一日であった

女郎花(おみなえし)の花

女郎花は「秋の七草」

前の山の展望台に車で登る

正面は「藩松寺」

りっぱなお寺だ

史跡龍岡城址

この場所は龍岡城の北の入口に当たり、敵の侵入を防御する攻撃的な機能も兼ね「鉤(かぎ)の手状」の枡形

今も存在る貴重な遺構

裏側は鳥居

石垣が鉤のように入り組んでいる

地図案内

車であるから左に進む

工事中であったため元の場所に引き返し、山道を進む

舗装されていないガタガタ道を進む

四輪駆動の車でないと少しキツイ

雨の日は避けた方がいい

空きスペースに車を止めて

看板に従い歩く

細い山道

熊,イノシシが怖い

下の景色が見えるスペースが

ここが五稜郭展望台

晴れていればここは見ておいた方がいい

手前の山と奥の山の間

右は佐久平

佐久平はかなり広い

上から見た龍岡城五稜郭

大手門

後で気づいたのだが、この山の頂上に「田口城跡」があった

下山し「川村吾蔵記念館」に向かう

川村吾蔵の名前は日本ではあまり知られていないが、アメリカでは有名人

次回は「川村吾蔵記念館」と「望月歴史民俗資料館」「スーパーツルヤ」をレポートします