石巻「サン・ファン館」 | 城取博幸のスーパーマーケット見聞録

城取博幸のスーパーマーケット見聞録

城取博幸が国内外のスーパーマーケットを回り、ヒットしそうな商品紹介を
して行きたいと思います。

「サン・ファン館」

宮城県石巻市渡波字大森30番地2

仙台駅から「仙石線」で石巻に向かう

8月6日に訪問したものをまとめたものです

平日であるため客は殆ど乗っていない

松島海岸駅

松島も震災で被害を受けた

石巻で乗り換え「渡波駅」で下車

ここからタクシーの予定

タクシーが少ないため、前に待っている若い女性に

「私が払いますから、一緒に載せてください」という

女性の家を経由して「サン・ファン館」へ向かう

女性が降りた後、タクシードライバーが一言

「東日本大震災以降から、心に病を持つようになって、介護施設に入り、たまに家に帰る」

震災の爪痕はまだ残っている

400年前この港から、支倉常長一行の慶長施設団が出航した

上から見た「サン・ファン号(復元船)」

牡鹿半島を望む

25年前に復元された「サン・ファン号」

この船も震災で被害を受けたが、改修されて今展示されている

サン・ファン館入口

「文禄の役(1592年~1593年)」

伊達政宗は、秀吉の指令を受けて朝鮮半島へ出陣し、海外体験は豊富であった

まだ鎖国令が出ていないため、外国人との交流も積極的に行った

世界を知り、大きな欲望が芽生えつつあった

牡鹿半島と慶長遣欧使節

1613年、関ヶ原の戦いから13年後に家臣である支倉常長が太平洋を渡り、メキシコ経由で、スペイン、ローマに向かった

館内の展示品

サン・ファン号

帆には「丸九曜」「赤十字」と「日の丸?」

伊達氏の家紋はない

日の丸はまだ国旗にはなっていない頃

支倉常長の旗

逆卍に矢が二本

展示館

登場人物

実は、幕府はメキシコと通商する準備を進め、新造船100トンの「サン・セバスチャン号」を建造した

ビスカイノは建造に参画し、ソテロが通訳として乗船する予定であった

ビスカイノの「サン・フランシスコ号」と幕府の「サン・セバスチャン号」は、浦賀を出航したが、サン・セバスチャン号は座礁、沈没

サン・フランシスコ号も大破してしまった

積み荷が多すぎて不安定であったたことが原因であったと、後にビスカイノは言っている

それ以降、幕府は海外の興味が薄れて、キリスト教にも弾圧を加えるようになった

そこで登場したのが、伊達政宗であった

ビスカイノに人を遣わし、船を建造する意思があることを伝えた

ビスカイノはそれを受け入れ「サン・ファン号」を建造した

サン・ファン号に乗船したのは、支倉常長、フライ・ルイス・ソテロ(通訳、フランシスコ会の宣教師)、セバスチャン・ビスカイノ(スペイン王国総司令官)、仙台藩士、商人、向井将監家臣であった

1613年10月28日(慶長18年)、サン・ファン・バウティスタ太平洋へ出航

500トンの帆船に180名(日本人140名)が乗り込んだ

奥州・宮城から世界に目を向けた画期的な外交交渉だが、

その後キリスト教禁止令と鎖国政策により、海外への動きは閉ざされた

支倉常長の航跡

日本~太平洋~大西洋~地中海~大西洋~太平洋~日本

アカプルコからメキシコ市へ

アカプルコから陸路でメキシコ市へ行き、伊達政宗の書状をメキシコ副王に渡す

大西洋を渡りセビリアへ

1614年5月 支倉、ソテロら30名は、スペイン軍艦でスペイン本国をめざす

地中海に向かったのは、スペイン人を含めてわずか30名

使節一行、地中海を渡る

セビリア~コルドバ~トレド~へタフェ~マドリッド~アルカラ~ダロカ~サラゴサ~フラガ~バルセロナ~サントロペ~サボイ~ジェノヴァ~チビタベッキア~ローマ、ナポリ~フロレンス、ベニス~リボルノ~ジェノヴァ~セビリア

日本人初の闘牛見物

日本は牛を農耕用に使い大切に扱っていた

どう思ったか

フランスにも立ち寄る

バルセロナからローマに向かう途中、暴風雨に見舞われフランスのサン・トロぺ港に立ち寄る

支倉の鼻紙大人気

支倉が鼻をかんで棄てた絹のような懐紙(和紙)を人々が争って拾う

当時フランスはハンカチを使っていて和紙は珍しかった

2本の小さい棒でフランス料理を

サン・トペロの記録から、支倉らは三本の指で支えた二本の小さな棒で食べていた

バルセロナ港

スペインの貿易の中心として栄える

支倉は遊歩道を馬車で走ったという

スペインの首都マドリッドへ

1614年12月、トレドを経てスペイン国王フェリーペ3世のいるマドリードへ

ソテロを批判するビスカイーノの報告から、使節への不信感が広がり、回答を先延ばしされる

ジェノバ港

大西洋の航海の拠点 コロンブスの生家があり、青年期を過ごした場所

チビタベッキア港

ローマの北西約60kmに位置するティレ二ア海を望む港湾都市

港には、支倉常長の像がある

西洋の港ローマに至る

月ノ浦出航後2年を経て、ついにローマ教皇「パウロ5世」に謁見

伊達政宗の書状を渡す

ローマ字でサインした支倉

スペイン国王の回答

使節が要望するメキシコとの通商は、スペイン国王一任にする姿勢に終始し、期待した結果は得られなかった

ローマ行きを許可したが、奥州の国王はキリシタン弾圧を行う日本皇帝の一臣下にすぎず、日本を代表していない 

早々の帰国を命じた

日本の情報はすでにスペインに伝わっていた

使節、苦難の帰路

1616年1月7日、ローマを後にした使節一行は、日本での教徒迫害の実態、ソテロの信用の失態から、セビリアに追い立てられる

サン・ファン・バウティスタのその後

アカプルコから支倉を載せ、無事マニラのカビテ港に入港

サン・ファン・バウティスタ号は再び日本に帰ることはなかった

マニラ総督が買い取り、スペインの世紀艦隊に編入された

常長の苦悩、目的を果たすことはできなかった

慶長使節団の謎

政宗の真の狙いはどこに

メキシコとの通商を目的に使節を派遣したと記されているが、真の目的はどこにあったのか?

スペインの力を借りて日本制覇、あるいは海外制覇の野望を抱いていたのか

侍たちの子孫?ハポン氏

支倉ら一行が通ったセビリア郊外の「コリア・デル・リオ」という小さな町に、「ハポン」姓はスペイン語の「JAPON」からきており、支倉がセビリアを後にした30年後、1647年の記録までさかのぼることができる

30年前、「遣欧少年使節団」はヨーロッパを訪れている

その一人、千々和ミゲルは、「そこに日本人がすでにいた」と証言している

日本の覇者 徳川家康へ

天皇皇后両陛下行啓記念 記念碑

復元船建造麹御視察

再びサン・ファン号へ

 

当時は「日の丸」のような旗をあげていた

船尾に「丸九曜」

龍の頭

ブリッジはあるが今は入船禁止

2011年3月11日「東日本大震災」

この下1mまで浸水したと書かれている

皮肉にも400年前にも大地震が起き大津波が押し寄せていた

政宗はその2週間後に、「希望と勇気を与えるために」サン・ファン号の建造を決意したと言われている

当時の地震の強さ

サン・ハァン号も大きな被害を受けた

サン・ファン館の内部には船大工道具、ワークショップ、ジオラマ、3D映像などがありましたが、大津波により流出

25年前に模造船が建造され、東日本大震災で破損、その後改修された

 

鎖国令前は、プロテスタントのオランダ、イングランド正教とカトリックのスペイン、ポルトガルの船が日本に入港していた

カトリックの中でも、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の確執があった

家康には、イギリス人の「三浦按針(ウィリアム・アダムス)」が外交顧問がいた

時代は、キリスト教禁止令(1613年、サン・ファン号出航の年)、鎖国令(1633年)へと向かう

もし鎖国がなかったら、「イギリス、オランダvsスペイン、ポルトトガル」、「カトリックvsプロテスタン」の代理戦争が日本で起きていたかもしれない

江戸時代は、264年間も平和な時代が続いた

慶長使節四百年

「政宗の夢 常長の現(うつつ)」 浜田 尚嗣(はまだなおつぐ) 河北新報出版センター 1000円

「真田幸村と伊達家」

これは時代が違うが、大阪の陣の時、真田幸村の子供を伊達の家臣片倉重綱に預けた

伊達政宗は子供らを大切に扱い、白石城に住まわせた

仙台真田の始まり これも興味がある

3泊4日で購入した本 まだ完全に読めていない

現地情報、本の情報、ネット情報を確認していると多くの時間がかかる

264年平和な時代が続いたが、江戸末期に「戊辰戦争(1868年~1869年)」が勃発

イギリス、アメリカ、フランスの干渉によるものだ

新政府軍は、イギリス製のスナイドル銃を使用し、幕府軍はフランス経由でアメリカ製のスペンサー銃を使用した

南北戦争(1861年~1865年)の後、アメリカには銃や大砲が大量に余っていた

「大政奉還」が行われたにも関わらず、なぜ戦争に向かったのか

 

以上、秋田、郡山、猪苗代、会津若松、仙台、石巻の3泊4日の訪問でした

次回は、「仙台のガストロノミー」について

夏休みで信州伊那に帰り、松本安曇野の「岡田井深城」と「松本城」にも行く予定