寺戸城跡から、物集女街道を北へ歩くこと12分。たどり着いたのは、、
↓物集女車塚古墳

物集女(もずめ)車塚古墳。
思ってたよりも、割とガッツリ古墳じゃん
↓物集女車塚古墳_説明

↓物集女車塚古墳_説明2

古墳時代後期(6世紀中頃)の前方後円墳。
淳和天皇の霊柩車を埋葬した、という伝承から車塚古墳と呼ばれている。
↓物集女車塚古墳2

二段築成。高い高い、ばー。
え~登られへんのぉ

↓石室と石棺_説明

後円部の内部には横穴式石室があり、石棺が納められている。
注目すべき点として、排水溝が設けられている。
↓物集女車塚古墳_前方部分

石室前までは整備されていて階段で行けるが、ここより上には行けないようだ。
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↓愛宕山常夜燈と物集女地蔵堂

古墳から北へ3分。
詳細は分からないが、「村中安全」と書かれている常夜燈。
↓物集女地区案内マップ

おっ、これはわかりやすい。物集女城跡はこの近くやな。
↓中街道遺跡_説明

この場所に祭殿の存在が確認されたことから、豪族の居館がこの周辺にあったと思われる。
↓物集女城公園

最近造られた感じのきれいな公園。
↓物集女城公園2

↓物集女城跡

物集女城跡は個人の所有地にあり、これより中に入る事はできなかった
。

向日丘陵の東面の高台を利用し、方形状の城館を土塁と堀で囲む。その構造が判るぐらいは残っているようだ。
↓物集女城跡_説明

前回のブログでもふれたが、城主は物集女氏で、室町~戦国時代に割拠した国衆(西岡衆)のひとり。
織田信長が山城を鎮圧したのち、細川藤孝に西岡地域の一職が与えられた。
国衆らは所領を安堵され勝龍寺城にお礼に参上🙇すべきところ、物集女忠重入道宗入は拒絶したため、藤孝に謀殺された
。

色々と事情があったんだろうが、ちっぽけなプライドで身を滅ぼしたくないよね~。我々も。あくまで一般論です
↓物集女城跡_地図

↓物集女城跡_空撮

うーん、宅地に囲まれてて、断片的にも見るのは難しそうやな~。
↓物集女城跡2

現在地から城跡方向を見る。遠い。
↓曲がりくねった道

♪曲~が~り~くねった~道の先に~、、
こんな道があるのを城跡の痕跡として納得しとこう。
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↓西羽束師川

洛西口駅からまた一駅乗り、桂駅下車徒歩4分。
↓革嶋城公園

何も残っていないし特に説明板も無い。その名を冠した公園があるのみだ。
↓革嶋城公園_遠景

道が二股に別れる三角地帯
。城跡の風情すら感じられない。

家を建てるにも難儀で土地をもて余していたのを公園にしただけでは

↓三宮神社鳥居

何か城跡の痕跡を求めて近くの神社
へ。

↓三宮神社_舞台

付近には同名の三宮神社が複数存在するため、ここは樫原(かたぎはら)三ノ宮神社として区別される。
源頼光が酒呑童子を退治
にいく際、神前にあった酒
を飲ませて酔わせて勝てた、という伝承が残る。


↓三宮神社_由緒

社伝によると、祭神は鵜茸草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)。初代天皇・神武天皇の父。
実在の人物と見られていないためなのか、wikiなどの情報とは異なる。
↓三宮神社_境内

樫原という地名の由来となっているという樫の木だが、これとは違うくて本殿の横にあるやつかな
↓革嶋春日神社_鳥居

革嶋春日神社。
開発により手狭となっているが、こちらは革嶋城域に含まれるとの事で。
↓革嶋春日神社

革嶋氏が城の守護神として祀ったのが起源とされる。835年には修繕されたいう記録が残っているから、相当古い
。

↓革嶋春日神社_由緒

革嶋氏は平安時代、川嶋荘の荘官だった。清和源氏の流れを汲むあの佐竹氏の一族だったという。
1565年、三好三人衆の岩成友通によって追放され、鶏冠井(かいで)氏が城主となる。
1568年に返り咲き、明智光秀に従う。
本能寺の変以降、光秀に味方したため没落した。
「かいで」?・・・読めねーー

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↓東川島大宮社_鳥居

この辺は神社が多いな。鳥居には松尾大明神とある。
↓松尾七社之一 大宮社_境内

調べても神社なのかお寺なのか、釈然としない。ここも神仏混淆の名残りだろうか。