鳥取城!!!~その4. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

~鳥取城 年表~
  • 16世紀中頃、但馬山名氏により砦が築かれた説
  • 1562年(永禄5)武田高信が久松山を拠点として、因幡山名氏に反旗を翻すニヤ
  • 1573年(天正元)武田高信を退けた山名豊国が、本拠地を鳥取城に遷す
  • ~翌年、山中幸盛🦌ら尼子氏残党、毛利氏の介入で争奪を繰り返す。結果、毛利方の山名豊国城主で落ち着く
  • 1580年(天正8)織田方の羽柴秀吉による第一次鳥取城攻め。3ヶ月兵糧攻めに耐えたが豊国は降伏🙇‍♂️
  • 同年、再び毛利方に属し、豊国は重臣らに城を逐われる👋
  • 1581年(天正9)毛利氏の吉川経家、城将として迎えられる
  • 同年、秀吉による第二次鳥取城攻め。兵糧攻めおにぎりの末、経家の切腹ナイフで降伏
  • 戦後、宮部継潤が城主となり、近世城郭へ改修する
  • 1600年(慶長5)西軍に属したため、東軍の亀井茲矩らに攻められ開城
  • 池田長吉、6万石で城主に。城の大改修を行う
  • 1617年(元和3)池田光政、32万5千石で城主に。城と城下町の大拡張を行う
  • 1632年(寛永9)池田光仲、岡山藩より移り城主に。以降、明治維新まで12代続く
  • 1720年(享保5)石黒大火メラメラにより、鳥取城も延焼被害
  • 1873年~廃藩置県により、陸軍の管轄となる。殆どの建物が解体撤去されるえーん
  • 1907年(明治40)仁風閣が建てられる
  • 1943年(昭和18)鳥取大震災((( ;゚Д゚)))で被災
  • 1957年(昭和32)国史跡キラキラに指定


堅固な名城と言われる割には、意外と何度も落城(そのほとんどのが降伏だが)してますね。。

まあ、石垣拡張後は戦闘は無かったわけだが。。


↓車井戸跡(本丸)
車井戸跡(本丸)
1602年、慶長の大改築の際に3年かけて掘られた。
ちょい待ち、ここ標高200m以上やぞビックリマークびっくり
よう水🚰出るまで諦めんかったモンや。

↓天守櫓台
天守櫓台
ここでは、なぜか天守ではなく「天守櫓」と呼んでいる。

戦国時代中頃、山名豊国が布勢天神山城から三層の天守を移築して建てた。

その後、池田長吉が二層に改築。

1692年落雷雷のため焼失メラメラし、以降は再建されなかった。

↓天守櫓台上
天守櫓台上
二層の割には面積が広目だ。
石垣を継ぎ足した箇所もあるらしく(知らなかったため確認できず)、強風対策で広くしたのだろうか。

穴蔵の跡も確認できる。

↓天守台からの眺望_西
天守台からの眺望_西
登ったかいがあって絶景キラキラが広がる。

千代川の向こうには、湖山池(こやまいけ)。日本一大きい天然池らしい。


湖でよくねはてなマーク


わかった、アタマに「湖」ってつくから「池」にしたんちゃうかはてなマーク


↓天守台からの眺望_北西
天守台からの眺望_北西
日本海、そして千代川(せんだいがわ)河口が見えた。
吉川経家は、海路から千代川を使って鳥取城に入城したという。

↓天守台からの眺望_北
天守台からの眺望_北
鳥取砂丘🐫。

旅程に余裕ができれば行くつもりだったが、遠目でも見れたからよしとするかニヤリ

↓鳥取砂丘_拡大
鳥取砂丘_拡大
大山と並び、鳥取県のシンボルである国立公園。国の天然記念物キラキラ

東西は16kmにも及び、日本を代表する砂丘だ。

↓天守台からの眺望_東
天守台からの眺望_東
すぐ横の山は、太閤ヶ平(たいこうがなる)かなはてなマーク
秀吉があそこに本陣を置いて鳥取城を攻めた。土塁・竪堀・空堀など残っているが、さすがにあそこまで行く気力はもう無いわネガティブ

↓天守台からの眺望_南東
天守台からの眺望_南東
こっちは山ばっか。中国山地。

↓本丸跡石垣
本丸跡石垣
本丸を後にして下山する。

今おもえば、山上ノ丸の石垣はあまり堪能できてないよな~、疲れてたんかなはてなマーク

↓太鼓御門跡石垣
太鼓御門跡石垣
山下ノ丸に降りてきた。

三ノ丸正面の枡形門。一の門は櫓門で、城内最大規模の門だった。櫓の楼上に、時を報せる太鼓が置かれていた。

上の方は近年積み直してますね。

↓仁風閣_裏手
仁風閣_裏手
再び仁風閣
裏手には吹き抜けのベランダがある。

手前の宝隆院庭園は、江戸時代後期に造られた池泉回遊式。

なお、仁風閣内部は令和10年頃まで閉館となっている。

↓走櫓台
走櫓台
三ノ丸で唯一の櫓、走櫓があった場所。
あそこで評定が行われていた時代もあった。

現在は鳥取西高校体育館が建っている。

↓渡櫓門工事中
渡櫓門工事中

調べると、中の御門の復元は終わってるが、渡櫓門が令和7年完成予定との事。


↓鳥取城跡_全景
鳥取城跡_全景
再び北ノ御門跡の方へ戻らねば、城外へ出れないなんて。。ショボーン

堀の外からは、三重櫓石垣と仁風閣が目立つ存在だ。

↓擬宝珠橋
擬宝珠橋

擬宝珠橋(ぎぼしばし)


中の御門に向けて架けられた橋で、大手橋にあたる。1621年池田光政期に造られた。

2018年に復元されたが、通行止め。

↓内堀南側
内堀南側
現在残る堀の最南端には鳥取市武道館があり、その脇には南ノ御門があった。

池田長吉時代には大手門だったが、光吉時代には搦手門となった。遺構は残っていない。

↓吉川経家公像
吉川経家公像

南の御門跡のすぐ手前に堂々と立つ吉川経家公像

黒いし曇りだわで、お顔がよく見えない。


↓吉川経家公像_拡大
吉川経家公像_拡大
角度を変え、ズームで少し見えた。武骨な表情だ。
なんでも直系子孫の顔写真などを参考にしているそうだ。

像は平成5年建てられた。

↓吉川経家_説明
吉川経家_説明
吉川元春の吉川氏ではなく、こちらは分家の吉川氏。
父・経安は大内氏から毛利氏に鞍替えし、功を立てた人。経家は1574年頃家督を譲られた。

石見福光城城主だったが、請われて鳥取城将に任命された。

↓吉川経家_説明後半
吉川経家_説明後半
この時の鳥取城は、西の重要拠点でありながら戦略的に苦境驚きにあり、元の城主だった山名豊国は家来に城を逐われた状態。

そいつらに誰か毛利の将を派遣してくれ、と懇請された毛利家では、石見吉川氏の経家に白羽の矢いて座を立てた。

わざわざ火中メラメラの栗🌰を拾いに行くようなものだが、彼は名誉な事と受け止め引き受けた。

織田軍の将・羽柴秀吉に城を包囲され兵糧攻めにあうも、4ヶ月をよく持ちこたえた。

城内では食料困窮の極みに達し、中には餓死者の人肉を喰らう者まで出たというガーン

城兵の助命を条件に、経家は自身の切腹ナイフをもって降伏した。

よそ者なのにも関わらず、命をかけ城兵を救ったとして、後世に吉川経家は鳥取のヒーロー🦸として崇められたのだった。


つづく。。。