~米子城年表~
- 1467年頃(応仁元)山名教之配下の山名宗之が飯山に砦を築く(飯山城)
- 1524年(大永4)尼子経久、伯耆を攻略。米子も手中に
- 1562年(永禄5)毛利氏によって制圧される。城主は山名秀之か
- 1571年(元喜2)尼子再興軍に攻められる。城主は福頼元秀
- 1581年(天正9)古曳吉種がこの頃城主
- 1591年(天正19)吉川広家が湊山に築城開始(米子城)
- 1600年(慶長5)関ヶ原の戦の功で中村一忠が伯耆18万石の領主に。城の工事を進める
- 1603年(慶長8)米子城騒動
- 1610年(慶長15)加藤貞泰が6万石で入城
- 1617年(元和3)池田由之が3万2千石
- 1632年(寛永9)池田光仲が領主、家老の荒尾成利が城代に(以降、明治維新まで荒尾氏)
- 1852年(嘉永5)四重櫓とその石垣が大改修される
↓三段の石垣

いよいよ山頂エリアに突入。
虎口より右手を見ると、三段に積み上げた石垣が壮観
である。

↓天守台

一番上の石垣が天守台。積み方は打込接。
この位置からだと四段重ねに見える。
↓番所跡

左手を見ると、番所跡。
山頂エリアを訪れる者を監視し取り締まったのだろう。
↓番所跡からの眺望

番所跡は東に突き出た形をしており、ご覧のような眺望が楽しめる。
↓小天守台

再び右側。
二段の石垣の先は、単独で積んだ高石垣に接続している。
この上には吉川氏時代の天守=四重櫓があった。ここでは小天守と表現する。
↓小天守台2

たっけー



石の表面を綺麗に切り揃えてから積む、切込接も見られる(打込接と混在)。
これは幕末に改修されているから、ということだ。
↓小天守台下からの眺望

先ほどいた番所跡が突き出ている様がよく分かる。
↓来た道を振り返り

↓鉄御門跡への石段

小天守台の先で、石垣と石垣の間に石段が現れた。この石段は鉄御門を経て、本丸へ至る。
↓石段脇の櫓台

石段左手の石垣。
この上にも櫓状の物があった事だろう。
↓石段から見る小天守台

ビッチリ揃ってるやん



もう切込接と言うてもええぐらいやけどなぁ。
↓鉄御門跡枡形

この辺りに鉄御門があったか。
石段に加え、側溝も遺構と思われ、見所のひとつ。
↓本丸へ出た

折れ曲がらされ、ついに本丸に到達。
↓米子城跡_説明

米子城は江戸時代、一国一城令の例外として存続した。
↓本丸跡

↓本丸からの眺望_西

わお
絶景かな。

中海が間近に迫る立地。
↓本丸からの眺望_西北

半島を挟んで奥にも海が広がる。
日本海の美保湾だ。
↓本丸からの眺望_遠見櫓跡

手前には米子城の遠見櫓跡が見えた。
↓天守台

おや、愛犬
のお散歩ですかね


いいな~、近所にこんな所あったら、毎朝散歩する
やろーな~。。

↓天守跡

吉川氏が建てた天守(=副天守、四重櫓)がすでにあったが、中村氏は負けじ、とこちらに五重の天守を建てたらしい。。
↓天守台からの眺望_北

天守台は本丸の北寄りに位置するため、北側の眺望が楽しめる。
弓ヶ浜方面。
↓天守台からの眺望_北西

皆生温泉方面。
↓天守台からの眺望_東

名峰・大山(だいせん)。
手前の山は飯山城跡(采女丸)。
↓天守台からの眺望_番所跡

見下ろすと三の丸跡。球場跡の形状が残っている。
↓小天守跡へ

天守台から降り、地続きの小天守(四重櫓)跡へ。
↓小天守からの眺望_帯曲輪

ミルフィーユ状に組まれた天守台下の石垣を小天守台から。
下の二段は、崩れていたのを近年に修復したとか。
↓小天守から_南東

新加茂川。
↓小天守から_深浦口からの登城路

見下ろすと先刻登ってきた石段。そして二段構えの櫓台。
🔺通行禁止🔺になっているが、深浦口からの来城者を監視する櫓やったんやね
。

↓本丸仕切門跡

小天守台から本丸へ戻り、南を見ると石垣が。
本丸は二段構成となっていて、仕切門と石垣でこちら側と区別しているのだ。
それでは、本丸下の段の方へ行ってみよう

つづく。。。