↓JR山陰本線

松江駅構内の一文字屋で駅弁「勾玉」を購入し、米子行各駅停車に乗り込む。
キハ40系。
個人的には隅部が角張ってるより、多少丸みを帯びたこれぐらいの形状の方が好きだ。
↓安来駅ホームの月山富田城跡説明板

さて、問題はどこで弁当を開けるか、だが電車の中では厳しそう。
降りる予定の荒島駅周辺地図を見るが、適した場所は見つからなかった。
↓十神山城跡

そこで、安来駅近くにある、安来港公園という小さな公園に着目。
眼前の十神山は安来節の歌詞にも登場する山で、神々が出雲に集まる神在月(かみありづき=出雲地方では10月をこう呼ぶ)には、神々が休憩する所なので十神山に登ってはいけない、といわれてきた。
かつてここにあった十神山城跡は、松田氏が築城。尼子十砦のひとつとして機能し、その後、毛利・尼子氏の争奪戦の舞台となった。
↓安来港

左にカメラを回すと、安来港⚓️が。
江戸時代から明治初期にかけ、鉄の積出港として栄えた。現在も機能し、単なる漁港のみでは無さそうだ。
↓松江駅弁

人目や飛ぶ虫を気にするが、どうやら大丈夫そうだ。
まず、米が旨い。鱒の塩焼、あごの焼き蒲鉾、島根牛の味噌煮、しじみのしぐれ煮などなど。
↓安来駅駅舎

駅へ戻る。
イエローバスの出発待ちの時間を利用して食べた訳だが、己が目指すさぎの湯温泉までだったら、足立美術館行きの無料送迎バスってのがあったやん!便数も多いし

と、気づいた時には時すでに遅し。予定通りイエローバスを待つ。
↓山中鹿之助?イラスト

お土産
でも見ながら時間を潰す。

イケメン風のイラストは、戦国無双
らしーな。。知らんけど。

↓さぎの湯温泉_説明

鷺の湯温泉・足立美術館前というバス停で降りる(両者はほとんど同じ場所にある)。
さぎの湯温泉
の起源は古く、明治に再興された。

さぎの湯荘という旅館に事前にTELしたところ、宿泊者でなくともレンタサイクルは可能、との事で予約。
そのまま用意された自転車
に乗せようとしたので、名前とか書かんでいいの
とこちらから聞くと、フロントでどこかへいった帳票を探すのに、約5分かかってました。あまり利用する人いないのかな?



↓洞光寺_拝殿

無事帳票は見つかり、いざ富田城へ

一本道で迷う事はまずないが、20分位か?以外にかかるね~。
まず立ち寄ったのは、洞光寺。
洞光寺本堂。1789(寛政元)年の築。正面唐破風向拝付き。
↓尼子氏歴代追悼碑

洞光寺は、尼子経久が尼子家の菩提寺とした寺。衰退した時期もあったが、再興された。
↓墓所案内

墓マイラーとしては、境内で迷わずに済むこのような表示は非常に助かるわけで。。
↓尼子清定・経久の墓

お、こちらが両公の墓か。
左が尼子経久、右がその父・尼子清定の墓。
↓尼子清定・経久の墓_説明

尼子清定は、出雲守護代として守護京極氏の信任を得て、出雲東部への勢力を強めた人物。
経久については、後ほど語ろう。
↓尼子清定・経久の墓_拡大

経久の方がだいぶん大きいのは、功績の差だろうか。

↓月山富田城跡_遠景

月山富田城跡、今から行くかんね!
↓飯梨川支流

富田橋上より。
コンクリ感の無い川、いいですね~♪

↓飯梨川

あっちに見ゆるは、下流方面なので新宮橋だと思う。
飯梨川は、やがて中海に流れ込む。
↓尼子晴久の墓へ

月山富田城へ登る前に、尼子晴久の墓を目指す。
橋を渡って右へ進み、次に左にそれてこの道を奥へ。結構遠い。歩きでは時間が無いだろう。
↓尼子晴久の墓への道

チャリから降り、標識に従って山道に少し入る。
↓尼子晴久の墓

15分くらいで着いた。
そばに並んでいるのは、殉死者の墓石と思われる。
↓尼子晴久の墓_拡大

近くで参拝
。

尼子晴久(詮久)は経久の孫で5代目。8ヵ国の大守を兼任し、尼子氏最盛期を創出した。
各地を転戦し、特に美作、備前方面では連戦連勝を重ね、三木城の別所氏まで服属させた。
思ってたより有能な戦国大名で、あの毛利元就をも苦しめた。イメージは高島政宏さん。
戦線をあちこちに広げすぎたのが、晴久の失敗だったような気がする。
も少し同盟増やすとか。

↓尼子晴久の墓_説明

1561(永禄3)年説もあるが、いずれにせよ急死してしまい、尼子はその後、滅亡
に向かうことになる(大内領が毛利の手に落ちたのが大きいが)。

晴久存命中には、結局毛利氏は石見銀山さえ奪えなかった。
↓月山富田城跡へ戻る

右手が月山。
↓史跡 富田城跡

昭和9年、国の史跡に指定。
↓月山富田城周辺案内図

安来市立歴史資料館にチャリを停め、城跡案内地図をゲット。
歩いて右下の現在地へ移動してから、巖倉寺(いわくらじ)参道から登る。
↓赤門

巖倉寺の山門は、赤かった。
↓堀尾吉晴の墓へ

このような細い階段をあがっていく。
↓堀尾吉晴の墓へ2

順路が示されていて、迷わず行ける。
↓巖倉寺

巖倉寺の何らかの施設。
↓堀尾吉晴の墓

あった

松江城を築城した新領主・堀尾吉晴の墓が、なぜここ月山にあるの

↓堀尾吉晴の墓_説明

関ヶ原で功を挙げ、出雲隠岐24万石を得る原動力となった嫡男・忠氏は1604年に急死。
隠居していた吉晴が政務に復帰し、松江城の築城に着手。本拠を月山富田城から遷す前に、吉晴も没してしまった
。享年65歳。

↓堀尾吉晴の墓_拡大

写真では伝わりづらいが、かなりでかい。3mあるとのこと
。

この時、なぜかすぐ近くにあるはずの山中鹿之助供養塔の存在を失念してしまうミス。予習してたのにィ~!
↓シャガの花

↓大土塁への道

堀尾吉晴の墓から北上して、直接大土塁へ出る道がありそうだが、果たして通行できるのか半信半疑だけど進んでいく。
↓大土塁

ホッ、大土塁のある所に出て来られた。