赤穂城!!!~その2. | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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↓二ノ丸庭園2
二ノ丸庭園2
ここに足を運ぶ人は少なく、ゆったりと昼飯🍙を平らげる事ができた。

↓西北横矢枡形
西北横矢枡形
二ノ丸庭園で見れる、西北横矢枡形
ここが本丸の西北隅にあたる。

↓内堀_西
内堀_西
南方向を見る。本丸石垣が伸びた先にも横矢がかかる折れがあり、仕切塀が堀にまでせりだしている。

↓西中門
西中門
一転、庭園の西端まで行くと、庭園の池に橋が架かり、西中門へ通じている。

ここを出ると三ノ丸の西南部分で、すぐに城外へ出る門、干潟門とその門を守る南西隅櫓台がある・・・ハズだが、この先は整備中なのか通行止パーとなっていた。

↓二ノ丸堀_北西
二ノ丸堀_北西
安全を充分に確認グッしてから、西中門を少しだけ出てみる。

北東方向を見る。
堀の左岸が三ノ丸、右岸が二ノ丸。
折れ折れの石垣と折れ折れの二ノ丸堀。その一番奥に、北隅櫓台が見える。

↓西仕切門遠望
西仕切門遠望
二ノ丸を南北に区切る、西仕切門と土塀。資料や遺構に基づき平成22年復元。

仕切門といえば、なんか、二条城を思い出すよな~。

ところで、東にもあったであろう、東仕切門ははてなマークはてなマーク


↓西仕切門
西仕切門
控柱付きの棟門。脇戸付。門扉の一部に横板を張らないので、スカシ門とも呼ばれた。

↓西仕切塀
西仕切塀
仕切門を南へ出てからの一枚。
低い石垣の上の土塀と、それに接続するように内堀まで西に張り出している。

↓内堀_西
内堀_西
南へ進む。
水手門から入って最初に見た南横矢枡形の石垣が見えてきた。

↓二ノ丸東土塁の上より
二ノ丸東土塁の上より
二ノ丸の東を再び北上。効率悪し。

同じ所を通るのもアレなんで東キワキワまで寄ってみた。土塁?の上から城外を見る。来て一番初めに見た加里屋川

↓天守台
天守台
今思えば二ノ丸を隈無く見て回るには、時計回りで厩口門から本丸へ、が正解だったか。

本丸に入り、天守台が立派である。

↓天守台石垣
天守台石垣
天守台に上がってみよう。途中、矢穴跡がついた石も見られる。

↓天守台上
天守台上
なかなか広い天守台。
ここに天守は一度も建てられなかった。

↓赤穂城跡_説明
赤穂城跡_説明


~赤穂城年表~
  • 1452~55年、赤松満祐の一族、岡豊前守光景が加里屋古城を築城
  • 1466~83年、岡光広が加里屋古城を築城(市史説) 
  • 戦国期、宇喜多直家領か
  • 1586年(天正14)生駒親正が入部
  • 1587年(天正15)宇喜多秀家が入部
  • 1600年(慶長5)池田輝政が播磨52万石に。池田長政が加里屋に在城
  • 1603年(慶長8)輝政の臣・垂水勝重が郡代に
  • 1613年(慶長18)岡山藩池田忠継領となる
  • 1615年(元和元)池田政綱が入封する
  • 1631年(寛永8)池田輝興が入封
  • 1645年(正保2)池田輝興、狂気の沙汰ムキーで改易となる。浅野長直が5万3千5百石で入封
  • 1661年(寛文元)赤穂城が完成キラキラ
  • 1701年(元禄14)三代浅野長矩が、江戸城で刃傷事件ナイフをおこし、切腹でお家断絶叫び
  • 1702年、永井直敬が3万3千石で入
  • 同年、大石内蔵助ら赤穂義士が吉良邸に討入りナイフ(赤穂事件)
  • 1706年(宝永3)森長直が2万石で入。以降、維新まで森氏


↓天守からの眺望_南西方向
天守からの眺望_南西方向
なお、天守台は本丸の南東寄りにある。

それでは天守台からの眺望を楽しむとしよう。刎橋門とその奥には南横矢枡形

本丸外周の石垣、内側は土塁状だってよ。


↓天守からの眺望_本丸庭園
天守からの眺望_本丸庭園
カメラカメラを右へとズラしていく。
本丸庭園。

↓天守からの眺望_北西方向
天守からの眺望_北西方向
本丸御殿の敷地表示。奥に本丸櫓門

↓天守からの眺望_北方向
天守からの眺望_北方向
厩口門

↓石組暗渠等展示
石組暗渠等展示
天守台から降りた。
石組暗渠・排水路の発掘遺構表示。

↓刎橋門_城内より
刎橋門_城内より
外からはすでに見たが、内からも刎橋門に近づいてみる。

↓刎橋門より二ノ丸を見る
刎橋門より二ノ丸を見る
ジャンプ力に自信のある方は、どうぞ。

↓本丸_説明
本丸_説明
本丸櫓門から外へ出よう。

赤穂城は慶安元年(1648年)より13年かけて造られた、甲州流軍学を実践した城である。

↓赤穂御城御殿絵図
赤穂御城御殿絵図
永井氏時代の絵図。

↓マンホール
マンホール
くらのすけ?

↓山鹿素行像
山鹿素行像
本丸を出た。少し北上し右に少し入ると、ここに山鹿素行(やまがそこう)像

兵学者・儒学者として高名だった。

↓山鹿素行_説明
山鹿素行_説明

素行は浅野長直に召し抱えられ、赤穂城築城を指南した人物。


像は大正14年に建立された。

↓山鹿素行像_拡大
山鹿素行像_拡大



つづく。。。