二層櫓(彰古館)の二階に上がってきた。
↓彰古館二階
門櫓からも景色は見たが、ここでも外を見てみよう。
↓続櫓の屋根_彰古館より
↓愛宕山_彰古館より
愛宕山の存在が目についた。
標高は213m。古くから信仰の対象とされてきた。
↓北の山地_彰古館より
舞鶴市は、海と山とに囲まれている。
田辺城は、別名を舞鶴(ぶかく)城と云う。
紀伊田辺藩と区別するため、「舞鶴」という地名が定着した。
そーいや、唐津城も舞鶴城ゆうとったな。。
↓本丸井戸跡
では彰古館を出て、城内を見てまわろう。
まず目についたのが本丸井戸跡(再現)。
ここだけ後ろの石垣が半円状に窪んでいたので発掘調査したところ、井戸の痕跡を見つけたらしい。
井戸は京極氏の時代には使われなくなり、埋められていたそう。
↓本丸石垣と雁木
どこまでがいつ積まれたものか、判別がつかない。京極氏が再興して以来、牧野氏時代にも随時修復工事が行われた、という。
公園整備の際にも、一部積み直ししているかも。
↓本丸石垣
↓心種園の池
よく見るやつ、アオサギが。
↓二ノ丸石垣
実に様々な形の石を、ダイナミックに積み上げた野面積み。
↓二ノ丸石垣
~田辺城年表~
- 室町時代、丹後守護の一色氏が、加佐郡八田の守護館において政務をとる。
- 1578(天正6)年、織田信長の命により細川藤孝が一色氏を滅ぼし丹後を制圧。
- 1580年、田辺城が完成。細川氏、宮津城から移り本拠とす。
- 1582年、本能寺の変。藤孝は隠居し、子の忠興が城主に。
- 1600(慶長5)年、関ヶ原の戦い。徳川家康不在の隙に西軍が旗揚げ、田辺城にも15000人が押し寄せる(田辺城の戦い)。50日に及ぶ攻防の末に和睦、開城。
- 戦後、細川忠興は豊前小倉に加増転封され、京極高知が城主に。宮津城を再築し、田辺城は破却される。
- 1622(元和8)年、高知が子らに領地を分与、高三に田辺藩が与えられる。京極高三により田辺城が再興。
- 1668(寛文8)年、牧野氏が城主に。以降、明治維新まで牧野氏。
↓池の中の石碑
庭園の池の中にポツンと建つ石碑は、正体が調べてもわからなかった。撮った時は解ってたと思うのだが・・・
↓細川幽斎公古今伝授遺跡
古今伝授遺跡とは、細川幽斎が古今和歌集の秘事口伝の伝承者だったため、この先の塚の上の老松の木の下で勅使に対し伝承した、という故事にちなんだもの。
↓古今伝授遺跡の碑
この碑は明治時代に建てられた。二代目か三代目か知らんが、松、撮れてないやないかい
後陽成天皇に開城するよう諭されたものの、死の覚悟があった幽斎は、古今伝授の書を勅使に渡し、松の下で口伝し、「古へも 今もかはらぬ世の中に 心の種を 残す言の葉」という句を託した。
後陽成天皇は驚き、今度は西軍に対して包囲を解くよう勅使、無事和睦が成立した。
↓池と石垣と愛宕山