播磨・小谷城!!!~1/3 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

冬場は山城攻めに最適、と知りながら、毎年寒さに負けて雪出掛けられず、3月になってようやく動き始める。

こないだの平井山攻めで味をしめたてへぺろ
自宅が伊丹空港まで自転車圏内自転車ゆえの、リムジンバス利用バスという選択肢。。

↓小谷城_遠望
小谷城_遠望
高速上のバス停・北条で降り、高速下をくぐって北へ出たらひたすら西へ。
北方向に見えた山富士山、あれがそうか。

↓小谷城_ズームアップ
よーく目を凝らす目と、本丸にあるあずまやが小さく見えているではないかビックリマーク

テンションあがってきたww爆笑

↓小谷城ルートマップ
小谷城ルートマップ
標高218mか。手頃な高さやね。
ルートは普通に真ん中の陽松寺経由で登ろっと。

↓小谷城へ
小谷城へ
親切に↗️が設置されているので、迷うことはまずない。

↓陽松禅寺_山門
陽松禅寺_山門
まずは陽松寺に着いた。
山門の両脇で仁王像ムキーが出迎えてくれた。。
左が「阿」右が「吽」。

↓陽松禅寺境内
陽松禅寺境内
右に写る鐘楼の、さらに右側に、小谷城跡への案内↗️がある。

↓陽松禅寺_裏山
陽松禅寺_裏山
寺の裏手に広めの池スライムがあり、池端を反時計回りに進むと裏山に行ける。

↓蓋付五輪塔
蓋付五輪塔
裏山には室町時代に造られた石塔がズラリ。
これらは、尼子氏に攻められてナイフ落命した、赤松家臣群の供養塔だということだ。

なかでも写真の蓋付(ふたつき)五輪塔は、珍しい形状のうえ数も多いので、見応えあったびっくり

↓小谷城主・赤松佑尚の墓
小谷城主・赤松佑尚の墓
斜面の最上段にある赤松佑尚(すけひさ)の供養塔
小谷城城主で、陽松寺を開基した人物だ。

来たとき、裏山で工事している方も、手を合わせてお願いおられた。

↓赤松佑尚の墓_裏面
赤松佑尚の墓_裏面
「天文十一寅年 正月十四日
赤松刑部少輔佑尚公墓」。

・・・てんぶんはてなマーク嘉吉の乱の百年後はてなマーク
墓自体は1809年に建てられたようだがはてなマーク
刑部少輔はてなマークという冠名も、謎である。

↓赤松佑尚と墓_説明
赤松佑尚の墓_説明
前代未聞、足利将軍を弑殺したガーン赤松満佑(みつすけ)。佑尚は満佑の弟で、事件後、兄とともに幕府に立ち向かった。

山名に降ったあと、所領回復をはかり大蔵谷(明石)に挙兵、のち三木城に移った。

謎が多い人物で、嘉吉の乱ナイフ(かきつのらん・謀反人となった赤松氏討伐や一連の騒動)が起きる前に「結城討伐」ナイフで討死したともいわれている。

↓小谷川堰堤(砂防ダム)
小谷川堰堤(砂防ダム)
2021年3月竣工。墓地のすぐ横にある。

↓登城路
登城路
赤松佑尚の墓のすぐ後ろの防獣フェンスくまの扉を開けたら閉めて、いざ小谷城へ。

道中は歩きやすい。良く整備されている。
これなら冬でなくてもいいかも。

↓小谷城跡_看板
小谷城跡_看板
すぐ着いた。「おだに」と書いて「こだに」と読む。

いや、変なんアッチやって。

↓コース案内
コース案内
右に行くと本丸、左に行くと西小丸。着いた所が主郭4

↓本丸方面
本丸方面
ここから主郭まで段々高くなるという造り。
「小谷城跡」の看板があった所が主郭3

↓本丸からの眺望(南東
本丸からの眺望(南東
木々が取り払われているので、南方向は180°のパノラマだ。

中国自動車道が近くて、加西市役所、小野市の方向。

↓眺望(南南東
眺望(南南東
アスティアかさい、イオンモール加西北条などがある市街地ビル方面。

↓本丸に建つ展望所
本丸に建つ展望所
ふもとから見えた、あずまやの建つ場所が主郭で、この山の最高所だ。

↓小谷城_縄張
小谷城_縄張
展望小屋の中にあった下が北の縄張図。

本丸エリアは主郭から段差をつけ、主郭1~5が並ぶ。
堀切を隔てて西小丸エリアは四段構成という造りニコニコ

↓小谷城_本丸跡
小谷城_本丸跡

↓本丸最東端から見る本丸
本丸最東端から見る本丸
手頃な広さ。
南北は幅が狭く、東西に広い城だとわかる。

↓本丸最東端の切岸
本丸最東端の切岸
本丸東端より、写真の階段を使って下に降りれる。結構な段差があるびっくり

↓東端の土塁
東端の土塁
降りた先には、土塁付きの横堀ですなラブ



つづく。。。