九州旅行二日目。
おっはようございまーす♪

旅館の方のご厚意で車
で送ってもらい、島原城へ。

と思ったら、朝なのでまだ開いてなかった。。
いうことで、城西に残る武家屋敷通りへ。
↓島原武家屋敷通り

ほう、これは訪れる値打ちあるがなー

道の中央を流れる用水路、独特な形状でGood


実は宿場町などでは、あるあるの形状なのだが、当時のまま400m超の長さで水が流れるのは、非常に貴重な景観だ
。

↓本丸西面石垣

島原城の石垣が見えてきた。
たっケー

いきなり度肝を抜かれる仕事っぷり
。

規模が大きいのが一目で知れた。

なので、もう入らず次の目的地へ、って訳にはいかない
。

本丸の北に二ノ丸、三ノ丸と縦に並び、本丸・二ノ丸部は広く深い水堀が囲むという構造。
↓西南隅より

何じゃあ、コリャあ

修復工事なんて聞いてないよ~

石垣の残念な景観
。。

西南にある本丸への入口は、本来無かったもの。石垣の上に見えるのは、西の櫓。
↓本丸西内堀

土橋の上から堀を見下ろす。
堀には水が満々と貯められるではなく、名残り程度の水量。まぁ空堀でも十分な防御力やけどね。
堀の外側にも石垣が見えるが、果たしていつ頃積まれたものか。
↓島原城復興天守

本丸へ突入するや、ドドーンと天守
。。

当時の資料などが少なかったため、こんな感じやろう、と1964(昭和39)年、鉄筋コンクリート造りで復興。復元とは言わない。
↓島原城天守

破風の無い層塔型でありながら、廻縁もあるよ。
背ぇたっかー

高さは33mで、大阪城、名古屋城に次ぐとか。五層五階、昔のは四層五階だが高さは同じくらいだ、といわれている。
↓天草四郎像

天守の裏側にある、天草四郎像
。緑色バージョン。

反乱軍の首魁が、敵であるご領主様の城内に堂々立つ。。まさかこんな事になるとは、当時の人には考えられなかったはずだ。
・・・あれ
その後増えたり減ったりしてるなぁ。それにしても松倉重政役、よう引き受けたな。

↓天草四郎像と若き日の信長像

隣には、岐阜城で見た信長(島原と縁もゆかりもない)が。
実は西望記念館(巽櫓)というのが背後に建っており、銅像の製作者・北村西望氏(1884―1987)が島原市の出身だということだ。
この若き日の信長像は、以前は原城跡にあったが、現在はここに移されている。
↓巽櫓(西望記念館)

これがその巽櫓(西望記念館)。
1972年 復元。
丑寅の櫓(民具資料館)と似ていて
、どっちを撮ったものか、なかなか判別つかなかった。

手前の胸像が決め手となった。
こちらのほうが、各層がやや平べったい印象だ。
1980年復元。
↓島原城天守

なお、天守は令和4年7月から修復工事に入り、9月現在は覆い隠された
状態だ。

↓島原城天守(北面)

~島原城年表~
- 1618(元和4)年 松倉重政が築城開始
- 1624(寛永元)年 主要部分がほぼ完成
- 1637(寛永14)年 島原・天草の乱
勃発
- 松倉重次、責任を問われ斬首刑となる(切腹以外による、江戸時代を通じて唯一の極刑)
- 翌年 高力忠房が城主に
- 1669(寛文9)年 松平忠房が城主に
- 1707(宝栄4)年 松平忠雄が「島原大概様子書」作成
- 1749(寛延2)年 戸田忠盈が城主に
- 1774(安永3)年 再び松平氏が城主に。以降明治維新まで松平
- 1792(寛政4)年 島原大変(寛政の大地変)が起きる
- 1874(明治7)年 廃城令が出され、土地建物が民間に払い下げられる
↓本丸北側の鏡石

天守開城までまだ少し時間がある。本来の登城口である、二ノ丸からの導線を確認しに、北側へ降りていこう。
隅石に巨石を縦積み。豪快だ。
↓本丸・二ノ丸間の堀
