島原城!!!~1/2 | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

九州旅行二日目。晴れおっはようございまーす♪

旅館の方のご厚意で車リムジン前で送ってもらい、島原城へ。

と思ったら、朝なのでまだ開いてなかった。。
いうことで、城西に残る武家屋敷通りへ。

↓島原武家屋敷通り
ほう、これは訪れる値打ちあるがなービックリマーク
道の中央を流れる用水路、独特な形状でGoodビックリマーク

実は宿場町などでは、あるあるの形状なのだが、当時のまま400m超の長さで水が流れるのは、非常に貴重な景観だ上差し

↓本丸西面石垣
島原城の石垣が見えてきた。
たっケー!!
いきなり度肝を抜かれる仕事っぷりおーっ!

規模が大きいのが一目で知れた。

なので、もう入らず次の目的地へ、って訳にはいかないてへぺろ

本丸の北に二ノ丸、三ノ丸と縦に並び、本丸・二ノ丸部は広く深い水堀が囲むという構造。

↓西南隅より
何じゃあ、コリャあビックリマーク
修復工事なんて聞いてないよ~えーん

石垣の残念な景観ショボーン。。

西南にある本丸への入口は、本来無かったもの。石垣の上に見えるのは、西の櫓

↓本丸西内堀
土橋の上から堀を見下ろす。

堀には水が満々と貯められるではなく、名残り程度の水量。まぁ空堀でも十分な防御力やけどね。

堀の外側にも石垣が見えるが、果たしていつ頃積まれたものか。

↓島原城復興天守
本丸へ突入するや、ドドーンと天守キラキラ。。

当時の資料などが少なかったため、こんな感じやろう、と1964(昭和39)年、鉄筋コンクリート造りで復興。復元とは言わない。

↓島原城天守
破風の無い層塔型でありながら、廻縁もあるよ。
背ぇたっかービックリマーク

高さは33mで、大阪城、名古屋城に次ぐとか。五層五階、昔のは四層五階だが高さは同じくらいだ、といわれている。

↓天草四郎像
天守の裏側にある、天草四郎像十字架。緑色バージョン。
反乱軍の首魁が、敵であるご領主様の城内に堂々立つ。。まさかこんな事になるとは、当時の人には考えられなかったはずだ。

↓買ってしまいました。
現地の島原七万石武将隊も、天草四郎時貞、松平忠雄、有馬晴信(高力忠房?)という編成となっていた。

・・・あれはてなマークその後増えたり減ったりしてるなぁ。それにしても松倉重政役、よう引き受けたな。

↓天草四郎像と若き日の信長像
隣には、岐阜城で見た信長(島原と縁もゆかりもない)が。

実は西望記念館(巽櫓)というのが背後に建っており、銅像の製作者・北村西望氏(1884―1987)が島原市の出身だということだ。

この若き日の信長像は、以前は原城跡にあったが、現在はここに移されている。

↓巽櫓(西望記念館)
これがその巽櫓(西望記念館)
1972年 復元。

丑寅の櫓(民具資料館)と似ていてふたご座、どっちを撮ったものか、なかなか判別つかなかった。
手前の胸像が決め手となった。

↓丑寅の櫓(民具資料館)
ね、似てるでしょうはてなマーク
こちらのほうが、各層がやや平べったい印象だ。
1980年復元。

↓島原城天守
なお、天守は令和4年7月から修復工事に入り、9月現在は覆い隠された予防状態だ。

↓島原城天守(北面)

~島原城年表~
  • 1618(元和4)年 松倉重政が築城開始
  • 1624(寛永元)年 主要部分がほぼ完成
  • 1637(寛永14)年 島原・天草の乱ナイフ勃発
  • 松倉重次、責任を問われ斬首刑となる(切腹以外による、江戸時代を通じて唯一の極刑)
  • 翌年 高力忠房が城主に
  • 1669(寛文9)年 松平忠房が城主に
  • 1707(宝栄4)年 松平忠雄が「島原大概様子書」作成メモ
  • 1749(寛延2)年 戸田忠盈が城主に
  • 1774(安永3)年 再び松平氏が城主に。以降明治維新まで松平
  • 1792(寛政4)年 島原大変(寛政の大地変)が起きる
  • 1874(明治7)年 廃城令が出され、土地建物が民間に払い下げられる
↓本丸北側の鏡石
天守開城までまだ少し時間がある。本来の登城口である、二ノ丸からの導線を確認しに、北側へ降りていこう。

隅石に巨石を縦積み。豪快だ。

↓本丸・二ノ丸間の堀
そして正面に見えるのが二ノ丸跡に建つ島原文化会館。
ご覧のように一旦堀底まで降り、二ノ丸から来れるよう、階段がついている。

水を張ってた往時は、向こうまで橋を掛けていたのだろうか。

↓本丸・二ノ丸間の堀底
堀底に近い所から。
左が本丸、右が二ノ丸。

↓本丸北面石垣
反対側にカメラカメラを回す。本丸石垣。

↓鏡石
文化会館外にある時鐘櫓まで行きたい所だが、時間が無い。本丸へ戻る。

戻る際にも、巨大な鏡石発見。
いや、他の石との差がハンパないっしょビックリマーク

↓天守台
天守のオープン時間が迫ってきた。
改めて天守台にも注目しておこう。

発掘調査モグラで、天守の石垣は今よりも広範囲にあった事がわかってきたらしい。

いうことは、もっと横にも広い立派な天守だったのだろうか。やり過ぎやろビックリマーク松倉重政。

↓天守からの眺望_北
まだ9時になってなかったが、入城OKとなった。
内部は主に切支丹関連十字架などの資料館で、ざっくり見てから最上階展望廊下へ。

北は文化会館のある二ノ丸跡。その奥の学校辺りが三ノ丸跡

↓天守からの眺望_北東
有明海船。沖田畷の碑があるのもあの辺か。

↓天守からの眺望_東
川の名、湾の名はちょっとわからなかった。



つづく。。。