島原観光!!! | 新・ぷにゅたの城跡フェチ in主に西日本

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車を持たないぷにゅた。ほぼ公共交通機関のみで行く、城・城跡・戦場・墓などをご紹介。

八代から在来線電車にて北上し、熊本へ。
熊本城、行くと思たら行かんのかいビックリマーク

熊本港へ向かうバスバスに乗り込む。

↓白川
途中見えた川は白川でしょうビックリマーク
水源は名水百選キラキラにも選ばれている。
天井川で、豪雨雷となるとしばしば氾濫みずがめ座し被害をもたらしてきた。

加藤清正節分が治水事業に力を注ぎ、熊本城の外堀の機能も果たした。

↓有明海
海が見えてきた。有明海船だ。

写真右端に見えているのは、熊本港の埠頭の先端。

↓フェリーくまもと
乗ってるフェリーから見た、別のフェリー船

有明海を横切り、熊本から島原半島へショートカットできる。

↓海苔の養殖
海苔おにぎりの生産量は、国内の4割を占めるという。

整然と並んだ養殖場が見渡す限り何列も、遥か向こうまで続いている。数字は納得だ。

↓島原半島が見えた
約21kmを30分程で島原へ。
手前に眉山と七面山、奥に雲仙普賢岳が見えてきた。

↓カモメ
カメラの正面に捉える事はできなかった。ウミネコおすましスワンかも。
入港間近になると、たくさん寄ってきた。これは、、
  • スクリューに巻き込まれた魚を得るため
  • 省エネで飛ぶ推進力を得るため
  • 人間が餌くれるのを期待して
  • 帰港する人々を歓迎して(笑)
など、諸説あるようだ。

↓島原半島広域マップ
降りてすぐあった広域地図。
島原港は地図の右端。

さて、まず最初に向かったのは・・・

↓沖田畷古戦場跡碑
島原外港から23号線沿いに北上、タクシーで9分。右手に案内があるので歩いてどんどん奥へ入っていく。

工場の裏手にあるので、地元でも知らない人も多いようだ。沖田畷古戦場跡 龍造寺隆信供養塔。(おきたなわて)

この戦いは龍造寺と有馬・島津連合軍が激突し、龍造寺隆信が討死に。この辺りが激戦地ナイフだった。

↓沖田畷古戦場跡_説明

龍造寺隆信くまはいわずと知れた佐賀の大名。


天正12年(1584年)、隆信は有馬晴信を討伐すべく大軍を率いて島原半島へ上陸。有馬氏は薩摩の島津に援軍を求め、島津家久が合流。


龍造寺軍25000vs有馬・島津軍8000だったが、地理に不案内なのもあったのか、隆信は島津軍の川上忠堅に討ち取られナイフ、龍造寺軍は壊滅悲しいした。


この供養塔は、この辺りにあった両軍の戦死者の祠を一箇所にまとめて、昭和4年に建立されたもの。


↓沖田畷古戦場跡碑_拡大
また、近くの二本木神社神社には、龍造寺の家臣のうち、この地に住み着いた人々によって作られた、隆信の霊を慰めるための祠が祀られている。

↓鯉の泳ぐまち
タクシーさんにわがまま聞いてもらい、南へ反転。インスタ映えキラキラを狙って、道の側溝に鯉が泳いでいる、というスポットへ。

島原は、雲仙から流れ出しているので、水がとてもキレい。

・・・全っ然いねーし。。どこ探しても、この3匹しかおらんで~。。

↓清流亭の鯉
タクの運ちゃんの薦めにより、立ち入り無料の清流亭観光交流館へ。

ここの池には、おったおった。でもこれ・・・特別感は無いかもキョロキョロ

運ちゃんの話では、側溝のは水温の問題か、付近の野良猫猫に食べられてるか魚の骨、でうまく冬を越せないとの事だった。

7月にまた新たに放流するらしいが、訪問は3月、ちょうど居ない時季だったようだ。

↓浜の城跡碑
タクシーを待たせているので、ダッシュで公園を横切る。浜の城跡碑というのがここにある。

↓浜の城跡_説明
何も残っていないが、島原中央公園付近一帯が城跡だったようだ。

島原城が築城される前、ここ(当時は浜辺)にあった城。城主は島原氏。

そもそもこの浜の城の島原氏を後詰めするために龍造寺軍が動き、沖田畷の合戦へと繋がったのだ。

↓江東寺_山門
再びタクシーで2分、商店街のアーケードの中にあるのでそこは歩いて、江東寺(こうとうじ)

有馬晴信の弟の僧侶が1558年に開基。
1624年、島原城主・松倉重政が菩提所と定め、江東寺と名を改めた。

↓江東寺_本殿
キリスト教十字架を弾圧し苛政を布き、島原の乱の要因を作った松倉重政
乱を鎮圧するべく幕府に派遣され、討死した板倉重昌

島原の乱に関わりのある2人の墓が、江東寺にあるという。これは行かねば。。

↓涅槃像_仏足石
墓のある方へ境内を歩いていくと、、
・・・何、これはてなマーク

寝大仏こと涅槃像(ねはんぞう)ふとん1は、この寺の名物。
大仏を見に行くと、まず足の裏あしを拝む事になる。
足の裏に大法輪の相が刻まれたのは、日本初だった。。

↓涅槃像
鉄筋コンクリート造りの涅槃像としては日本最大びっくり
松倉重政・板倉重昌を供養するため、昭和32年に造られた。

↓境内_説明

↓松倉豊後守重政公墓
松倉重政ははじめ筒井家に仕え、筒井家改易後は、大和二見に1万石で領地を得る。

その後、大坂の役ナイフでの功により、肥前日野江に43000石に加増転封される。

↓松倉豊後守重政公墓
分不相応な巨大な城(島原城)を新築するなどのため、領民から苛酷な取立てを強行ムキー
また、切支丹十字架に対しては、非人道的な弾圧叫びを行った。

そんな彼だが、意外にも前の領地・大和二見では善政を布き、名君凝視として今なお親しまれているというびっくり

彼の死後、跡を継いだ息子の松倉勝家は、父をも上回る圧政と弾圧を行い、ついに領民が蜂起した(島原・天草の乱)

↓板倉内膳重昌公墓
板倉重昌は板倉勝重の子で、三河深溝19000石。島原の乱が起こると、徳川家光の命で追討使に任じられる。

緒戦から一騎勢の猛烈な抵抗にあい、膠着状態に。松平信綱が上使として九州に向かっていると知ると、死を覚悟して総攻撃を行い、敵の銃弾銃に倒れた。享年51。

↓板倉内膳重昌公墓

↓松倉重政・板倉重昌の墓_説明
1792年の島原大変・眉山崩壊により、両しげまさの墓は流失、埋没してしまっていたが、1800年代に墓(写真のやつ)が再建された。その後、元の墓石も発見され、それぞれ同じ場所に安置している。

↓島原港
島原の町を堪能し終わり、同じタクシーで宿泊先にまで送ってもらった。タクシーの運転手さん、ありがとうございましたビックリマーク


って、旅館の部屋からの眺望船、素晴らし過ぎひんはてなマーク
港に入ってくるフェリー船、バッチリ拝めるやん。。ていうか、フェリーの汽笛、音でかすぎ驚き。。

↓朝日に輝く島原港
夜は島原名物・具雑煮(ぐぞうに)鍋など、豪華な旅館の食事を満喫。
量多すぎて、デザートまでよう食べ切れんわ~よだれ



おわり。。。