ぎふメディアコスモスで自転車を返し、バス
に乗って岐阜駅へ。
岐阜駅南口にあるポートで再びレンタサイクルし、ここからは駅南側を攻める。
ぷにゅた:「加納城は歩いては遠いですか」
サイクルポートのおばちゃん:「え」
「加納公園は遠いですよね」
「ああ、何も無いですよー。」
↓光国寺
下調べをしている時に見つけたスポットへ立ち寄る。
何でも家康の娘・亀姫の墓があるそうで。。
岐阜駅からチャリ5分くらい。
創建は慶長19年(1614)、亀姫の屋敷内に菩提寺として設けられた。
寛永2年(1625)、享年66歳。五輪塔が建立された。
なお、勝手にズカズカ入ってしまったが、拝観には許可が要ったらしい。ご注意下さい。
どうりで犬にめっちゃ吠えられた。
↓亀姫の墓
母は築山殿。兄は信康。異母弟に秀忠。
長篠の戦いで、奥平信能は長篠城を守り抜き、翌年亀姫が嫁いだ。
それらの功で、奥平家は1601(慶長6)年、美濃加納に10万石を得る。
母譲りの激しい気性で、夫は生涯妻一人だった。
近くに「亀姫侍女十二相神(じゅうにそうしん)の墓」というのがある。
亀姫が怒って手討ちにさせた侍女らが祀られているとか。
ブルブルガクガク。。
↓名鉄名古屋線
赤いボデーが特徴的な。6800系か
シャア専用では無い。
岐阜⇔名古屋は、JRの方が早くて安い。
それでも名鉄に乗るメリットは、「空いている」事に尽きる。
↓加納宿高札場跡
清水川(新荒田川支流)に沿って南下した。
偶然見つけた説明看板。遺構は特に残っていないが。
↓加納城大手門跡
これも行きがけに通っただけの「加納城大手門跡」。
当時は二ノ丸、三ノ丸なども含む広い城域があった。
その北側に大手門が設けられていたようだ。
↓加納公園_北入口
光国寺からチャリ10分くらい。加納公園に着いた。
加納城本丸には本来、北側に入口は無かった。
↓加納公園案内マップ
加納城年表
- 1445年、斉藤利永がこの地に沓井城を築く。
- 1600年、関ヶ原の戦
で織田家が改易。岐阜城は廃城となる。
- 奥平信昌が10万石で入封。1602年、加納城を築城開始。
- 1632年、大久保忠職が城主に。
- 1639年、戸田光重
- 1711年、安藤信友
- 1755年、永井直陳
- 1872年、廃城令により破却、売却。
↓ありし日の加納城マップ
5つの曲輪(三の丸、厩曲輪、二の丸、本丸、大薮曲輪)を堀と川で守り「水に浮かぶ城」という景観だった。
また、石垣、建材などは岐阜城、革手城から運んだという。
本丸北西には天守相当の三重櫓があった。
↓加納城_説明
↓加納公園のようす
公園内は市民憩いの場となっていた。
近くにこんな場所があるって、ウラヤマシイな~。
↓土塁
城の周りはぐるっと土塁に囲まれている。
土塁は、城外から見ると、石垣で固められている。
↓土塁上の木
何の木だろうか根元で折れ曲がっているが、歴史を感じる木
だ。
↓土塁の上より公園内を見る
土塁上に、ところどころ遊歩道が付いていて、犬のお散歩などに良いかも。
・・・糞はちゃんと持ち帰ってよ。。
↓北入口脇の北面石垣
土塁に乗って歩いたらまた北入口に戻ってきてしまった。
ここから反時計回りに一周して、加納城石垣を外から見てみよう。
まずは外側から見て、北入口右手の石垣。
ここらが一番高く積まれているように思える。
↓天守台石垣
本丸北西隅が、ちょうど天守が建っていた場所。
という事だが、石そのものは割とデカイものの、あまり高さがない。
あるいは一部崩れて(崩されて)しまったのだろうか
↓西面石垣
荒々しい野面積み。
↓西面石垣2
崩れた箇所だろうか。石垣の高さに波がある。
↓西南隅の石垣
ちょっと引きの画像も欲しかったな~、、
まあ、夕暮れが迫ってきてたのでアセッていたのかも。。
↓加納公園_南入口
半周して反対側の入口に。
往時は「臆病門」という名の門があり、内枡形の形状となっていた。
↓南東隅の石垣
何か・・・苦労して積み重ねました感がスゴい。。
この上にも櫓が建っていたようだ。
↓南東隅の石垣2
横から見ると、この辺はある程度加工してから、落とし積みしている印象を受ける。
後世に積み直したんだろうか。
↓張り出し部の南東隅石垣
手前が本丸張り出し部の南東隅部。
奥に見えるのが一つ前の写真の箇所。草に覆われてて見づらいか。
↓東面の石垣
加納城のおススメスポット。
加納公園北東にあるテニスコートとの間の道を南下、
途中、右に折れて袋小路になっている道へ。
ここの石垣はまさに「城壁」という感じで、完成度高め。。
↓東面の石垣2
反対側へカメラをまわす。
↓北東隅の石垣
北東隅。ここは民家がすぐ傍に迫っている。
これでほぼ一周した事になる。
↓革手城跡_外観
加納城からさらに南下すること、チャリ4分くらい。
「革手城跡」のあった場所は、案外すんなりわかった。
済美高校生のための道、みたいな所にあり、下校時間のピークとかちあわなくてヨカッタ。。
↓革手城_説明
川手城年表
- 1353年、土岐頼康が築城、土岐氏の本拠地となる
- 1494年、土岐氏の相続をめぐり、船田の戦い
。城は一時的に焼失
。
- 1530年、斉藤道三が土岐氏を追放、本拠を稲葉山とし、川手城は廃城。
↓史蹟 川手城跡碑
城郭というより居館だったようで、現在は何も残っていない。
往時の川手はとても繁栄し、西の山口(大内氏)東の川手、と言われた。
↓革手城前のようす
↓新荒田川
城南橋から。
川手城は荒田川と現・境川に挟まれた自然の要塞だったという。
いよいよ日暮れが間近に迫ってきた。。
早くおうちに帰ろうっと。。
おわり。。。