蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)から南下し、いよいよ本丸へ突入しまっせ
と、その手前に広がる三之丸跡。
↓三之丸跡
奥に見えるのが蟠龍櫓。南側から振り返った場面。
さらに通りを横断して、本丸への入口を探す。
↓桑名城天守跡
プールの駐車場入口みたいな所からズカズカ奥へ進んでいく。
おお、見えたどうやらこっちからでも、無事本丸へ行けそうだ。
↓戊辰殉難招魂碑
到着。といっても天守はおろか天守台すら残っていない。
天守台っぽく石垣が積まれた上にあるのは、戊辰殉難招魂碑(ぼしんじゅんなんしょうこんひ)。
戊辰戦争での桑名藩士犠牲者を追悼して、1887(明治20)年天守台跡地に建てられた。
幕末に城主だった松平定敬(さだあき)は、会津藩主・容保(かたもり)の弟。
なので幕府方についたが、結局味方の裏切りにより桑名城は明け渡されてしまった。
そのため、会津藩に比べて桑名藩の悲劇はあまり知られていないが、京都の鳥羽
で主力を努めたのは桑名藩だった。
当然、多くの死傷者が出た事だろう。。
↓天守台跡_説明
絵図は城の整備が完了した頃(1635~1651年頃)のもの。
天守が描かれているが、1701(元禄14)年の火災で焼失してしまったようだ。
↓桑名城城主?
殉難碑の前に、どっしりと構える無防備な城主のニャン子が。。
カメラを手に近付いても、眠さには勝てないようだ。。
事後調査によると、目立たない場所に本丸跡の石碑があったようだが、見逃した。。
裏手から入ったためか、目立つ殉難碑に目を奪われたからか。
↓辰巳櫓跡
鎮国稲荷・守国神社の南側には広場があった。そこが本丸。
そして南東端まで来ると、こんもりした所に看板を発見。
近付いてみよう。
↓辰巳櫓跡_説明
辰巳櫓跡。古い絵図では三重の櫓が描かれた。
天守焼失後は、実質天守の役割を果たした。
明治維新のさい、降伏のしるしとして、新政府軍によって焼き払われた。
↓辰巳櫓跡の大砲
辰巳櫓跡に登ると、由来不明の大砲が置かれている。
他サイトから引用すると、『鋼鉄製でライフリングがない前装式の滑降砲。このことや砲身の長さから考えると、明治以降の山砲や榴弾砲ではなく、幕末期のカノン砲』である可能性が高い。
さては幕末期、ここ辰巳櫓に据え付けられてて、戊辰戦争で使われる事なくここに飾られる事となったのだろうか。
背後に見える九華球場。狭いので佐藤輝が撃ったら堀ポチャだろう。。
球場は、朝日丸跡+埋め立てて作られたか。
↓① 辰巳櫓跡から見る二之丸
辰巳櫓は本丸の南端にあり、そのすぐ南は濠となっている。
あとであの橋を渡って、二之丸をぐるりしてみよう。
たぶん後世に改変されてて不確かだが、橋の先の陸地は「朝日丸」の南辺かもしれない。
↓神戸櫓跡
本丸南西へ移動すると神戸櫓(かんべやぐら)跡が。
もともとここには「東城」なる城があったが、伊藤氏が信長の伊勢侵攻に屈し、廃城に。
その後、一柳直盛が城主の頃、跡地に神戸城から天守を移築した。
↓② 神戸櫓跡から見る二之丸_正面
ここからは公園案内マップを加工して、どこから撮ったものかわかるようにしてみた。
上の写真②は、下図②の角度から見たとこ。
↓③ 神戸櫓跡から見る筏橋
上図③の角度で見たとこ。
↓④ あづま屋から東方向の二之丸堀
下図④の角度から見たとこ。
堀の名称が記してあるが、果たして合っているのか気になる。。
堀中にある曲輪(二之丸)の、北側(図では左)を吉之丸堀、南側を二之丸堀と現在では呼んでいるのだろうか
江戸時代の絵図を見ると、孤島が二之丸で、その南に吉之丸となっているから、逆だろ。。
↓見比べ用・「伊勢国桑名城図」
(出展:三重県総合博物館サイト)
↓
正確には、北側が「本丸南の堀」、南側が「二之丸堀」、だと思う。
↓⑤ 二之丸へ向かう橋より
上図⑤の角度から見たとこ。
↓⑥ 2つの二之丸間の橋より南方面
下図⑥の角度から見たとこ。
↓⑦ 二之丸橋
上図⑦の角度から見たとこ。
↓亀
たぶんミシシッピアカミミガメ(ミドリガメ)。めっちゃぎょーさんおった。。
外来種。濠の生態系を食い荒らし、増殖したのではないだろうか。
駆除して、鉄腕ダッシュの「グリル厄介」のコーナーで調理してもらって食すべきか。
↓⑧ 二之丸の西端(奥平屋敷跡)へ向かう橋
下図⑧の角度から見たとこ。
水質も、だいぶん淀んでいるかもしれない。池の水全部抜くには、濠の面積が広すぎる。
噴水設備とかでも、改善するはずなのだが・・・
↓⑨ 奥平屋敷跡
上図⑨の角度から見たとこ。
↓⑩ 二之丸堀を西より見る
下図⑩の角度から見たとこ。
堀の名称を何と紹介すべきか分からないので、全て「二之丸堀」で統一しちゃいます
↓⑪ 筏橋
上図⑪の角度から見たとこ。
つづく。。。