長島城を後にし、いよいよ桑名城攻略に乗り出す。
(やっとかよ)
↓桑名市マンホール
観光案内所はコロナのせいで閉まっていた(訪問は2021年9月)ため、レンタサイクル
できず。
仕方なく歩いて桑名城を目指す。
道中見つけたマンホール。
七里の渡と伊勢大橋が描かれる。
最近マンホールまで撮りだし、写真点数がかさんでしゃーない。。
↓多門橋より堀川南を見る
まずは三之丸の外郭にある堀・多門堀にかかる多門橋に着いた。
この堀の外壁に、一番桑名城の遺構である石垣が残っている。との事だ。
写真奥に見える赤い橋は中橋。
↓舟入橋より三之丸堀北を見る
多門橋を渡り、さらに東へ進む。
続いてもう一個の橋・舟入橋から北の三之丸堀の様子。
この堀は現在では揖斐川に通じていないので、その名のようには船は入って来れない。
通じていないように見えるが、写真奥の所から取水はしてるだろう。
↓本多忠勝像
舟入橋を渡ると、すぐさまキタコレ。。
威厳に満ち満ちた本多忠勝公が、お待ちかねだった。
駅からここまでは、歩いて17分程だ。
逆光のため、お顔の様子は、ようわからん。
背中で語る男・平八郎。
家康の側近にして徳川四天王のひとり。
関ヶ原などでの功により、桑名城主となった。
背後の蜻蛉切(とんぼぎり)が長すぎて、先端までとても取りきれない。
↓多門橋より堀川北を見る
銅像からUターンして多門堀まで戻ってきた。ここから北上し、先に七里の渡や蟠龍櫓を見に行く。
北方面にも石垣が続いている。
揖斐川や海に通じているため、現状からはこっちが“舟入”となっているのだが、それは言わない約束だろ。。
写真奥のは、北大手橋。
↓伊勢国一の鳥居
大きな鳥居。
七里の渡し跡に、天明年間(1781~1789)に建てられた。
20年に一度の式年遷宮ごとに、伊勢神宮宇治橋の鳥居を移して建て替えられている。
↓旧蹟 七里のわたし碑
昭和56年建立の記念碑。
↓七里の渡跡
現在では堤防が築かれて、情景は昔とは異なる。
松の木こそが、この場の主役だろうか。
↓蟠龍櫓
そして七里の渡から見えた蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)。
1701年に天守が焼失したのちは、七里の渡近くにある蟠龍櫓こそが、桑名を象徴する建築物だったようだ。
ということで外観推定復元された(模擬)。
っていうか、水門の管理棟として建てられた(平成15年)。
二階は展示室。
だが、この時(2021年9月)はコロナのせいか閉まっていた。
現状、一般人が「桑名城」にいって存在するお城らしいものは、彼のみだ。
残念。。
↓揖斐川(北)
七里の渡の堤防の左岸より。
天気もよく流れも穏やか、実に美しい
。
上流(北)方面。伊勢大橋と養老山脈。
↓揖斐川(南)
下流(南)。長島スポーツランド方面。
そして、8kmにもわたる背割りの先端部をカメラは捉えていた
背割より奥が長良川。つまりは、揖斐川・長良川合流地点だ。。
合流地点とか先端とか、こういうのめっちゃ気になる~。。
堤防左岸より再度蟠龍櫓を。
すぐ左手がもう揖斐川と分かる。えもうわかったって
↓住吉浦
川沿いに少し遡ってみよう。
ほどなく住吉浦で、廻船の舟溜りとして整備された。
昔の絵図を見ると、大体この位置に外堀っぽいものが描かれている。
堀跡を整備して、舟溜りとしたのだろうか。
とはいえ、こちらも現状では多門堀(堀川)にその機能を奪われているようだ。
↓住吉神社
1715年(正徳15)年、廻船の海上安全を祈念し、大阪の住吉大社から勧請して創建。
左右の石燈籠は廻船業者から寄進を受けたもの。
↓六華苑の長屋門
少し足を伸ばして六華苑(ろっかえん)まできた。
六華苑とは、明治~大正の桑名の実業家・旧諸戸氏庭園の事で、洋館と和館、庭園などが有名。
大河ドラマ「いだてん」の撮影にも使用されたという。。
せっかく足を伸ばしたが、ここもやはり閉まっていた。涙。
↓東海道五十三次
泣く泣く七里の渡まで引き返してきた。
舟入橋からここに至る道は、旧東海道だったのか、へ~。
↓七里の渡跡_説明
今さら説明を読む。
東海道はここから海上で宮宿(熱田神宮前)へとつながる。
橋が頼りなかった時代は、誰もが船に乗ってここを通過したというポイント。
↓蟠龍櫓_説明
そして、今さら蟠龍櫓の説明。
蟠龍というのは、龍が天に向かって伸びる直前うずくまっている状態を指すのだとか。
↓蟠龍櫓4
その2では、いよいよ本丸に突っこむわよ
つづく。。。